Blue hour-9

誰かと一緒に

 初めて優空とこの海に来たときは、ふたりきりで日帰りだった。その翌年もふたりで訪れ、三回目から希都と瑞奏ちゃんが合流するようになった。
 希都と瑞奏ちゃんは、その春に出逢い、つきあうようになったところだった。もともとは希都が僕と優空に瑞奏ちゃんを紹介しようとしたのが切っかけだったのだ。どうせ四人で会うなら一緒に海に行き、今年から一泊くらいしていこうかということになったのだった。
 初めて会う瑞奏ちゃんは、緩いウェーヴのセミロングも、白い肌に生える黒目がちな瞳も、麦わら帽子と水色のフレアワンピースも、淑やかなお嬢様に見えた。当時大学生の二十一歳で、希都とは春の合コンで知り合った。数合わせで呼ばれただけの瑞奏ちゃんは、くだらないと輪に入らずにごくごくと飲んでいたそうだ。瑞奏ちゃんのおっとりした容姿が気になって、希都は声をかけたけど、「あたし、二十一時には帰るよ」と言い捨てられた。
 それでも希都が隣を陣取っていると、徐々にふたりは会話を始めて、終電が近いと周りがざわめきはじめたことで我に返った。二十一時と言っていたのを引き延ばしてしまっただけに、「送る?」と希都が一応訊いてみると、「ひとり暮らしだから、そういうことになるよ?」と瑞奏ちゃんはにやりとした。その笑みにどきっとして、希都の中で急に瑞奏ちゃんへの意識が本気になったらしい。
 その後、「そういうこと」になって朝まで過ごし、一応連絡先を交換してふたりは別れた。それまで希都は、どちらかといえば女の子から言い寄られるタイプだったけど、瑞奏ちゃんは違った。交換した連絡先も放置され、希都は焦ってメッセしたり通話を持ちかけたりして、デートにこぎつけた。
 やっぱりお嬢様みたいなファッションで現れた瑞奏ちゃんは、希都の顔を見ると「ホテルか部屋か、どっちにする?」と開口したそうだ。「俺すげーデートプラン考えてきたんだけど」と希都がむくれると、「まじめだなあ」と瑞奏ちゃんはからからとして、「まじめじゃなくて、本気なんだよ」と希都は瑞奏ちゃんを見つめた。瑞奏ちゃんはそんな希都をまばたきして見つめて、「ふむ」と腕組みをしたあと、「それはつきあってる相手に言おうな」とあしらおうとした。そんな瑞奏ちゃんに、「じゃあつきあおう」と希都は言って──言ったあとで、あまりに軽率に言ってしまったことを後悔した。ところが、瑞奏ちゃんは希都の言葉に満足そうににっこりすると、「あたしの片想いにならなくてよかった!」と抱きついてきて、希都は陥落してしまった。
 そんな馴れ初めを希都が運転する車の中で優空と聞いた僕は、「何かすごいね……」とつぶやいてしまい、「真永くんと優空ちゃんはどんな感じよ」と助手席の瑞奏ちゃんが振り返ってきた。後部座席の僕と優空は顔を合わせ、新歓のことから向かっている海でつきあいはじめたことを話した。「純愛映画じゃん!」と瑞奏ちゃんは希都の肩をたたいて騒ぎ、「そういう想い出あるのに一緒に来てよかったのか?」と希都は気になるように問うてきた。「夕暮れだけ邪魔されなかったら大丈夫だよね」と優空はにこっと言って、「泊まっていくならにぎやかなほうがいいし」と僕もうなずいた。そんな僕たちを「天使みたいなカップルだわ」と評した瑞奏ちゃんは、「瑞奏は小悪魔だからなー」と希都に言われ、「大天使だろうが」と頬をふくらませていた。
 そのとき、僕と優空は二十六歳だったから、その翌年にまた希都と瑞奏ちゃんと海に行った際には、秋に同棲を始めることを決めていた。優空に腫瘍が見つかったのは三十のときだけど、そのあとも夏には海に行っていた。ただし、胸も摘出して入退院が多かった去年は、さすがに行けなかった。希都と瑞奏ちゃんはふたりでおもむいたようで、お見舞いに来た瑞奏ちゃんはおみやげの貝殻のキーホルダーを優空に渡していた。豪快な瑞奏ちゃんがめずらしく泣きそうにしていて、「また一緒に海行きたいね」と優空はなぐさめるように微笑んでいたっけ。
 台風が一過して、お盆はまばゆく晴れていた。僕は昨夜になってようやくまとめた荷物を片手に、朝から駅前まで出ていた。希都が車でここまで来てくれるということで、僕は日陰に避難することもせず、ぼんやりロータリーに突っ立った。この時間でもすでに猛烈な日射しは、水分だけでなく気力まで吸い取っていくようだ。こんなとき、「ちゃんと何か飲まなきゃ」と水筒を取り出してくれていた優空がいないことが、僕の心の空洞を突き刺す。
 あの海に行くときは、いつも優空が隣にいた。そして金色の夕暮れから空が暗く落ちるまでのあいだを、砂浜で寄り添いあって見つめた。思えば、今年でそれが十年目のはずだったのだ。病気さえなければ、優空は今でも生きていただろう。今年も、去年だって一緒に海を見れただろう。僕と優空が、まさかこんなかたちで終わるなんて思っていなかった。僕たちなら終わることはないと思ったから、結婚だって考えたのに。
 そんなことをぼんやり思っていると、「真永くん」とふと呼ばれてはっとそちらを見た。いつのまにか目の前に車が停まっていて、助手席の窓から、相変わらず一見おっとりした印象の瑞奏ちゃんが顔を出していた。
