永遠の夜明け前
その夜、優空の通夜が行われた。年の瀬だし、急だったけれど、優空の家族と恋人である僕のほかにも、友人や親戚も駆けつけていた。みんな涙が止まらないというより、茫然としていた。特に優空の友人は、二十四日に彼女とクリスマスのスタンプやメッセをやりとりした子ばかりで、信じられないようだった。訥々としたお悔やみの言葉を聞きながら、僕は涙に腫れた目を伏せて隠す。
「真永くん」
ふと名前を呼ばれてはっと顔を上げると、そこには、優空の友人の中でもとりわけ親しい親友だった梨苗ちゃんがいた。急いでやってきたのか、喪服ではなかったけど黒い服で、いつも通り髪を右肩で束ねている。
「梨苗ちゃん……来てくれたんだ」
「締め切りだったから、遅くなってごめんね。優空のこと……まだ受け入れられてないけど。真永くんは、最後までそばで見守ってくれてありがとう」
「何も、できなかったけどね」
「そんなことない。あの子を誰よりも支えてたのは、真永くんの存在だったよ」
その言葉に、少し微笑むくらいできればいいのに、表情どころか視線にも力を入れられない。「梨苗、いそがしいところごめんね」と聖空さんが声をかけてきて、梨苗ちゃんは優空の家族にもお悔やみを述べる。
一時間ほどで通夜が終わると、僕は部屋に帰宅した。葬儀と告別式は明日ということで、そのあと、火葬になるそうだ。その柩に入れて、優空に持たせたいものを選ぶため、僕はまだ寝ないつもりだった。
優空が好きだった本やCD、大事に寝室に飾っていた犬のぬいぐるみ、パスケースに入っていた僕との何枚かのプリクラ。そういうものを手に取って、そっとトートバッグに入れながら、また泣きそうになってきた。あんまり持たせたらあの細い腕には重たいよな、と思って、いったんバッグに入れても取り出すものもあった。お気に入りのマグカップ、通勤のバッグに下げていたうさぎのマスコット、デートのときにつけていたフローラルの香水。ようやく優空に持たせるものを選び終えたときには、午前一時もまわっていた。
僕はまだスーツのままで、それに気づいてやっと麻痺したような笑みがもれた。今日はろくに食べていなくて、こんなときでも空腹感はあっても、食事が億劫だった。スーツを脱ぐのも面倒で、かろうじてネクタイはほどく。リビングのふたりがけのソファに腰を下ろし、静かな室内で目をつむってまぶたに腕を当てる。
優空の静かな死に顔がよぎる。でも、眠るような最期ではなかっただろう。たぶん、ナースコールを押せなかったくらい苦しくて、そのまま亡くなったのだと思う。それでも死に顔に苦痛を出していなかったのは、僕や家族に心配を遺していかない、優空の必死の思いやりだったのだろう。
でも、暴れてよかったんだよ。苦しいって叫んで、誰かに気づいてもらってよかったんだよ。そうしたら、もしかして──。
三年くらい前に見つかった乳癌が始まりだった。再発を繰り返したので、手術は三回やった。三度目の手術では、ついに腫瘍がリンパ近くの動脈に絡んでいて、すべて切除できなかった。そして、その腫瘍が悪性だったと検査結果が出たのは、今月の頭くらいだったろうか。優空は僕と同じ三十三歳で、若いので悪性の進行は早かった。ちょうど一週間前、危篤状態になって僕も家族も覚悟したけど、それを乗り越えたからほっとしたところだった。
優空は確かに髪が抜けて痩せてしまっていたけれど、朦朧として精彩がないというわけではなかった。管につながれてやっと生きているという状態ではなかったし、話もできて笑顔もあった。
これが意識も混濁してしゃべることもままならないとか、そんな状態だったら「いっそ楽になったほうが」なんて思ってしまっていたかもしれない。でも、優空はまだ元気だった。もちろん軆の痛みや心のつらさはあったと思うけれど、まだ生きていておかしくない光が、瞳にはしっかり宿っていた。
なのに、こんなに手折られるように逝ってしまうのか。命ってこんなにもろいものだったのか。僕は昔、死にたいとよく思っている奴だったけど、死ぬことはできなかった。命って、なんてずぶとくてしぶといんだろうと思っていた。なのに、いざ風に当てられたら、こんなにも儚く散ってしまうのか。
僕が「死にたい」という言葉を口走ったとき、まだ病気じゃなかった優空は頬をふくらませて、僕の頬をつねって、「真永じゃなきゃ私は幸せになれないんだよ」と瞳を重ねてくれた。僕は優空を見つめて、彼女を遺していけないと思うことで、生きていけるようになった。
優空のそばにいたかった。幸せにしたかった。病気さえ割りこんでこなければ、とっくに結婚していただろう。同棲だって、そもそも結婚を前提にしていたのだ。僕はいつのまにか「死にたい」なんて、思わなくもなっていた。なのに、今、もし僕の命を引き換えにできるのなら、優空より僕が死ねばよかったと思う。
何で僕じゃないんだ。どうして優空なんだ。より多くの人に愛されていたのは優空じゃないか。その優空が何で連れていかれるんだ。僕なら哀しむ人もそんなにいなくて都合がよかったのに。
バカみたいだ。僕が死ねば優空が助かるなんて、そんなことは別になかったのに。それでも、一度は死を願った僕が生きて、たくさんの人に生を望まれた優空が死ぬなんて、そんなのおかしいだろ。
