妹みたいな子
海に向かう車の中で、僕は希都と瑞奏ちゃんに少し心寧ちゃんの話をした。運転席と助手席のふたりは、赤信号のときに顔を合わせ、「真永が女の子の話するようになったかあ」「しかもけっこう仲良くなってるじゃん」と言った。「僕が客だから丁寧にしてくれてるだけだよ」と言うと、「その子の旅館に泊まるってことは、真永のほうは悪く思ってないんだろ」と希都はバックミラーの中でにやりとする。「それは、悪くは思ってないけど」と答えると、「進歩来たねえ」と瑞奏ちゃんまで言って、心寧ちゃんを異性としては意識していないことを、僕はうまく説明できない。「たぶん、友達だよ」とかろうじて言うと、「それでもいいことだと思うぜ」と希都は信号が変わったので正面を向いた。
ペンションの駐車場で車を降りて、希都と瑞奏ちゃんといったん別れると、僕はもらった写真に写っている旅館の看板を探した。まばゆい快晴に蝉の声が反響し、一瞬にして汗が絞られて喉が渇く。手のひらで顔を扇いで熱をやわらげながら、並ぶ宿をゆっくり確認していった。
ペンションから十分くらい歩いたところに、『実森』という文字がある看板を見つけた。路地って言ってたな、とその看板からひとつ目の路地に入ると、石畳の階段が構える旅館の玄関がある。水打ちしてある階段をのぼり、思い出して庭を見下ろしてみると、芝生が敷かれたそこに大きめの犬小屋があり、リュカが舌を出してはあはあと暑そうにしていた。「リュカ」と声をかけてみると、ぴくんと動いて黒い瞳に僕を映し、ぶんぶんとしっぽを振ってくれる。その反応に微笑んでしまいつつ、僕は『実森』の看板のある引き戸を滑らせ、ふっと涼しい広い玄関口で和風の内装にきょろきょろしながら、「すみません」と声をかけてみた。
駆け足が近づいてきて、「ようこそ、実森にお越しいただきまして」と着物を着た女の人が膝をついて頭を下げた。心寧ちゃんのおかあさんだろうか。丁重な出迎えにどぎまぎしつつ、「予約してた清城です。よろしくお願いします」と返すと、「清城様、お待ちしておりました」と女の人はにっこりしてから、「娘からお話は伺っております」と僕の荷物をさりげなく引き取る。「お部屋の用意、できておりますので」と女の人は僕にスリッパを勧め、僕は靴を脱ぐとそれに履き替えた。
木目の廊下を進む女の人の楚々とした足取りについていき、僕は『朝顔の間』に案内された。座敷の和室で、奥の窓には障子が引かれている。わりと広くて、お菓子の置かれた座卓やテレビもある。「すぐお茶をお持ち致しますね」と女の人はさがり、クーラーをつけた僕は、こういうところって心づけ出すんだよなあ、と財布からお札を出しておいた。
かなり静かな部屋だった。畳の匂いがするなあとか思いながら、スマホに希都の連絡が来ていないか確認していると、「失礼致します」と声がしてふすまが開いた。
「お越しくださってありがとうございます」
その声がさっきの女の人ではなかったので振り向くと、着物をまとった心寧ちゃんだった。「ほんとに来てごめん」とつい口から出ると、「いえ、嬉しいですよ」と海辺で会ったときとは違って化粧もしている心寧ちゃんは微笑む。そして、てきぱきと冷たいお茶を淹れてくれて、夕食の時間なども伝えてくれる。
僕はちょっと迷ったものの、「これよければ」と心づけを渡してみた。すると心寧ちゃんは「ありがとうございます」とわりとあっさり受け取ってくれたので、やっぱり旅館ではこういうのが普通なんだなと思った。
「ゆっくり話せたらと思ってたけど、よく考えたらいそがしいよね」
僕がそう言うと心寧ちゃんはまばたきをして、「夕方はリュカの散歩があるので休憩ですよ」とくすりとした。
「一緒にお散歩にでも行きましょうか」
「いいの?」
「はい。私もゆっくり話したいですし」
「そっか。あ、そういえば海の家には出てないんだね」
「真永さんのお出迎えしたかったので、今日はここにいました」
「はは。ありがとう」
「明日からは、また一日じゅう鉄板料理ですけど。今夜なら、仕事一段落したら、よかったら近くの居酒屋とかも行けます」
「じゃあ、落ち着いたらスマホに連絡してくれる?」
「はい。えへへ、楽しみにしてます」
心寧ちゃんは無邪気に咲うと、「じゃあ、夕方までごゆっくり」と頭を下げて部屋を出ていった。音もなくふすまが閉まり、夕方まではヒマなのか、とスマホを手に取ったら希都から着信がついていた。先に海に出ているそうだ。僕は軽く伸びをすると、荷物番しなきゃいけないよな、と希都たちに合流することにした。
五月と違い、砂浜は観光客ににぎわって、場所取りもむずかしいぐらいだった。その中でも希都と瑞奏ちゃんはパラソルを立て、海の家で調達したらしいおでんを、水着すがたで食べていた。「旅館どうだった?」と隣に座った僕に希都は尋ね、「意外と高級っぽかった」と僕は白波がきらめく海に目を細める。
「例の女の子は?」
「会えた。夜に軽く飲みにいくよ」
「お、ナンパしたのか」
