Blue hour-20

揺らぐ夏

 橙色が映る景色には、夕食を準備する匂いがただよいはじめていた。それぞれ趣のある宿屋街が並び、風情のある夕景だった。ひぐらしの鳴き声と、海からの帰り道らしい観光客のざわめきが混じっている。この時間帯になっても、風は生温く肌にまとわりついてきた。
 爪と地面がぶつかる、ちゃっちゃっというリュカの足音が何だかかわいい。観光客の中には「わ、かわいい」とリュカに目をとめる人もいて、そんな人にリュカは愛想よくしっぽを振る。「ほんとに看板犬だね」と僕が言うと、「常連さんには、リュカのおみやげ持ってきてくださる人もいるんですよ」と心寧ちゃんはにっこりした。
 そして宿屋街を抜けて海沿いに出ると、ざあっと大きな潮風が汗ばんだ軆を冷ます。
 海は空に広がる黄金色と橙々色をきらびやかに降りまぜ、白波がその光を踊らせていた。堤防の階段で砂浜に踏みこみ、さくさくと足音が残っていく。混みあっていた人は、だいぶはけてしまっていた。優空とよく見たマジックアワーに目を細め、「ここは空が綺麗だよね」と僕は海の香りを吸いこみながらつぶやく。「田舎ですからねえ」と心寧ちゃんは咲って、波打ち際を駆けようとするリュカを追いかける。
「心寧ちゃん」
「はい」
「優空はさ、癌だったんだ」
「えっ」
「乳癌。三回も手術した。二回目では胸も摘出した」
「………、」
「でも、亡くなる直前まで普通に過ごしてたんだ。入院はしてたけど……一緒にケーキ食べたり、チキン食べたり。最後に過ごしたのが、クリスマスイヴだったから」
「そう、だったんですか」
「クリスマスの朝に容体が変わって、僕にも連絡が来て、誰も看取れなかった。ナースコールを押す余裕もなかったのか、もうあきらめて耐えて息を引き取ったのかは、結局よく分からない」
 きらめく波がざっと押し寄せ、僕と心寧ちゃんは立ち止まる。リュカは何やら穴を掘っている。
「僕は優空と結婚するつもりだったし、家庭も持ちたかった。病気を理由にそれを引き延ばしてたのを、すごく後悔してる。具合が悪いからこそ、急がなきゃいけなかったのに……どこかで、優空はいなくなるわけないって」
「……信じたくないですよね」
「優空はずっと前から覚悟してたみたいなのに、僕はそれに気づくこともしてあげられなかった。のんきに見守ってただけ。バカみたいだよね」
「優空さん、が、自分の軆を信じられなかったのなら、真永さんが信じてくれてるのは支えだったと思いますよ」
 僕は心寧ちゃんを見た。心寧ちゃんも僕を見上げる。
「だって、やっぱり、生きたいって思ってたと思います」
「……生きたい」
「生きたいのに、生きられるわけないって自分では思っちゃって、そしたら絶望しかないけど。優空さんの未来を、真永さんは信じてあげてたんですよね」
「重荷じゃなかったかな」
「希望ですよ」
「希望」
「真永さんは優空さんの希望だったと思います。だから、いつも隣で、あんなに幸せそうだったんです」
 僕は顔を伏せ、希望、と反芻した。僕が優空の希望だった? 亡くなってしまう優空に、僕は光を見せてあげられていたのか? 僕なんかが、そんなことをできていたのだろうか。
 思い浮かぶのは、優空にしてあげたかったこと、優空とやりたかったことばかりで、自分が彼女に何かできた気がしない。あっさりと見送ることしかできなかった。
「私と哲基は、周りがいい加減つきあえよってうるさくて、そんなもんなのかなあってつきあってただけで」
 風が抜けて、心寧ちゃんの毛先の跳ねた髪が揺れる。
「真永さんと優空さんに較べたら、おままごとですよね」
「さっき、おにいさんは──哲基くん、は、心寧ちゃんに未練があるように言ってたけど」
「哲基は何だかんだでお坊ちゃんだから、私が思い通りにならなかったのが癪なだけですよ」
「心寧ちゃんは、このままでいいの?」
「友達に戻れないなら、このままがいいです。期待させたくないですし」
「……そっか」
 期待させたくない。期待するような感情が、哲基くんにあることは分かっているのか。そう思ったものの、口にするのはひかえておく。
 不意に心寧ちゃんは小さく笑うと、「私、冷たい女ですよねえ」となびいた髪に指を通す。
