月光の少年
俺が兄貴だったら。キノちゃんはそういうふうに思うのか。俺はキノちゃんが妹だったらなんて、一度も思ったことはない。そう思うには、キノちゃんの笑みとか仕草に、ついどきどきしてしまって──
「俺は……」
キノちゃんの視線が、頬に触れる。
「キノちゃんが妹だと、何か……やばいのかも」
「やばい」
「だって、その……妹には普通どきどきしないじゃん」
「えっ」
「兄妹だったら、むしろ、キノちゃんのこと幸せにできない……かも」
キノちゃんが大きく目を開く。何言ってるんだ、俺は。高校生が小学生相手にプロポーズみたいなことを。恥ずかしくなって目をそらしたけど、それでも、この寒さの中で体温が上がる。
でも、きっと、初めて逢ったときからそうだったのかもしれない。キノちゃんの凛としたたたずまいに、俺はどきどきしていた。妹の親友を意識するなんていけないと無意識に抑えてきたけれど、今、好きな女の子はいるかと訊かれたら、たぶんキノちゃんが浮かぶ。
「おにいさん」とキノちゃんに呼ばれ、おそるおそるそちらを見た。キノちゃんは淑やかに微笑み、「幸せにしてくださいね」と言った。俺はぱたぱたとまばたきをして、そのあと、「うん」と気恥ずかしくも答える。
それから、キノちゃんの手を握った。キノちゃんはそれを握り返し、俺たちは相変わらず、ひと気のない夜道をしばらく無言で歩いていく。
「優瑚ちゃんが、壱野先生と話してたことがあるんです」
ふと沈黙を破いたキノちゃんに、「ん」と俺は相槌を打つ。
「おうちつらいけど、おにいさんだけが優瑚ちゃんの光でいてくれてるんだねって」
「あ……俺も、先生に言われたことある」
「そうなんですか。そしたら優瑚ちゃん、おにいさんはお月様だからって」
「月」
「全部真っ暗で、家の中にいると終わらない夜みたいな気持ちになるけど、おにいさんが月みたいに光ってくれてるから怖くないって」
キノちゃんを見つめた。キノちゃんもこちらを見上げて、微笑する。それにおもはゆく咲い返すと、そっか、とやすらかな気持ちでキノちゃんの言葉を反芻した。
確かに、以前の俺の家庭は、夜明けの来ない、永遠の真夜中みたいだった。暗かった。怖かった。それでも、俺はかあさんと優瑚を守ろうとしてきた。それがふたりの光になっていたのなら、すごく嬉しい。どんな闇夜でも、かろうじて月光が足元を照らしてくれるみたいに、大事な母親とかわいい妹を今の幸せに導くことができたのなら。
「ありがと、キノちゃん」
「……キノちゃんっていうの──」
「ん?」
「えと、その、私も雅羽さんと呼びたいので。よかったら、木乃里って呼んでほしいです」
「木乃里ちゃん」
「ちゃんはいいです」
「木乃里」
「はい」
「……え、もうつきあってくれるの? 小学校卒業してからのほうが──」
「最近の小学生は早いんです」
俺がきょとんとすると、キノちゃん──木乃里は俺ににっこりしてみせた。俺は思わず噴き出すと、「小学生怖いなー」なんて言って木乃里とつなぐ手に力をこめる。
家族の三人だけではない、この女の子とも、ずうっと一緒に過ごしていきたい。自然とそう思った。
──年が明け、三学期になり、今回は留年せずに進級できるだろうと保健室を訪ねてきた担任に言われた。そして、保健室登校のまま、無事二年生になった。しろちゃんや手の空いた先生が勉強を見てくれるし、家には先生もいる。授業は受けていなくても、試験でつまずくことはなく、二年生も平穏に過ぎていった。
木乃里とつきあいはじめて、そろそろ一年になる冬の日のことだった。期末考査が始まる朝、保健室の赤く燃えるストーブの前にしゃがんで、試験問題を確認していた。しろちゃんはコンタクトがずれたとかで、席をはずしていた。
まだ、俺以外の保健室登校の生徒は来ていない。突然ドアが開く音がして、振り返ると、見知らぬ男子生徒がどこかおどおどした感じで保健室を見まわしていた。「おはよー」と俺が言うと、「おはようございます」と彼は俺に目をとめて、保健室に踏みこむ。
「あ、あの、保健の先生……」
「しろちゃんはちょっと出てまーす」
「しろちゃん……」
「白田だからしろちゃんじゃん」
「あ、えと、僕、保健室登校、今日が初めてで」
「そおなの? それは失敬」
彼もストーブに近づいてくると、軆が冷えているのか熱に手をかざした。かわいらしい感じの顔立ちで、ぱっと見では学年が分からない。「何年生?」と訊いてみると、「二年生です」と彼が答えたので「マジか」と思わず嬉しくなった。
「俺も二年生。一年ダブってるから歳はひとつ上かも。でも敬語じゃなくていいよ」
「はあ」
「俺は壱野っていうんだ。君は」
「あ、香河」
「香河くん。あ、二年ってことは受ける試験も一緒じゃね? ちょっとここ教えてよ」
「あ、うん」
香河くんは腰をかがめて、俺がしめした問題を見て、丁寧に解説してくれた。やがてしろちゃんが帰ってきて、俺と香河くんが打ち解けて話しているのを嬉しそうに見守ってくれた。
何でなのか分からないけど、香河くんは話しやすい人で、俺は勝手にあれこれ自分のことを語ってしまっていた。香河くんはそんな俺の話をまじめに聞いて、自分が教室に行けなくなった理由も話してくれた。
家族ができた。恋人ができた。そして、やっと友達もできたのかも──そう思うと、わくわくしてきた。
俺はずっと、ひとりで頑張らなくてはならなかった。闇を照らす月明かりを絶えず発していなくてはいけなかった。
しかし、みんな俺に言う。甘えていい。頼っていい。ついに夜が明けてきたのを感じている今、そろそろ厚意を受け取り、人に寄りかかるのも悪くないのかななんて思える。
ひとりではないのだ。みんな俺のそばにいてくれる。そんな人たちが、これからは俺にとっての光だ。
ひとりぼっちで輝く必要はなくなった。
俺の周りには朝陽が昇り、陽射しはとてもまばゆく未来へとつながっている。
その道のりを大切な人たちと共に歩んでいく。そして俺は、生きてきて初めて、晴れやかな青空と満ちあふれる陽光に包まれ、その温もりに身を預けてみようと思えている。
保健室登校の生徒がちらほら集まってきて、予鈴が鳴る。
さて、まずは試験に合格して留年阻止だ。ストーブを離れて、即席で並んだつくえに着いた。しろちゃんが配った、裏返しの問題用紙と空欄の答案用紙を見つめる。
やがて始業のチャイムが鳴ると、シャーペンをつかみ、勢いよく問題用紙をひるがえした。
FIN