Blue hour-5

胸の空洞

 四月になって桜が満開になり、あちらこちらで淡いピンク色があふれかえる。アパートのそばの公園にも、通勤中の電車の窓から見る景色にも、駅から会社への道のりにある並木道にも。春は優空に出逢った季節だ。初めて話したときにも、ひらひらと桜の花びらが降っていた。
 僕の勤める会社では、新歓と花見が一緒くたになって行われる。今年もそうで、すでに確保されていた場所で夜桜を見ながら飲み会になった。大きい会社ではないし、強制参加でもないから、大人数というわけではないのだけど、人間関係に問題のない人はたいていやってきてにぎやかだ。僕はさすがに今年は酒を飲んで笑っていられる気分ではなかったけれど、「気晴らしもしなさい」と同僚の何人かに言われて、部屋でひとり鬱々しているよりいいかと参加することにした。
 ひと駅離れた大きな公園で、並んだ橙々色の提燈が桜を幻想的に映し出している。公園をぐるりと囲うように植わった桜の根元は芝生で、そこにシートをひいて夜桜を楽しむ人が今年も多く集まっていた。一応新歓も兼ねているので、参加した新入社員が軽く挨拶したりする。でも、別にビール一気飲みを披露しろとかはなく、挨拶以外はただの宴会のようなものだ。
 みんなが楽しそうにしているのを眺めながら、もう優空は辞めて三年だったもんなあ、と僕はレモンのチューハイを飲む。亡くなったときはみんな驚いていたし、葬儀に来た人もちらほらいたのだけど、やっぱり三年のあいだ遠のいていた人の死なのでそこまでショックを引きずっている人はいない。
 でも僕はうまく咲えない。もしかしたら、病気さえなければ、優空もここにいたかもしれない。そんなことを思って、息が苦しくなる。
 僕がこの花見に新人として参加したのは、もう十一年前になるのか。あの頃、僕はまだ両親の呪縛の中にいて、みんなでわいわいと楽しむこの雰囲気がよく分からなかった。みんなの目が離れた隙に、缶ビールを持ったままシートを離れて、空いていたベンチにひとりで腰かけた。適当に渡されたビールは、飲んではみても苦くて、あんまりおいしいとは思わなかった。
 入社して、アットホームな会社だなあと感じたものの、自分がその温かな輪に入れるかどうか自信がなかった。僕が入ったせいで、空気が悪くなったらどうしようとか、そんなことしか考えられなかった。というか、ちゃんと続けられるのだろうか。学校みたいに、数年通えば卒業ということもないし──そんなことを陰鬱に考えていると、「隣、いいですか」と声がかかってはっと顔を上げた。そこで艶やかな黒髪をショートボブににして、柔らかく微笑んでいたのが、優空だった。
「あ……はい、どうぞ。というか、えと、同じ新入社員の……」
 挨拶のときに僕の前に挨拶していた子のような気がして恐る恐る尋ねると、「はい、大村優空です」と優空はにっこりした。
清城きよしろ真永まのりさんですよね」
 彼女が僕の名前をさっそく憶えていることにびっくりしつつ、そういう飲み込みが早い子なんだろうなあと僕はうつむいた。
「離れていっちゃったので、気になって。見てきますって抜けてきちゃいました」
「え、……あ、すみません」
「いえ。私も飲み会とかちょっと苦手なので、ひと息つきたかったんです」
 僕は隣に腰かけた優空の横顔を見た。手元にある缶はチューハイのようだった。
「でも、わりと雰囲気よさそうな会社でよかったです」
 優空はそう言って僕に咲いかけ、「そう、ですね」と僕はややぎこちなく返す。
「本に関われる仕事だし、頑張らなきゃ」
「本が、好きなんですか」
「清城さんは違うんですか?」
「読むのは、好きです。けど、仕事になるとは思ってなかったです」
「そうなんですか。私、音夜おとや一紗かずさとか好きなんですよね」
「あ、僕も読んだことあります。けっこう、内容ハードですけど」
「あー、そうかも。音夜さんの本を一冊読んだ姉が、『こんなの読むの!?』ってちょっと怒ってましたもん」
「はは、分かるかもしれない」
 そう咲ってしまうと、優空は僕を覗きこみ、「咲ったほうが素敵」と微笑した。僕はどきんとしながらまばたきをして、何だか恥ずかしくて顔を伏せた。苦し紛れにビールを飲んだものの、その苦みに眉を顰めてしまう。
「大丈夫ですか?」
 優空は僕の背中をさすり、僕は頬に熱を感じながら「ビールって飲み慣れてなくて」と口元をぬぐう。
「そうなんですか。これ、ひと口飲みます?」
「えっ……と、それは、苦くないですか」
「はい。あ、でもレモンだから少し酸っぱいかも」
「大丈夫です。……ちょっとだけ」
「どうぞ」
 ビールをかたわらに置いて、僕は優空から受け取ったレモンのチューハイをひと口飲んだ。思ったより炭酸の刺激があったものの、ビールのような苦さはない。酸っぱさもすっきりしている。「選ぶときこれにすればよかった」と苦笑しながらつぶやくと、「来年からはそうしましょう」と優空はにこっとした。
 来年。何だか急に、来年も花見に参加できるように、仕事が続いているように頑張ろう、と思えた。この子が同じ会社にいるのなら、頑張れる気がする。そして、来年の花見でも、こんなふうに彼女と桜を見ることができたら──
 まだ冷たさの名残る夜風が吹いて、花びらがすりぬけていく。優空の綺麗な髪も揺れて、なぜか僕はその髪に触れたいと思った。もちろん、そのときは触れられなかったけど。