優空はもっと生きるべきだった。生きていいはずだった。なのに、彼女の命は絶対に取り戻せないところに行ってしまった。
僕はゆっくり息を吐いて、腕をおろしてから目を開いた。僕がこんなふうにスーツのままぐったりしていたら、優空は覗きこんできてやっぱり僕の頬をつねったんだろうな。「疲れてるなら、さっさと着替えて寝なさい」なんて言って。そういう何気ない生活が幸せだった。すごく幸せだった。手を伸ばしたら触れられる。当たり前のようにそばにいる。それが泡になって消えてしまったなんて、信じられない。
僕に優しい声をかけてよ。
名前を呼んでくれよ。
僕の涙を指ですくってくれ。
この世界に、ひとりにして置いていかないで──
そんなことをゆらゆら考え、熟睡できないままに朝が近づいてきた。思い出して、喪服を引っ張り出してくる。それを着る前に、熱いシャワーを浴びてひげを剃った。目は真っ赤に潤んでいて、湿った前髪を引っ張ってできるだけ隠した。喪服の上にコートを羽織り、優空の私物をつめこんだトートバックを忘れずに持って、僕は部屋を出た。
葬儀場では、綺麗に死に化粧を施された優空の遺体が、白い花の中で柩におさまっていた。その美しい顔色は、病気にかかる前の優空も思い出させた。触れてみようとしたけれど、何だかそうしたら壊れてしまう気がした。僕の心も。優空の軆も。だから触れずに、ただじっと見つめていて、やがて柩は斎場に安置された。
喪主はおとうさんだった。急死のショックが大きかった通夜とは違い、葬儀ではすすり泣きがちらほら聞こえた。僕はずっと奥歯で舌を噛んでいた。そうしないと、わざとらしいほどに取り乱して大泣きしそうだった。隣の聖空さんが涙目で僕の肩をさすってくれて、僕は震えながら、こらえきれない涙を何度も手の甲でぬぐった。
優空と過ごしてきた毎日が降りしきるようによみがえる。僕たちが出逢った春の日も、毎年海に行った夏の日も、一緒に暮らしはじめた秋の日も、君を喪ってしまった冬の日も。すべてがぐるぐると綯い混ぜになって脳裏をよぎっていく。
告別式も終わると、僕も火葬場に向かった。本来なら家族しか許されないが、おとうさんがこの人は優空と結婚するはずだったからと葬儀場の人に頼みこんでくれた。僕はトートバッグにつめてきた優空の大切なものを柩に入れた。おとうさんとおかあさん、そして聖空さんも思い思いのものを優空に持たせた。そして、火葬のあいだは葬儀場で待機した。
フロアの椅子に座ってぼんやりしていると、「真永」と呼ばれたので顔を上げた。すると、僕の幼なじみである希都がいた。もちろん喪服を着ていて、「来てたのか」と僕がぽつりと言うと、「優空ちゃんのおねえさんが連絡くれた」と希都は僕の隣に腰をおろす。僕は額を抑え、「僕からできなくてごめん」と謝る。「気にすんな」と希都は言って、「ひとりで抱えこむなよ」と僕の肩をたたく。
「俺はいつでも、話は聞けるから」
「……うん」
「優空ちゃんにも、お前のことよろしくって言われてたしな」
「そう、なのか」
「うん。一応連絡先知ってても、めったに何もなかったんだけどな。今月に入ってすぐくらいのときに」
「………、悪性って分かったときかな」
「それは聞いてないけど、優空ちゃんは覚悟してたのかもしれない」
僕は目を閉じて、「僕の前では、そんな覚悟見せなかったよ」とつぶやく。
「そんなの見せられたら、お前、耐えられなかっただろ」
「……そうだな」
「優しい子だったよなあ。俺も優空ちゃんにはいろいろ感謝してるわ」
まぶたの中でまた水分がふくらんできて、ぽろぽろとこぼしてしまう。優しかった。本当に、優しかった。最期まで僕のことを想ってくれた。でも、その優しさが今、胸を締めつけて息もできない。
火葬が終わる頃、優空の家族と火葬場に戻り、骨になってしまった優空と対面して、たたずんでしまいそうにまた苦しくなった。泣き出さないように我慢しながら、お骨を拾った。軽くて、細くて、箸に力をこめると崩れてしまいそうだった。骨壺は優空の家族が持ち帰り、すでに亡くなっている祖父母のそばにしばらくいさせるそうだ。
「うちにはいつでも遊びに来てね。真永くんのこと、ほんとにもう家族だと思ってるから」
別れ際、聖空さんが僕の軆を軽く抱いてそう言ってくれた。僕はうなずき、「ありがとうございます」と答えた。それから軆を離し、お互い涙の混ざった笑みを浮かべると、僕は優空の家族に頭を下げ、ひとりで電車で部屋に帰宅した。
玄関の鍵をかけると、ふらふらとリビングのソファに歩み寄り、うつぶせに倒れこむ。もう、この部屋に優空は帰ってこない。僕ひとりで暮らしていかなくてはならない。優空との空間だったのに、今日から僕ひとりきり。優空と一緒だから生きていけると思った僕は、これからどう生きればいいのだろう。
遺された僕は、まるで永遠の夜明け前にいるようだ。一番冷たい時間。一番暗い時間。一番静かな時間。熱が、光が、音が、また僕の生活に戻ってくることなんて、あるのだろうか?
優空がいないのに、この先も僕の人生は続くこと。
それが今は、つらくて、重くて、怖くて仕方ない。
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