見えない明日
俺が店で働きはじめた日、ママもチーフもお姐さんたちも、「ずいぶんかわいい黒服だねーっ」とげらげら笑った。
俺は仏頂面のまま、息苦しいネクタイの結び目をいじる。「あんたは表に出ちゃいけないからね」とけばい化粧のママが俺の背中をばしっとたたき、痩せた俺は前のめりそうになって踏ん張る。
「ここでとにかく、グラスを洗ってなさい」
カウンター奥のシンクの前に連れていかれて、「分かりました」と俺は答える。その俺の声に五十代くらいのママは目を細め、「声変わりもしてないねえ」とまた笑った。
「ねえ、君って実際いくつなの?」
カウンターから身を乗り出してきて、ドレスから胸がこぼれそうなお姐さんに問われる。「……今年、十三になります」と俺は息をついて、深い谷間から目をそらした。
「えーっ、マジで? 中学生? 一年生? やっばーい」
「はっ? ミヤくん中学生なの?」
「今年十三だってさ」
「ちょっ、ママあ。人手足りないからって、中学生はアウトでしょお」
「いいじゃない、そのぶんお給料半額でいいらしいから」
「半額!」とまたみんな大笑いして、俺はうんざりしてノリが分かんねえわと思った。しかし、バカにされていることは分かる。
そりゃあ、俺だってできることならのんびり学ランを着て、昼間には中学校に通っておきたい。だけど、そんなことをしていたら、かあさんのことも優瑚のことも守れない。あいつは役に立たないから、俺がこうして違法に雇ってくれる店を探して、働いて、稼いで、支えるしかないのだ。
ここは地元の駅前、小さな飲み屋街のラウンジだ。このあいだ小学校を卒業し、風俗のキャッチの仕事だって辞さない覚悟でやってきた俺を、出勤中のママが回収して店に連れてきた。
薄暗く煙草臭くカラオケが鳴りやまない店内の隅で、一時間、ガキが来る場所じゃないと説教された。「でも」とやっと口をはさめた俺は、働かなくてはならない事情を話した。
ママはしばらく渋面して考えていたものの、「じゃあうちで働きなさい」と言ってきた。まじろいだ俺に、ママは煙草に火をつけながら続ける。
「ただし、お客様のいるときはカウンターから絶対出ちゃいけないよ。一応黒服の格好してもらうけどね、裏でひたすら皿洗い。そしたら、給料じゃなくて御駄賃として、時給五百円出してあげるよ」
「五百円……」
「確かに、怪しいソープのキャッチでもやれば稼げるかもしれないけどね。どうせ足が早い。だいたい、やばい仕事やって補導されてるわけにもいかないだろ」
それは否定できず、こくりとした。いくら働きたくても、それで警察に引っ張られたら意味がない。
「じゃあ、ここでこつこつ働くんだね。一年ごとに、百円ずつ時給は上げる。そしたら、十八歳になる頃には黒服の給料の時給千円になる。文句は?」
上目でママの目を見た。
えらそうだけど、たぶん悪い人じゃない。悪い大人の目を、俺はよく知っている。
「よろしくお願いします」と俺は素直に世話になることにした。するとママはにっとして、「今日は帰りなさい」と俺の肩をはたいた。
「明日の昼間、ここにおいで。詳しい説明はそのときだよ」
はたかれた肩がけっこう痛くて、無造作にさすりつつ、「ありがとうございます」と言うと、その日はおとなしく帰った。
それが、先週の週末のことだ。土日に用意する服を見繕ってもらい、仕事内容を聞いた。チーフと同じく店に一番最初に来て開店作業を手伝い、客がいるあいだはすがたを見せずに皿を洗い、店に最後まで残って閉店作業も手伝うのだそうだ。
「ほんとに学校はいいんだね」とママは最後にもう一度聞いて、「行きません」と俺ははっきり答えた。
そして、月曜日である今日から、俺はこの店で働きはじめた。