「あ、」と僕は声をもらし、「久しぶり」と何とか笑みを作る。瑞奏ちゃんはそんな僕を見つめ、「そういう笑顔してると、優空ちゃんが泣くよ」とちょっと不機嫌そうに言った。僕が思わず口ごもると、向こう側の運転席から希都が降りてきて、「瑞奏も寂しいだけだから」と苦笑しながらトランクをしめす。僕は車の後ろにまわり、希都が開けてくれたトランクにバッグを載せた。
「え……と、瑞奏ちゃん、怒ってる?」
「いや、あいつなりに、仕事で優空ちゃんの通夜も葬儀も出れなかったの気にしてるだけ」
「そ、っか。モールのインフォだっけ。仕方ないよ、年末は」
「まあな。瑞奏、優空ちゃんに友達と思ってもらえてたかはっきり分かんなかったみたいでさ。最後の挨拶もしなくて、『もう優空ちゃんの友達になれないんだ』って泣いてたよ」
「……優空は友達だと思ってたよ、きっと」
「俺もそう思うけどな。ま、優空ちゃんの彼氏としてさりげなく認めてやって」
 僕は希都を見て、「今でも彼氏って名乗ってていいのかな」とつぶやく。希都は噴き出し、「次ができるときまではそうだろ」と僕の肩をはたいた。
 クーラーがきいた車に乗りこむと、ますます隣に優空がいないのが寂しかった。後部座席に並んで座るとこっそりつないでいた手が空っぽで、泣きそうになってしまう。奥歯を噛みしめてそれをこらえる代わりに、沈黙しがちになっていると、急に「我慢しなくていいんだよ」と瑞奏ちゃんの声がした。
 僕は無意識に伏せていた顔を上げ、斜め前の瑞奏ちゃんの横顔を見る。
「真永くん、たぶんひとりのときに泣いてるんだよね。でもさ、ひとりで泣いても埋まらないじゃん。すっきりするとかそんなもんじゃないでしょ。誰かと一緒に泣きなよ」
「……でも」
「そのためにあの海に行こうなんて誘ったんだから。思いっきり優空ちゃんに浸って、いっぱい泣いていいんだよ。今そばに優空ちゃんがいないことより、ここで優空ちゃんと過ごしたなあって……懐かしむには、早いかもしれないけど。優空ちゃんのこといっぱい思い出そうよ。忘れられないなら、想っていいんだよ」
 そう言った瑞奏ちゃんは僕を振り向き、ほんの少し涙目になりながらも微笑んでくれた。僕は息を吐いてうつむくと、噛んでいた奥歯を緩める。そして、優空のいない左側に首をかたむけた。
 ここに優空がいた。確かに隣にいて、僕の手を握って咲ってくれていた。柔らかい手。優しい瞳。肩にことんと頭を乗せられると、制汗剤のベリーの香りがした。欠片を拾うように優空が隣にいたことを思い出すと、自然と涙が頬を伝いはじめて、止まらなくなった。
「優空ちゃんは、いい彼氏に見送ってもらえたなあ」
 瑞奏ちゃんの言葉に、そうなのだろうかと僕は考える。僕は優空のいい彼氏でいられたのだろうか。見送ったのが僕でよかったと思ってもらえているのだろうか。優空の最後の彼氏として、僕は相応しかった? こんなに泣いても優空の答えは聞こえないけれど、僕と結婚することにうなずいてくれたのだから、たぶん、僕でよかったのかもしれない。
 海辺のペンションに到着したのは昼前だった。小さな宿屋街なのだけど、僕たちが泊まるのはいつも同じところだ。予約は希都が取ってくれたが、今回はダブルが二部屋とはいかない。だから希都は事前に、僕だけシングルにするか、三人でファミリーの部屋にするか、確認をくれていた。正直迷ったものの、やっぱりカップルの邪魔はよくないかなとシングルをお願いしていた。ただでさえ車で泣かせてもらったのに、夜まで僕の涙につきあわせたら悪いのでそうしておいてよかった。
 ログハウス風のペンションで、部屋に入るとほのかに木の匂いがする。いつもふたつだったベッドはひとつで、寂しいなとやはり感じてしまっても、ダブルに泊まったらきっともっとつらかった。昼食は海の家で食べようということになっていたので、荷物を下ろしたら財布やスマホだけ持ち、すぐに部屋を出る。
 相変わらず天気は良くて、七月ほどではなくても蝉の声がからりと響いている。熱気の中をけっこう風が抜けて、潮の匂いだけでなく、その味もかすかに感じられた。
 僕と優空はいつもそうだったのだけど、海には来ても水着にはならない。「せっかくの海なのに」と言う瑞奏ちゃんはもちろん、希都も水着になるのだけど、僕たちは何だか気恥ずかしかった。でも、若いうちに一度くらい水着もよかったかもしれないなあと今になって思う。
 三人で宿屋街を抜けて、海岸沿いの歩道を歩く。そして堤防が岩間の階段になったところから砂浜に降りた。お盆なのもあって、たくさんの人がレジャーシートを敷いたりビーチパラソルを広げたりしている。渚もにぎわっているし、波間に浮かんでいる人もいる。
「まだ小学生くらいのときは、いつも家族でこの海に来てたんだよね」
 初めて僕をこの海に誘ってくれたとき、優空はそう言っていた。そしてあたりを見まわし、「海の家ができてる!」と僕の手を取ってプレハブの海の家に引っ張った。いつも通りまずはレモンのチューハイ、それから焼きそばを半分ずつ食べて、たこ焼きもかき氷もと欲張ったものだ。
 今年も海の家は開かれていて、一階は食堂やシャワールーム、二階は着替えのための個室になっている。希都と瑞奏ちゃんはまず二階で水着に着替えに行き、僕はひとりで先に食堂に踏みこんだ。

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