「旅館がホテルに吸収されるのは嫌だけど、適当に哲基にもらわれておけば、そこそこ安定して生きていけるのに。いまさら、新しく出逢う人なんているのかな。そんなの、想像もつかないのになあ」
「僕も、優空以外の人とまた最初から恋愛を始めるなんて、分からない」
「競争ですね」
「はは、そうだね」
 僕も咲ってしまったとき、リュカが落ち着きなくぐるぐるまわりまじめた。「はいはい」と心寧ちゃんはそれに気づき、「ちょっとさせてきます」とリュカを堤防のほうに連れていく。
 僕はいつしか空が深い青に染まり、暗く落ちていっているのに気がつく。神秘的なほど静的な青色があたりを包みこみ、やがて、緩やかに闇に溶けていく。「帰りましょうか」と心寧ちゃんの声がかかり、僕はそちらを振り向いてうなずき、月明かりが白く照る中で心寧ちゃんとリュカのもとに駆け寄った。
 旅館では部屋に夕食が運ばれてくる。刺身、茶碗蒸し、天ぷら──豪華でひとりで食べれるかなと思ったけども、量はそんなにがっつりしていなかったので、食べてしまえた。手をつける前の料理を写真に撮ったので、『何かすごい』と希都に送ると、『何の接待だよw』と返ってきて笑ってしまった。
 食べ終わったお膳が引き取られたあと、心寧ちゃんからメッセが届いて『飲みどうします?』とあった。もう食べれそうにないけれど、お酒なら少しは飲めそうなので『よかったら行きたい。』と答えた。すると、『二十二時に玄関で待ち合わせで!』と来たので、僕はまだ二十時半にもならない時刻を一瞥しながら『了解』と送信しておいた。
 時間があまってるので、風呂でももらうことにした。この旅館には温泉があるらしい。いつものペンションの浴場も、温泉からお湯を引いていると聞いたことがあるから、近くに泉源があるのだろう。着替えを抱えて温泉までおもむき、男湯の露天風呂でゆっくり温まった。
 湯気が立つ熱めのお湯に浸かりながら、この旅館にも優空と来れたらよかったなあと星空を見上げる。心寧ちゃんも、優空と話してみたかったのではないだろうか。
 そんなことを思いながらぽかぽかになった心身で風呂を上がり、このあと出かけるならと浴衣でなく私服で浴場を出ようとしたとき、手をかけた引き戸が勝手に開いた。
「あ、すみません──」
 開けた相手がそう言ったので、いえ、と答えようとしたら、「あ……っれ、」と怪訝そうなつぶやきが続いた。
「何でここにあんたが……」
 僕は眉を寄せて相手を見た。短髪で眉がきりっとした、見知らぬ男がこちらをじろじろしてきている。誰、と僕が思わずすくんでいると、「こら、哲基」という声がした。
「うちのお客様だぞ」
 聞き憶えがあると思ったら、芳磨さんだった。「どうも」と芳磨さんには頭を下げると、「湯加減どうでしたか」と芳磨さんは物腰柔らかに訊いてくる。
「よかったです。露天風呂、すごく綺麗で」
「はは、ありがとうございます」
「芳兄、この人って心寧がいつも話してた──」
「それをこれから説明するから、お前を風呂に呼んだんだよ」
 僕はどことなく失礼な眼つきを向けてくる男を盗み見て、哲基って呼ばれたよなと内心確認する。ということは、この男が心寧ちゃんの元彼か。
「このあと、真永さんと飲めるって、あいつ楽しみにしてましたよ」
「そ、そうですか。すみません、遅くならないようにするので」
「いつもの近所の居酒屋でしょうから、大丈夫ですよ。ゆっくりしてきてください」
「え、何、待って芳兄。今の会話がちょっと俺分かんねえんだけど」
「はいはい。それはお前にも話すから。じゃあ真永さん、こいつのことはお気になさらず」
「はあ……」
 何度も僕のことを振り返る哲基くんの肩を押し、芳磨さんは浴場に入っていった。廊下に残された僕は首をかしげ、哲基くんを思い返し、確かに心寧ちゃんにはもっといい人がいるかも、なんて思ってしまった。
 部屋でまったりお茶を飲みながらテレビを眺め、二十二時になる五分前に部屋を出た。まだ廊下も玄関も電気が灯っていて明るい。ペンションだとこの時間に消燈しちゃうんだよなとか思っていると、「真永さん」と声がかかって僕はそちらを向いた。もちろん心寧ちゃんで、「ちょっと遅くなりました」と謝ってくる。僕は首を横に振り、「そんなに遠い居酒屋でもないよね」と言うと、「歩いて五分です」と心寧ちゃんはにこっとうなずいた。
