Blue hour-18

海辺での再会

 さっきうとうとしたので、眠気はない。ログハウス調の天井を見つめて、ちらほら届く雑音が緩やかに落ち着いていくのを聴いていた。ロビーが消燈になる二十二時をまわり、零時も近くなってくるとさすがに静かだ。僕も寝なきゃなあ、と寝返りを打つと、ひなたの匂いのふとんをかぶってまぶたを伏せてみた。
 浅い眠りの中で、優空の夢を見た。初めて一緒にこの海に来て、砂浜で想いを打ち明けあって、ツインルームなのに同じベッドで眠ったときのことだった。添い寝以上のことはしなかったけれど、優空はかたわらに横たわる僕を見つめて、「真永くんが隣にいる」と嬉しそうにつぶやいた。僕は優空の頬に触れ、指がすりぬけないことで、夢を見ながらこれが夢で、優空は亡くなったことを思い出した。
「優空さん」
「うん?」
「ずっと一緒にいられるといいね」
「うん」
「僕は人として出来損ないって思ってたし、言われてきたけど」
「……真永くん」
「優空さんの彼氏としては、誰にも負けたくない」
「負けないよ。真永くん以上の人なんていないもん」
 あのとき交わしたままの会話だ。僕は優空の瞳を見つめた。僕にだって、優空以上の人なんていない。それは、君が亡くなっても変わらないのに、新しい人と幸せになってねと君は手紙を残した。そんな人、本当に、僕が見つけられると?
 明け方、僕はブルーアワーを見るためにペンションを抜け出した。闇に包まれた通りを歩き、靴音を残しながら海に向かう。涼しい潮風の匂いがして、波の音が耳に潤ってくる。暗くて頼りない足元で浜辺に出て、夜空から月が沈みかけているのを見つけた。波打ち際ぎりぎりに立って、ひっそりうつろう空の色を見つめる。
 青の気配はないなあと思っていると、ふと、背後にさくさくと砂を踏む足音が聞こえた。もしかしてと僕はぱっと振り返る。
「あ、」
 僕が声をもらすと、まだ暗い中で、その子も僕を見てまじろいだ。毛先の跳ねたボブカット、大きな瞳、Tシャツとスウェットの細身の軆。心寧ちゃん、だったろうか。あの茶色のビーグル犬もいる。男はいない。彼女はリードを引っ張り、犬と共に僕の背後で立ち止まった。
「え、えと……あれ、夏のおにいさんですよね」
 夏のおにいさん、という呼び方に苦笑してしまっても、「連休取れてひとりで来たんだ」と僕は答える。
「そうなんですか。夏にしか来ないのかと思ってました」
「夏以外に来るのは初めてだよ」
「あ、やっぱそうですか。またこの時間にお散歩ですか?」
「今日はブルーアワーを見ようかと」
 心寧ちゃんはぱたぱたとまばたき、「憶えてたんですね」と僕の隣に並ぶ。確かリュカという名前の犬は、渚の水泡にじゃれて前脚を伸ばす。
「その話は印象深かったんで」
「そっか。まだ暗いですね」
 心寧ちゃんは海原を見やり、僕も水平線の飲みこむような黒を向く。
「あの」
「はい」
「昨日こっちに着いて、夕方に一瞬見たよ」
「え。ああ、夕方のブルーアワーですか」
「いや、その──君が男とリュカと歩いてるの」
 心寧ちゃんは僕を見上げて、首をかたむけたあと、「ああ」と思い当たったように笑った。
「あれ、おにいちゃんですよ」
「おにいちゃん」
「けっこう背の高い人ですよね」
「あ、うん」
「リュカが何か吠えたと思ったら、おにいちゃんだったんです」
 そういえば、あの後ろすがたを見る前に犬の鳴き声は聞いたような──「彼氏と持ち直したのかと思ったよ」と僕が正直に言うと、心寧ちゃんは噴き出した。
「あいつとはとっくに別れました」
「そうなんだ」
「結婚したら、お前の旅館は俺のホテルに吸収するとか言われたんです。完全に親の言いなりになって、お金のことしか考えてない」
「彼氏もこのへんの宿屋街の?」
「そうです。ホテルだから、今一番、集客率はありますね。でも、私は自分の旅館続いてほしいし、そもそもホテルの支配人の若奥様とか柄じゃないし」
「自分の家継ぎたい?」
「うちはおにいちゃんとその奥さんになる人が継ぐ予定です。私は私で、旦那さんになる人と新しい宿を他県でやりたいです」
