月光の少年-13

真夜中の終わり

 梅雨が明けて夏休みが始まり、壱野先生とかあさんは、式はのちほど挙げるということで、まず籍を入れて夫婦になった。先生の親父さんは、先生が事情を説明して「ごめん」と言うと、しつこく誘わずに「そのうち、みんな一緒に挨拶に来なさい」と言ってくれたそうだ。
 八月に汗だくになりつつ四人で暮らせるマンションに引っ越して、先生とかあさんの給料でやっていけるので生活保護も抜けた。初めて四人で夕食を食べたときは、「何か慣れないな」と先生は咲っていて、かあさんもはにかむように微笑んでいた。
 壱野先生は、校長にだけかあさんと結婚したことを伝えた。やはり、保護者とそうなったことをオープンにするのははばかれるらしい。校長も最初は渋面だったそうだが、ひと通りの話を聞くと理解をしめし、ただ「六年生の卒業までは伏せておきましょう」とは釘を刺してきたそうだ。
 優瑚もキノちゃん以外には話していない。キノちゃんもきちんと黙ってくれているみたいだ。
 まだ残暑が厳しい中で二学期が始まり、俺はしろちゃんにだけ家庭のことを打ち明けた。壱野先生がかあさんにプロポーズしたくだりでは、「よかったねえ、ほんとよかった」としろちゃんまで涙ぐんでいた。ゆずジャムを溶かして作るゆず茶を飲みながら、「これからは壱野なんで」と俺が照れ咲いながら言うと、「壱野くんだねっ」としろちゃんはにっこりと了解してくれた。
 季節は涼しくうつろい、毎日は順調で、今までが悲惨だったぶん、怖いぐらいだった。けれど、先生はきちんと夜にはかあさんの元に帰宅してくれるし、優瑚のそばにはキノちゃんがいる。俺も保健室登校をストレスなく楽しんでいる。
 ずっと、おかしかったのだ。俺の家はおかしかった。今、ようやく狂っていた歯車が噛み合い、耳障りにきしむことなく日々が過ぎている。
 冬休みが始まったクリスマスイヴ、俺と優瑚とキノちゃんでホールケーキとローストチキンを食べた。こんなまともなクリスマスは初めてだった。クリスマスなんて絶対に出勤だったもんなあ、とチキンの肉を剥ぎ落として食べていく。優瑚はクリームいっぱいのケーキを頬張り、キノちゃんも「おいしいね」と咲う。やがてかあさんも先生も帰宅して、五人でにぎやかに団欒した。
「優瑚ちゃんと木乃里ちゃんは、あと三ヵ月で卒業だなあ」と先生は寂しそうにして、「優瑚が中学生になる前に環境が落ち着いてよかった」とかあさんは安心した表情を見せる。優瑚は一瞬口を動かすのを止めたものの、「うん」と言ってケーキを飲みこむ。キノちゃんが優瑚を見つめて、優瑚はそれにぎこちなく咲い返していた。
 そうしていると、けっこう夜更けになり、キノちゃんのことを俺が家まで送ることになった。「僕が行っても」と先生は腰を上げかけたものの、「先生が送ってきたら、キノちゃんが学校で何かあったみたいだよ」と俺は苦笑する。キノちゃんのご両親には結婚のことは伝わっていない。なので先生も言い返せず、「雅羽くんも気をつけて」とここは俺にキノちゃんを任せてくれた。
 外はすっかり暗くなって、一瞬にして感覚を奪う冷気があたりに染みこんでいた。息がうっすら白いぐらいだ。でも雪は降らないのか、寒空には白い月がくっきり浮かんでいた。
 エレベーターで三階から一階に降り、道路に出ながら「寒いね」と通学にも使う黒のコートを着こんだ俺が言うと、「寒いですね」とキノちゃんは改めてマフラーをきゅっと締める。ふたりで並んで歩き出すと、静まり返った住宅街に足音が響いた。
 何となく沈黙になって、何か話さないと、と妙に焦ってしまった俺は、「もうじき中学生だね」とさっき先生も言っていたようなことを口にする。キノちゃんはうなずき、前方を向くまま言う。
「今度こそ、優瑚ちゃんとクラス離れちゃうでしょうか」
「不安?」
「うーん、五年生になるときほどじゃないです。私も優瑚ちゃんも、代わりなんて考えられないぐらい仲良くなったから」
「俺もそう思う。クラス変わっても仲良しでいられるよ」
「ありがとうございます」
 スニーカーを爪先を見つめて、ふと、さっきのどこかおかしかった優瑚が思い返った。キノちゃんなら理由を知っているだろうか。優瑚も、何でもかんでもを俺が把握しておかなくてはならない歳ではなくなった。それはよく分かっているけれど、あのぎこちない笑みは心配だ。
「キノちゃん」
「はい」
「もし、優瑚が誰にも話すなって言ってるなら、気にせず話さなくていいんだけど」
「……はい」