 優空は花見以降も僕のことを気にかけて、話題に乗れずにとまどったりしていると助けてくれた。優しくされながら、次第に僕が優空に惹かれるのは簡単だったけど、きっと優空は僕が頼りなくて放っておけないだけなのだろうと自信がなかった。だから、入社して二年目の夏に海に誘われて、渚で美しい金色のマジックアワーを見たあと、日が落ちて一瞬の空が濃い青に包まれた中で告白されたときはぽかんとしてしまった。
 優空の長い睫毛が頬に影を落としていて、かすかに震えていた。僕が黙っていると、「やっぱり」と優空は僕を見上げて無理やり咲った。
「ダメだよね。私なんか、真永くんにはお節介な友達だよね。分かってる──」
「えっ。あ、いや。そ、そんな……僕、……で、いいの?」
 つっかえながら言って、僕は涙までこぼしてしまった。優空がまばたきをしてこちらを見つめて、僕は慌てて涙をぬぐった。優空はそんな僕に微笑むと、「好きじゃなかったら、こんなにいつもそばにいないよ」と僕の手を取った。僕は優空を見つめると、深呼吸して、「僕も、優空さんが、好きだよ」と、どもらないように、ゆっくり伝えた。あっという間に暗くなった中で、優空の笑顔を澄んだ月が照らした。そのとき、僕は初めて優空の髪に触れて、そのままぎゅっと彼女を抱きしめた。
「清城ー。そろそろ撤収だぞー」
 そんな声がかかってはたと顔を上げると、いつのまにか花見の席が終わろうとしていた。僕は慌てて立ち上がり、飲みかけだったレモンのチューハイを飲み干して、ゴミぶくろに入れさせてもらった。片づけを手伝ったあと、すっかり酔っ払った上司や同僚を駅まで誘導し、電車に乗っていつもの町に帰ってくる。
 あの海から三年後、優空と一緒に住むと選んだ町。そして、優空と一緒に住むと決めたアパート。暗い部屋に踏みこんで、ドアを閉めると、またどうしようもない涙がこみあげてくる。
 優空。僕の優空。何で死んでしまったんだろう。いつもそばにいてくれたのに。おぼつかない僕のことを誰よりも気にかけて、しっかり立てるようにしてくれた。けれど、優空がいなくなって、僕はまたひとりでしゃがみこんでぼんやりしている。生きていけそうにないほど、呼吸を苦しく感じている。自分の居場所がなくなってしまった気がしている。君が世話を焼いてくれないと、僕はこんなにも怯えた弱い子供になってしまう。
 昼、会社では何とか自分を繕っていても、夜には部屋でそんな抑鬱に陥って、優空の不在にひたすら傷ついた。傷ついても、傷ついても、終わらない。優空は僕の隣に帰ってこない。まるで、毒を受けてしまったみたいだ。歩くたびに生命力が減っていく。次の日が来るたび、もっと息ができなくなっている。僕の心の傷は致命傷なのかもしれない。このまま、僕まで死に至るんじゃないだろうか。そんな気もしてくるほど、胸の空洞が痛い。
 相変わらず、僕はアプリの通知を切っている。でも、時間がただ過ぎていっているとき、何となく来ている着信を見るようにはなった。何かとメッセをくれているのは、聖空さんや希都だ。僕はついてしまった既読を見つめ、何か返したほうがいいのかと思っても、文章が浮かばない。結局またスマホを投げてソファに寝転がる。
 電気もつけない部屋で目を閉じて、暗闇で息をひそめる。やがて眠気がじりじり襲ってくると、のっそり起き上がってスマホはつかんで寝室に向かう。今日もそうしてふとんに包まり、充電器につないだスマホを見ると、いつのまにか希都からメッセが届いていた。
『最近やっと既読つくようになってよかった。
 真永にそういう元気があったらなんだけど、今度飲みにいかないか?
 話聞くとか言っといて、俺、何もできてないし。』
 僕はぼうっとその文面を眺め、気にしなくていいよ、と入力しようとしたが、そう言うと希都の誘いも断っているようだろうか。正直飲む元気はないけれど、希都には会いたい。会ったのは優空の葬儀が最後だ。『希都が会えるなら。』と送信すると、わりあいすぐに既読がついて、『五月の連休で、真永の都合いい日に。』と返ってきた。『分かった、非番確認してまた連絡する。おやすみ。』と答えると、『了解。おやすみ。』と希都は時間帯を察して話を切り上げてくれた。
 そのままスマホをまくらもとに置こうとしたが、何となく優空のトークルームを開いてみた。優空からのメッセは、すでにキープしてある上に、スクショにも残している。一番最後のメッセは、クリスマスイヴの朝のものだ。
『おはよう!
 クリスマスイヴだね。
 今日はお姉ちゃんたちもお見舞いにくるって。
 ふたりきりで過ごしたい恋人たちを察してほしい~。
 でも、夫婦になったら子供ができるまでふたりきりだもんね!
 我慢してやりますかー。』
 いつも通りのメッセだ。この次の日、彼女が亡くなってしまうなんて誰が予想しただろう。優空自身、せめて年を越せることは信じていたのではないだろうか。そして、僕と夫婦になれると思っていたに違いない。結果的に、イヴに優空の家族とも過ごせたのはよかったのかもしれないけど──ふたりきりだったら、僕たちはどんなイヴを過ごしていたのだろう。

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