「旦那候補、もういるの?」
「いないですねえ。あいつと子供の頃からずっと一緒だったから。幼なじみなんですよ。ほかの男の人はあんまり接したことなくて、分からない」
 吹いた海風に揺れた髪に触れ、「もうあいつとは険悪になっちゃって」と心寧ちゃんは息をつく。
「一番仲がよかったのに、今は顔合わせたら悪態ばっかです」
「結婚したかったからこそ、態度が裏返ってるんじゃない?」
「……そうかもしれないですけどね。でも、私はもともと何となくつきあって、友達の延長みたいな感覚が抜けなくて。幼なじみって、そんな甘いものじゃないですよ」
 心寧ちゃんの睫毛の先が落ちる横顔を見る。「だから、」と心寧ちゃんも僕を向いた。
「おにいさんと彼女さんに、すっごく憧れたんですよね。あー、あんなふうに、そばにいて満たされてるのっていいなあって」
「そっか」
「彼女さん、おにいさんに愛されて、きっと幸せでしたよ」
「……うん」
「ふふ、今もきっとおにいさんを見守ってるから、あんまり話してると妬きもちされちゃいますね」
 波が潮の匂いと押し寄せ、爪先に届きかけてざあっと引いていく。濡れた砂が、ふっと水気を吸いこんで色を変える。リュカはいつのまにか、伏せの体勢になって海を見ている。
「今でも、彼女を夢に見るよ」
「夢」
「悪夢ではなくなったけど、彼女が亡くなったことを認識してて、夢の中でも『これは夢だ』『優空はもう生きてない』って考える。まだ、墓参りに行く勇気もないのに」
「彼女さん、優空さんっていうんですか」
「うん。優しい空って書く」
「おにいさんは?」
「清城真永だよ」
「真永さん。あ、私は実森心寧です」
 ペンションのご主人に聞いていたものの、僕は初耳のようにうなずく。
「心寧ちゃんの家、旅館なんだよね」
「え、はい」
「夏もここに来ると思うけど、たまには旅館もいいかなあ」
「いつもどこですか?」
「〈星月夜〉っていうペンションだよ」
黒原くろはらさんのとこなんですね。たまに食材いただいたりします」
「今、山菜だよね」
「ですねえ。というか、うちに泊まってくれたらすごくありがたいですけど、いいんですか?」
「いつものところは、夏は友達が泊まると思うし。いつ頃なら予約していいのかな」
「取る人は、すでに夏の予約取ってますね」
「じゃあ連絡先渡して──あ、スマホ持ってきてない」
「あ、私持ってますよ。電話番号教えてくれたら、折り返しの着信もつけておきます」
 ポケットのスマホを取り出した心寧ちゃんに、僕は電話番号を伝えた。心寧ちゃんはそれに発信し、僕のスマホに着信させた時刻も確認させてくれる。礼を言うと「いえいえ」と心寧ちゃんは僕の番号を登録してスマホをポケットにしまい、「あ」と思い出したように空を見た。
「そろそろ明るくなってきますね」
 言われて、僕もここに来た理由を思い出して空を向いた。まだ日の出前だ。でもそこまで太陽が昇ってきているようで、空の闇が薄らぎはじめ、青を深めている。夜明け前をわずかに過ぎて、でも朝は始まっていない、ほんの一瞬のブルーアワー。そして、ゆっくりと朝陽が現れてきて、まばゆい金色が透けて、空が柔らかい色に溶けていく。その光が顔に当たって、しんと冷たい空気の中でほのかに温かくて、まばたきのたび視界がきらめく。
「撮れるかな」
 不意に心寧ちゃんがそう言って、僕は隣を見た。心寧ちゃんはしまったはずのスマホをマジックアワーに向けていた。かしゃっとシャッター音が鳴る。そして画面を覗いて、「あー、ダメ、ただの発光写真だ」と苦笑いした。
「絶対にあの通りに撮れないですよねー。本格的なカメラなら撮れるのかなあ」
「僕の彼女もよく撮ろうとしてた」
「そうなんですか。綺麗に撮れてました?」
「いつも失敗してた」
「そっかあ。一度ばしっと撮ってみたいなあ」
 僕はあやふやに咲う。スマホで時刻を見たらしい心寧ちゃんは、「わ、もう仕込みの時間始まってる」と慌てたようにリードを引っ張った。リュカはすぐ立ち上がって、しっぽをぴんと立てる。