何か大人の中にいるのビビるな、と思っていると、照明が落とされてジャズがかかりはじめた。「待機」のお姐さんたちは、スマホをいじりだして、チーフはカウンターに立って店内を見守る。ママはひと足先に店を出ていっていたが、それは「同伴」というものに行ったのだそうだ。
「こんばんはー」と客の声がすると、俺は意識して店内には背を向け、くすんだ銀色のシンクの排水溝を見つめた。
まもなく、グラスや灰皿が次から次へとシンクに投げこまれてくるようになった。俺は立ちっぱなしでそれを洗って、休むヒマもなかった。「もうちょっと早く洗おうか」と空のグラスを運んできたチーフに言われても、雑に洗って汚れを残すわけにもいかない。もちろん滑らせて割ってしまうわけにもいかない。
初日から完璧にやれるかよ、という口答えを飲みこんで、とにかく手を動かす。午前三時までそれが続いて、めちゃくちゃ気が遠くなった。皿洗いナメてたぜ、とやっと客がはけて、残りいくつかのグラスや灰皿を洗い終えた俺は、ため息とその場に座りこんだ。
「ミヤくん、皿洗い終わったなら、ゴミ集めて」
チーフは当たり前なのか容赦がないのか、そう声をかけてくる。ママやお姐さんたちは帰り支度を始めていても、俺とチーフにはまだ閉店作業があるのだ。
「じゃ、お疲れ様でーす」
「仕事の途中でねんねするなよー」
酔っぱらったお姐さんたちは、異様なテンションで店を出ていく。ママはカウンター席に座って、「お水」とチーフに命じる。チーフはミネラルウォーターをそそいだグラスをママにさしだし、それを一気飲みしたママは、ゴミぶくろの口を縛る俺を見た。
「どうよ、続きそう?」
俺はママを見て、ついあやふやに咲ってしまったものの、「続けます」と答えた。「根性はありそうだね」と笑ったママは、「あんたがしごいてやって」とチーフに俺を任せて帰っていった。
ママがいなくなると、チーフの態度は少し柔らかくなり、閉店作業のあとには「事情は分かんないけど頑張れよ」と別れ際に頭をぽんっと軽くたたいてくれた。みんなにバカにされているとは思ったものの、何だかんだ、嫌がらせみたいなことはなかった。
まあ、ガキあつかいは仕方ない。実際ガキなのだから。
腕時計を見ると、時刻は午前四時が近づいていた。夜明け前で、空は一番暗い。周りのネオンももうなくなって、通りは静まり返っている。
まだ四月だから、この時間は冷えた。俺はジップアップを着こみ、ため息をつくと、帰るかあ、と歩き出す。
俺の家は団地の一室で、同じ建物が延々と並んでいる中にある。駅前から歩いて二十分、一階なので階段をのぼらなくていいのは、数時間も棒立ちで足が痛くなっていたのでさいわいだった。
音を殺して鍵をまわし、ドアを開けると、あいつが寝室に落ち着いていないのか、リビングの明かりが廊下にもれていた。声はしないということは、かあさんが捕まっているというわけではなさそうだ。それでも俺は眉を顰め、気づかれないように家に上がると、さっと自分と優瑚の部屋に入る。
暗い室内では、二段ベッドの下の段で優瑚が眠っていた。優瑚は小学二年生になったばかりの妹だ。
優瑚には、ちゃんと中学も高校も行ってほしい。だから、いっそう俺は頑張らなくてはならない。優瑚の寝息を邪魔しないように服を着替え、シャツに染みこんだ煙草のにおいに、昼に洗濯しないとな、とひとまずハンガーにかけて窓辺に下げておく。
本当はシャワーを浴びたかったけど、あいつが出勤でいなくなってからでいいや、と床に寝転がった。はしごをのぼった上の段が俺のベッドだが、マジで足がつらい。どうせ仮眠だから、と俺は目を閉じてすぐに眠りこんでしまった。
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