醜い狂気
「お前、中学はまともに行ってるんだろうな」
口の中のものを見せてそう言い、とうさんは俺を睨みつけてくる。俺は鮭を解体しながら、そんなことも把握してないのかよと思ったが、「行ってんじゃないの」と冷たく答えた。
「何だ、その口調は。心配してやってるんだぞ」
俺はほぐした紅色の鮭の身と白飯を含み、口を閉じてもぐもぐとする。鮭の塩味と米の甘味を、窮屈な喉へと飲みこむ。
「まったく、学校ぐらいきちんと行ってくれないと、恥ずかしくてしょうがない。子供の話になったとき、俺がどれだけ嫌な想いをしてるか知ってるか? お前みたいな自慢にもならない息子、本当に──」
「仕事続いてんの?」
急に発された俺の冷めた言葉に、とうさんはとっさに口ごもった。俺はかすかに嗤ってしまう。
「すぐ辞めて次に行くから、周りも『お子さんはいるんですか』くらいしか振る話題がないんじゃね?」
とうさんは一気に顔を真っ赤にして目を剥き、テーブルをばんっとたたきつけた。
「うるさいっ。俺は悪くない、俺の力を理解せずに下っ端の仕事しかよこさない会社が悪いんだ。俺はもっとレベルの高い仕事ができるから、低次元な会社なんかすぐに切り捨てるだけだっ」
「あっそ」と俺は浅漬けを口に運び、ぽりぽりと歯ごたえを噛んだ。こいつ本当にバカなんだろうな、と静かに思う。とうさんは何やらまだわめいていたが、俺は黙殺して食事を続けた。
いびつな父親、不安定な母親、幼い妹──それらをひとりで背負いこんで、毎日を過ごしていった。仕事は相変わらず皿洗いで、楽しいとまではいかなくても、何とか続いていた。
春に働きはじめて、夏から秋までは感じなかったが、冬になると冷水での仕事になるのがけっこうつらかった。感覚が消え入った指先で、食器を取り落とさないように素早く洗っていく。冬から仕事を始めていたら、この手の麻痺でくじけていたかもしれない。
気づくと十二月になって、忘年会の客は朝まで飲み明かしていくから、俺たちの仕事も長引くことになる。その日は店を解放されたのが朝五時で、若干よろよろになりながら帰宅した。
音を立てないように部屋で着替えていると、「おにいちゃん」と呼ばれてはっと振り返った。背後のベッドでふとんをかぶる優瑚が、目を開いて俺を見つめていた。「ごめん」と俺はフードパーカーを着てからあやふやに咲い、「うるさかったか」と優瑚を覗きこむ。優瑚は首を振り、「眠れなかったの」と言った。
「そうなのか? とうさんがうるさくしてた?」
優瑚は視線を落とした。その睫毛が湿っていることに気づく。俺はベッドサイドに腰かけると、「そばにいられなくてごめんな」と優瑚の頭を撫でた。
「ほんとは、夜も家にいたいんだけど。生活費足りないし、かあさんを病院にも行かせてやりたいからさ」
「うん。夜は、あたしがおかあさん守る」
「ありがと。俺が働けるのは、優瑚がいるおかげだよ」
「おにいちゃんも、無理しないでね」
「おう。サンキュ」
「……あたしも頑張る」
俺は優瑚を見つめた。「何かあった?」と何となく気になって訊いてみると、優瑚は首を横に振った。「そっか」と俺は問いつめることはせず、「じゃあ俺、一時間くらい寝るわ」と笑みを作ってから、仕事のあとでも取りつけるようになったはしごをのぼり、ベッドにもぐりこんだ。
それから数日が経った、日中のことだった。かあさんが少し落ち着いていると言うので、掃除を手伝ってもらっていた。
あと一週間くらいで年が変わる。目下は働いているらしいあいつも正月休みになり、ばたばたうるさいとかわめいて大掃除はさせないだろうから、今のうちに少しずつ掃除をしている。
俺は浴室を、かあさんは寝室を、それぞれに掃除していた。不意にかあさんの声に名前を呼ばれ、バスタブをこすっていた俺は振り向く。
「何? 終わった?」
かあさんは首を横に振り、「ちょっと分からないことが」と小さな声で言った。分からないこと。何だろ、と思いつつ「すぐ行く」と立ち上がり、裸足と手をゆすいでバスタオルでぬぐう。
かあさんは俺を寝室に招き、普段あまり入らないし、入りたくもないので眉を寄せたが、「これ」とかあさんがベッドに広げたものを指さしたので、それを見るために俺も室内に踏みこんだ。
セーラー服だった。ただし、サイズは明らかに標準でなく、子供用くらいだ。何でこんなものが俺の家にあるのだ。「何これ」と首をかしげると、「クローゼットを片づけてたら出てきたの」とかあさんも首をかたむけた。
「この部屋のクローゼット?」
「そう」
「……普通の中学生のサイズじゃないね」
「そう、だよね」
「優瑚くらいのサイズかな。つっても、優瑚の服ではないよな」
俺はこまねいて首を捻りかけたものの、かあさんが分からないということは、そもそもこれを購入したのは誰だということに気づく。優瑚のものではない、というか、優瑚はまだ自分の服をひとりで買いにいったりしない。もちろん俺が買うわけもないし、ということは──
「……あの人が」
俺もそこに思い当たっていたので、隣のかあさんを見る。