「すみません、私、帰らないと」
「ごめん、散歩なのに引き止めちゃって」
「いえっ。じゃあ、夏に来る日取り決まったら連絡ください」
「うん。そのときはよろしく」
「はいっ。それじゃっ」
 心寧ちゃんは手を振って、やっと歩けるのが嬉しそうなリュカと共に、砂浜を横切っていった。僕はそれを見送ると、波間がきらきらと朝陽を映して輝いていくのを眺めた。空はどんどん水色に透ける。ブルーアワーはあっという間だった。その時間になるまでの闇は長かったけど、訪れたら一瞬で朝になった。曇る心が晴れるときも、そんなものなのかなあなんてぼんやり考える。
 ペンションに戻って朝食を食べると、おみやげを選んだあとチェックアウトした。人の少ない海に立ち寄って、しばらく砂浜に座ってぼうっと過ごした。
 ちなみに、スマホについていた心寧ちゃんの着信は確認し、僕もその番号を登録しておいた。今年は旅館に泊まると希都にも言っておかないと。というか、新婚となっている希都と瑞奏ちゃんは、今年も僕と夏にここに来てくれるのだろうか。よく分からないけれど、機会を見て確認しよう。
 太陽が南中に届く前には立ち上がり、僕は汗をかきながら駅へと歩いて、電車に長く揺られていつもの町に帰ってきた。
 夜は部屋でゆっくり過ごし、翌日からはまた仕事だった。休憩室は、従業員のあちこちからのおみやげのお菓子でにぎわった。僕も部屋に引きこもってたよりは気分転換になったかなと思いつつ、デスクについてPCに向かう。
 夏に海に行くのは盆だろう。その頃の宿は確実に混みあうから、早めに心寧ちゃんに電話をかけ、旅館の予約を取った。「空いてるかな」と心配すると、『大丈夫ですよ』と心寧ちゃんは応じてくれた。『うちの場所とか分かります?』と訊かれ、そういえば目印も知らないことに気づく。「あの宿屋街の通りだよね」と言うと、『ちょっと路地に入るんです』と返ってきた。
『あ、入口にリュカがいますよ。お客様に吠えたらあれなので、小屋が階段の影になってますけど』
「じゃあ、リュカを目印にするよ」
『「旅館・実森」っていう看板は出てるのでそれも。看板の写真とか送りましょうか?』
「いいの?」
『もちろん。SMSでも画像送れますし。あ、おにいさんはSMSで画像受信できますか?』
「たぶん。じゃあ、お願いしておこうかな」
『了解です。撮ったら送りますね』
 その看板の画像を送ってもらったのをきっかけに、僕はたまに心寧ちゃんとSMSでメッセをやりとりした。お互い、状況は違っても恋人と離れてしまった状態なので、気楽に失恋について話をすることができた。僕にきょうだいはいないけれど、妹みたいな感じなのかなあと思う。
 あっという間に六月になり、僕は希都と瑞奏ちゃんの結婚式に出席した。和装の結婚式だったけど、白無垢の瑞奏ちゃんは相変わらずやんちゃに咲っていて、希都のほうが挨拶まわりにいそがしそうだった。僕は友人代表の手紙を読んで、希都に瑞奏ちゃんを大事にしてほしいということを伝えた。手紙を読んだあと、希都のご両親に声をかけられ、ふたりに僕は頭を下げ、おじさんとおばさんは優空のことを残念がってくれた。瑞奏ちゃんの親はいなくて、「あの子はもううちの娘だから」とおばさんは言った。優空の両親や聖空さんも、僕の親のことを察し、僕を家族だと言ってくれる。僕はそれが嬉しいから、きっと瑞奏ちゃんも希都の両親にそんなふうに受け入れてもらえて、幸せなんだろうなと思った。
 やがて夏がやってきた。希都と瑞奏ちゃんは、変わらず僕と海に行ってくれるそうだ。宿を取る連絡のとき、ひとり旅館に泊まると言ったのには少しびっくりされたけど、「僕がその旅館、気になったから」と言うと納得してもらえた。『もうすぐ会えますねー』と心寧ちゃんからメッセが来て、離れてもまたちゃんと会えるって何かいいなと僕は思った。

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