「小学校の卒業、じゃなかったら中学の入学に、優瑚って気がかりでもあるのかな」
「………、」
「さっき、卒業って話で何かおかしかったから」
「……よく見てますね」
「シスコンなんで」
 キノちゃんは口角をやわらげて咲い、それから、わずかに睫毛を伏せた。しばし思案していた様子でも、「優瑚ちゃん、」とゆっくりと吐き出す。
「セーラー服が怖いって」
「え」
「中学生になったら、セーラー服じゃないですか。私も優瑚ちゃんも、私立には行かないので。だから……」
 キノちゃんのなめらかそうな頬を見つめ、そうか、とやっと思い当たった。
 優瑚は幼い頃、あいつにセーラー服を着せられて嫌なことをされていた。毎日セーラー服を着るということは、毎日あのことを思い出すということなのだ。
 俺は天を仰ぎ、「あーっ」と焦れったい声を出す。
「ぜんぜん、そこまで考えられなかった。そうだよな、忘れられるわけないよな」
「……はい」
「思い出すよなあ。そりゃ嫌だわ。特に、もう思春期なんだもんな」
 キノちゃんはうつむき、俺は唸ってこまねく。
「私服登校は無理だよなあ。というか、周りにもセーラー服いるから、しんどいの同じか」
「そうだと思います」
「んー、どうしたもんかな」
 俺は考えこんでしまったものの、それに気を取られ、ついアスファルトのヒビにつまずいてはっとした。「大丈夫ですか」とキノちゃんがびっくりした声と立ち止まり、「平気」と体勢を直して俺も立ち止まり、腰に手を当てる。
「まあ、優瑚がフラッシュバックつらそうなら、無理に学校行くことないよって言ってやってくれるかな。俺だって保健室登校だしさ。『学校には行きたい』って言うなら、制服がブレザーの私立とか探してやるし」
「転校、ですか?」
「優瑚がそうしたいって言えばね」
「……ちょっと寂しいですけど、伝えておきます」
「ありがとう。ごめんね。だけど、キノちゃんなら、きっと優瑚のそばにいるだけじゃないこともできるから」
「そうでしょうか」
「うん。ほんとに──いつも、優瑚の話とか聞いて、支えてくれて、ありがとな」
 キノちゃんは首を横に振る。おろしている長い黒髪がさらさら揺れる。「友達だから力になりたいだけです」とキノちゃんは言葉と白い息をこぼす。
「でも、キノちゃん、俺とは別に友達……とかではないけど、俺のことも支えてくれてるよ」
 キノちゃんは睫毛を動かして、こちらを見た。
「キノちゃんのおかげもあって、今の俺たちがあるんだ」
「……おにいさんは」
「ん?」
「おにいさんは、もうちょっと人に頼ったり、甘えたりしていいと思うので」
「はは。よく言われる」
「私、でよければ……」
 キノちゃんはそこまで言って口をつぐみ、首をかたむけると、「すみません」と顔を伏せる。
「私じゃなくても、今は、頼れる人がいますね」
「え」
 頼れる人。俺がぽかんとすると、キノちゃんは提げるバッグの持ち手をぎゅっと握った。その頬には、かすかに色がさしている。
「頼れる……って、あ、先生? 確かに、先生が父親になってくれたのは──」
「違います」
 やけにきっぱり否定されて俺が口ごもると、キノちゃんは肩を力をゆっくり抜いて、吐息をつく。白く流れていく。
「優瑚ちゃんが」
「優瑚」
「おにいさんは、保健の先生のことを好きになってるって」
 咳きこみそうになった。優瑚! だから、それは違うと何度も言っているのに。
「ちっ、違うよ、それは優瑚がおもしろがって言ってるだけで。俺には、しろちゃんは先生だよ。いい先生だけど、絶対に恋愛対象ではない」
「そう、なんですか?」
「そうだよ。第一、好きになったって相手にされないって。だから、しろちゃんとはずっと先生と生徒」
 キノちゃんがじいっとこちらを見つめてくる。「ほんとだよ」と俺が念を押すと、キノちゃんはしぶしぶとながらこくりとして、正面を向いた。
 何だ。びっくりした。キノちゃんがそんな勘違いをするなんて。
「うらやましいです」
「へ」
「優瑚ちゃんも、その先生も、おばさんのことだって、うらやましい。おにいさんと、何かつながりがあって。私は、おにいさんの友達でもない」
「え……あっ、友達って名乗っていいなら友達だよ。ごめん、さっきの言い方悪かった」
「………、おにいさんみたいな人が本当のおにいさんだったら、すごく幸せだろうなあと思います」
 キノちゃんの横顔を見つめた。

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