「あの人が、セーラー服……」
俺は露骨に顔を顰めて、「好きなの?」と率直に訊いた。「私も昔、着せられたことがあって」とかあさんはかぼそく言った。胸糞悪く感じたけれど、すぐにはっとした。
私『も』? 『も』ってことは、つまり──
「まさか、あいつ、これを優瑚に着せてんの?」
「分からないけど、そうかもしれない……と思って」
広げられたセーラー服を、さっと睨みつけた。肩に力がこもり、一気に全身が怒りで腫れあがった。
あのくそ野郎! 口ばかりは大きくも、手を出すような度胸はないと思っていたのに!! いくら優瑚が幼くて、力がないからって、そんな──
「俺があいつと話す」
すりつぶしたような低い声で言うと、「えっ」とかあさんはこちらを向く。
「あの、でもまだ──」
「それしか考えられないだろ、くそっ……。今日は俺、仕事休むか、遅刻する。確かめるまで家にいる」
「ご、ごめんね。私が変なもの見つけて」
「いいんだよ。見つけてくれてよかった。優瑚を助けないと」
俺は小さなセーラー服をつかむと、かあさんは悪くないので声を何とかやわらげる。
「えーと……俺が話してるあいだは、かあさんは優瑚のそばにいてやってくれる?」
とまどうままながら、かあさんはうなずいた。「ありがとう」と言って寝室を出た俺は、物々しい顔つきに戻り、セーラー服は透明のゴミぶくろに突っ込んで、リビングのテレビの後ろに隠す。
それからママのスマホに電話をかけて、簡単に事情を話すと、『気持ちは分かるけどね、やりすぎるんじゃないよ』と休むことを承諾してもらった。途中だった風呂掃除だけは片づけ、すっかり鬱に侵入されてしまったかあさんには、頓服を飲んでもらった。
「優瑚の話は、男の俺よりかあさんが聞いてやって」
優瑚が学校から帰宅して、俺がそう頼んでみると、かあさんはうなずいてカウチを立ち上がった。「優瑚、少しおかあさんと話そう」と話しかけられた優瑚はきょとんとして、「おかあさん、今日は元気なの?」なんて言っている。「うん。だから、優瑚のお話が聞きたい」とかあさんが言うと、優瑚はしばしその顔を見つめて、急に泣きそうになって「あたしもおかあさんとお話したい」とかあさんの手を握った。
──ああ、やっぱり。俺はその声音で、だいたいを察してしまった。優瑚とかあさんが子供部屋に入ってしまうと、俺は怒りに任せて暴れたい感覚に歯を食い縛りながら、夕食を作った。
とうさんが帰宅したのは、十八時半を過ぎた頃だった。俺が夜に出てこないのは部屋で勉強していることになっているが、こいつはそれを信じているらしい。今日は俺のすがたがあって、少し驚いた顔をした。
「話がある」と俺がこわばった声で言うと、「俺は疲れてるんだ」と取り合う気もなさそうに風呂に行きそうになった。本当は、その後頭部に煉瓦を打ちつけたかった。その背中に包丁を刺したかった。衝動を何とかこらえて、「これ何だよ」と俺は持ってきたゴミぶくろを掲げた。とうさんはこちらを一瞥し、ゴミぶくろの中身を見取って目を見開く。
「てめえ、優瑚に何した?」
「な、何で、お前がそれを、」
「優瑚に何したんだよっ。まさか、全部やったなんて言うんじゃねえだろうなっ」
「ち、ち、父親に向かって、何だその口ぶりはっ」
「お前なんか父親と思ってねえっ。全部警察に話してもいいんだ、優瑚にやったことも、今までのことだって!」
「ゆ、優瑚……にはっ、何もしてないっ。着せただけだ、本当に、着せただけだ」
俺はぎりぎりと絞め殺すように、とうさんを睨めつける。無意識に息が荒くなっていた。
とうさんは目をそらし、「それから……お前も、もう、やる歳だろ」と言われて、「あ?」と俺は眉を上げる。
「お前も自分でやったりするだろうっ」
「何言ってんだよ」
「着せて、それで……優瑚には触ってない、触らせてもないっ。俺は何もしてないっ」
渋面で考えてから、俺はこいつが言っている意味を理解した。つまり、セーラー服を着せられた優瑚の前で、この男は自慰をしたのだ。
それを飲みこんだ途端、耐えがたい嫌悪が爆発して、俺はつかみかかって殴りつけようとした。しかし、とうさんはそれをよけ、俺をどんっと強く押し退けた。
その力が予想以上で、それでも俺はまだ殴ろうとしたが、逆にとうさんに殴られると、ぜんぜん敵わなかった。とうさんも俺の腕っぷしが自分より弱いのを悟ると、次第に余裕の笑みを取り戻して、最後には俺にのしかかって繰り返し頬をぶん殴ってきた。
悔しいが、力では俺の負けだった。それでも、「優瑚に何かしたら全部人にチクるからな」と切れた舌からの血を口元に流しながら言った。とうさんは俺を鼻で嗤い、やっと俺を解放して浴室に行った。
俺は目をぎゅっとつぶって、冷たいフローリングに転がる。
くそ。何であんな奴に屈服して生きていかなきゃいけないんだ。どうやったら、俺はかあさんと優瑚をあいつからきちんと守れるんだ。
いくら考えても、何も分からなかった。
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