月光の少年-10

新しい日々

 キノちゃんのご両親には改めて事情を説明し、その上でしばらく身を寄せていいと請け合ってもらえた。それでも俺はかしこまってしまったが、優瑚はキノちゃんと生活できるのが単純に嬉しそうだった。
 キノちゃんの家は一軒家で、二階にひとつ空いている部屋があったため、そこを俺と優瑚に貸してくれた。優瑚はだいたいキノちゃんの部屋にいて、俺が就寝に使うくらいだったが。仕事は再開したものの、家事の負担はなくなった。「何かできることがあるなら」と気は遣ってみても、「平気平気」とキノちゃんのおかあさんは快活に笑ってくれた。
 駅前から遠くなってしまったので、俺は十七時頃には荷物を背負って出勤する。十月になって、心地よい秋晴れが続いていた。ママは「あんたも大変だねえ」とカウンターで煙草をふかし、「そのまま親父とは縁を切るのかい」と訊いてくる。「かあさんが離婚しないと、正式にはそうならないとは思ってます」と慣れてきた黒服の俺が答えると、「あんたのお袋も、よくそんな男を見捨てないもんだね」とママはくつくつと笑った。
「見捨てないというか、あいつに縛られてる感じなんで」
「でも、お袋には新しい男もいるんだろう」
「新しい男って……ルームシェアですよ」
「ふん。そこでお袋の調子はどうなんだい?」
「だいぶ落ち着いてます。父親が同じ空間にいないだけでも、安心するみたいで。薬もちゃんと飲んでるし」
「ずっとそこに世話になるわけにもいかないんだろう」
「そうですね。俺と妹もだけど。俺、春になったら中学卒業なんで。俺が部屋を借りようかなって」
「保証人はいるのかい」
「……いないですけど。そこは不動産屋に相談するとか」
「中学卒業したばっかりのガキに、部屋を貸す大家もそうそういないと思うけどねえ」
「でも、少なくとも、俺と優瑚は春にはさすがに出ないと」
「仕方ないねえ。あたしのお客様に不動産やってる人がいるから、相談しておいてみるよ」
「いいんですかっ?」
「お水は人脈だからね」
「わあ、すげえありがたいです。昔からママには頭上がらないなあ」
「たまにはガキらしく甘えていいんだよ。あんたは自分を追いつめて考えすぎだ」
 そう言って、カウンター越しに俺の肩をばしっとはたき、ママは煙草をつぶすとスマホのチェックを始めた。甘えていい。壱野先生にも言われたことがある。俺自身は、そんなに自分に厳しい気はしないのだけど。
 すっかり空気が冷たい夜明けに仕事から帰宅すると、「おかえりなさい」とキノちゃんが出迎えてくれる。キノちゃんは明け方に宿題や予習をするタイプらしく、もう起きていることが多いのだ。あと、さすがに俺はキノちゃんの家の鍵を持っていない。
 キノちゃんはポニーテールをおろして、すっぽりしたワンピースすがたであることが多い。「おかあさんが、おにいさんのぶんのごはん用意してます」と言われ、「何かいつも悪いな」と苦笑しつつ俺はキノちゃんとダイニングルームに向かった。
 ロールキャベツのホワイトシチューだった。「温めますね」とキノちゃんはてきぱきと俺の食事の支度をして、俺は椅子に座らせてもらうと、キノちゃんを眺める。来年には小学校高学年だが、すでに中学生ぐらいにも見える。
「キノちゃんってさ」
「はい」
「もう彼氏とかいたりすんの?」
「はっ?」
「いや、大人びてるからさ。最近の小学生早いし」
「いないですよ、そんな……」
「そっかあ。でも、モテるでしょ」
「ぜんぜん、そんなことないです。男子より背が高いから、大女とか言われます」
「マジで? 背が高いの、かっこいいじゃんね。そんなこと言う奴、どうせ嫉妬してるだけだから気にすんなよ」
「おにいさんは……」
「ん」
「おにいさんは、彼女……とか、いるんですか」
「できたことねえなー。そんな余裕ないし」
「……そうですか」
 ベルが鳴って、キノちゃんは俺の前にほかほかと湯気がいい匂いのシチューを持ってくる。「サンキュ」と俺はフォークを取り、ロールキャベツに息を吹きかけてかぶりつく。手作りなのか、キャベツがぶあつくて甘味が染み出した。
 キノちゃんは俺の正面の椅子に腰かけ、「五年生になるのが不安です」とふと切り出した。
「えっ」
「クラス替えがあるし、優瑚ちゃんとクラス離れるかもしれない。担任も壱野先生か分からない。そうしたら、私にできることってあるんでしょうか」
「クラス変わったら、優瑚とは友達ではいられなくなるの?」
「そんなことはないですけど、クラスが違うと状況が分からないこともある気がして」
「大丈夫だよ。キノちゃんになら、優瑚は何かあれば相談すると思うし。変に遠慮するより、今まで通り優瑚と仲良くしてやって」
 キノちゃんは俺を見つめ、小さく微笑むと「ありがとうございます」と言った。その笑顔は相変わらず淑やかで、「うん」と答えつつまたどぎまぎしてしまう。
「おにいさんは、春に中学校を卒業ですよね」
「ぜんぜん行かなかったけどね」
「高校に進学とか」
「しないと思う。どうせ勉強も分かんないしなあ」
 ロールキャベツの中身の肉が出てきて、それに咬みついてもぐもぐと口を動かす。キノちゃんはそんな俺に咲うと、「おにいさんも、いつでもうちに遊びに来てください」と言う。
「ごはんとか、おかあさんはきっと喜んで作ってくれるから」
「俺までいいの?」
「たくさん食べてくれる男の子は新鮮みたいです」
「はは。じゃあ、優瑚とセットだと思うけど」
「はい。私も待ってます」
「えっ。あ……そっか、うん」
 どきりとしてまた言葉がおかしくなった俺に、キノちゃんはくすりとすると「勉強してきます」と椅子を立ち上がった。「頑張れ」と俺が言うと、キノちゃんは頭を下げて、ダイニングを出ていった。
 朝の鳥のさえずりが通り抜け、外はいつのまにかだいぶ白んでいる。
 俺はかぶりついたロールキャベツを噛みしめ、彼女かあ、とぼんやり思った。何だかんだで、俺は初恋だってしていなくて、彼女ができるなんてつかめない雲みたいだった。

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