 靴を履いて旅館を出ると、明かりがぽつぽつ名残る夜道を並んで歩き、居酒屋に向かった。風呂でさっぱりしたせいもあるのか、少しだけ風が涼しい。
 いい匂いと笑い声がもれる店の前には、焼き鳥の赤い提燈が下がっていて、「ごめんくださーい」と心寧ちゃんがドアを開けた。「お、実森のとこのお嬢さん」「芳くんも一緒かー?」という声が中からかかって、「今日はデートですー」と心寧ちゃんがやり返したので、冗談とは分かっていてもどきっとする。
「何だい、哲坊と元鞘か?」
「やめとけー、あんなボンボン」
 僕が続いていいのだろうかと二の足を踏んでいると、「真永さん」と心寧ちゃんがのれんをめくりながら僕を呼び、別にそういうのじゃないんだけどなと思いつつ、おずおずと店内に踏みこむ。
「ん、見たことない人だねえ」
 料理を運んでいた中年の女の人がまず僕に目をとめ、「心寧ちゃん、どこで捕まえたんだー?」とカウンターで飲んでいるおじさんたちも野次を飛ばしてくる。「みんな酔っ払いすぎですよー」とか言い返した心寧ちゃんは、慣れた様子で僕をカウンターでなく座敷に連れていってくれた。
「すみません、うるさくて嫌ですかね」
 テーブルをはさんで向かい合うと心寧ちゃんが、気がかりそうにして、「平気だよ」と僕はあやふやに咲う。嫌ではないけれど、ちょっとびっくりした。
「心寧ちゃんの行きつけ?」
「ですね。子供の頃、親と喧嘩したらここに家出してました」
 何だか笑ってしまうと、料理を運んでいた女の人が注文を取りにくる。「この人が女将さんでね」と心寧ちゃんは紹介してくれて、「ひたすら無言で焼き鳥焼いてるのが大将」とカウンター内のおじさんもしめす。
「心寧ちゃん、ついに新しい彼氏?」
「ふふ、私が勝手に憧れてるおにいさんですよ」
「あらあら。おにいさん、心寧ちゃんとっても良い子だし、哲坊にはもったいないから、今のうちにもらっちゃいな」
 僕は苦笑しながらはっきり答えることはせず、心寧ちゃんが「まず、ねぎまとつくね、あと皮もください」と注文すると、女将さんは伝票にメモを取る。「私はウーロンハイですけど」と心寧ちゃんは僕に尋ね、「レモンサワーがあれば」と僕は応える。「はいよ」と応じた女将さんは、ご主人であるだろう大将に焼き鳥の注文を伝えながら、カウンター内でドリンクを用意しはじめた。
 それから、僕と心寧ちゃんは夜更けまでいろんな話をした。僕の優空との想い出話が多くて、心寧ちゃんはうなずく相槌を入れて聞いてくれた。心寧ちゃんも哲基くんの話をして、さっきの浴場でのことを思い出して僕が話すと、「うわあ、何かごめんなさい」と申し訳なさそうにした。「おにいさんと何か話すみたいだったよ」と言うと、「おにいちゃんの言うことなら哲基も聞くかなあって、私が頼んだんです」と心寧ちゃんは焼き鳥をもぐもぐ食べる。「何を言ってもらうように頼んだの?」と僕が首をかしげると、心寧ちゃんはにっとして、「それは秘密です」と言った。秘密なのか、と僕もしつこく食い下がることはせず、柔らかく仕上がった焼き鳥を頬張る。
「あの、真永さん」
「うん?」
「よければなんですけど」
「うん」
「今度、私のほうが、真永さんの住んでる町に遊びにいっちゃダメですか?」
 心寧ちゃんを見た。心寧ちゃんは小さく上目になる。「何もないけど」と僕が言うと、「ここよりはありますよ」と返され、まあそうだろうかと思う。少し考えたものの、断る理由もないので「じゃあ、いつでも遊びにおいでよ」と僕は答えた。すると、心寧ちゃんは嬉しそうにこくんとして、ウーロンハイを飲む。
 それこそ本当にデートになるのでは、と思ったけれど、心寧ちゃんは僕がどれだけ優空を想っているかは知っている。深い意味はないよな、とひとり納得し、僕もレモンサワーのさわやかな味を飲みこんだ。

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