「いや、何か……ゆっくり話したいだけだし」
「それでも、真永くんが女の子とまともに接するってなかったよねえ」
煮たまごを飲みこんだ瑞奏ちゃんもそんなことを言って、僕は首をかたむけ、「あんまり良くないのかな」と心配になる。
「良くないって何で?」
「優空のことどうでもよくなったわけでもないのに」
「どうでもよくはならないだろ。一生」
「……一生」
「その子は優空ちゃんのことも知ってくれてるんでしょ? いいんじゃない、気兼ねなくて」
「ん、まあ……」
「行ってこいよ。話したいと思えるなら、いろいろ聞いてもらえ」
僕は希都と瑞奏ちゃんを見て、「うん」とうなずいた。
それから僕は海の家で焼きとうもろこしを買ってきて、タレが香ばしいそれをかじった。希都と瑞奏ちゃんは今年もボードと一緒に太陽と海の中に繰り出し、元気だなあと僕はそれを見送る。
隣に優空がいない空白感が、去年よりつらくない。もちろん、優空がここにいたらいいなあとは思ってしまうけど──そういう弱い気持ちを、心寧ちゃんに話せたらいいなと思った。
日射しがかたむいてきて、希都と瑞奏ちゃんが戻ってくると、僕は夕方のリュカの散歩を思い出して、断って先に旅館に帰った。そして、石畳の階段をのぼらずに庭にまわってみて、リュカの小屋に向かった。すると、そこでは広い背中の男がしゃがんで、リュカに食事を与えていた。僕の気配を感じ取ったのかその男は振り返ってきて、「あ、お客様ですか?」と精悍な顔立ちをやわらげる。
「え……と、はい。今夜ここに泊まらせていただきます」
「そうなんですね。ゆっくりしていってください」
立ち上がったその人はかなり背が高かったので、「心寧さんのおにいさんですか」と僕はやや臆しながらも訊いてみる。するとその人はしばたいて、「心寧の知り合いなんですか」と驚く。
「知り合い……というか、まあ、少し話したことがあって」
「そうですか。あいつが哲基以外の男と話すのはめずらしいなあ」
哲基、は確か心寧ちゃんの幼なじみで、元彼の名前だ。
「あ、俺は芳磨といって、そうです、心寧の兄です」
「僕は清城真永です」
「マノリさん。ああ、もしかして心寧が話してた憧れのおにいさん?」
「えっ。……と、憧れ……かは、どうなんですかね」
「よく聞いてますよ。彼女さんにも憧れてるって」
「ああ──そういう意味では、憧れられてるらしいです」
「じゃあ、今日も彼女さんとここに?」
僕はちょっと言葉に詰まったあと、「彼女、亡くなっちゃって」となぜか正直に言ってしまった。芳磨さんは目を開き、「それは──」と同じく一瞬言葉に詰まったものの、「ご愁傷様です」と続ける。僕は曖昧に咲って頭を下げ、「心寧さんもそれは知ってくれてて」と視線をぎこちなく下げる。
「何かと、励ましあってる感じです。心寧さんも、その、彼氏とうまくいかなかったみたいで」
「はは、哲基の野郎ですか。あいつは不器用すぎたんでしょうねえ」
「不器用」
「昔から心寧に惚れこんでるんですけどね。それをうまく伝えきれないというか……」
「やっぱり、心寧さんと結婚したかったんでしょうか」
「そりゃそうでしょう。今でも俺には相談してきますよ」
「そう、なんですね。応援してるんですね」
「もうすでに弟みたいなもんですしね」
僕がうなずいていると、「あ、真永さん、ここにいたっ」と声が降ってきて僕は階段を仰いだ。着物でなく、軽装になった心寧ちゃんが降りてきて、さくりとスニーカーで芝生に踏みこむ。
「メッセしたけど、返信ないからお部屋見にいっちゃいました」
「あ、ごめん。戻ってきて、そのままおにいさんと話してて」
「リュカに飯やっといたぞ。散歩は心寧な」
「はーい。じゃあ、真永さん、行きましょうか」
「ん、一緒に行くのか?」
「うん。リュカも真永さん好きだよねー」
そう言って心寧ちゃんはリュカのかたわらにしゃがみ、リュカはぱたぱたとしっぽを振る。芳磨さんはそんな心寧ちゃんとリュカ、そして僕を見ると何やら含み咲い、「妹が懐いちゃってすみませんね」と僕に笑みを向けた。「僕にも妹みたいで嬉しいので」と言うと、芳磨さんは哄笑して「妹だとさ」と心寧ちゃんの頭をわしゃっとして、それから庭を出ていった。そんな芳磨さんを心寧ちゃんはなぜかふくれっ面で見送り、リュカの頭を撫でてから、「妹」と小さくつぶやいた。
「あんないいおにいさんがいるのに、僕が兄とか嫌だよね」
僕がそう言うと、心寧ちゃんはこちらを見上げて、「そういう意味ではないですけど」と手にしていたリードをリュカの首輪につなげる。
「……まあ、うん、妹ですよね」
僕は立ち上がった心寧ちゃんの横顔を見つめるものの、何を言えばいいのか分からない。心寧ちゃんはふうっと息を吐くと、僕に笑顔を見せて「行きますか」とリュカのこともうながした。僕はとまどいつつもこくんとして、心寧ちゃんとリュカと並んで、宿屋街の通りに出た。
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