寄り添える存在
「あっ、いきなり失礼します。優瑚ちゃんの今年度の担任をさせていただいております、壱野瞬司と申します」
顔を合わせる間もなく、いきなりがばっと頭を下げられた。俺が面食らっていたら、壱野先生は顔を上げて、「あ、あれ」と少しずれた眼鏡の位置を戻す。
まだ、二十代なかばぐらいの男だった。ぱっと見た感じ、髪型も体格もスマートな印象だったが、よく見るとネクタイの結び目が何だか不器用で、かなり緊張している様子だった。若そうだし、生徒の家族とかに慣れていないのかもしれない。
「君は──あ、優瑚ちゃんのおにいさんかな?」
「あ、はい……」
「そうか。驚いた、いきなりおとうさんが対応したのかと」
ちなみに、俺は年明けくらいに声変わりをしていた。店では、赤飯のコンビニおにぎりをくれたお姐さんがいたっけ。
というか、父親かもしれなくてそんなに焦るって──何だか笑ってしまうと、壱野先生もふわりと微笑んだ。
「じゃあ、優瑚ちゃんがよく話してる雅羽おにいちゃんだね」
「え、あ……俺のこと話してるんですか」
「友達にもよく話してるよ」
「ああ。キノちゃん、ですね」
「顔見知り?」
「いや、まだ会ったことはないんですけど──」
壱野先生の物柔らかな雰囲気に、無意識に気をほどいて話しそうになっていたときだ。
家の中から、がちゃんっ、と何か割れる音がした。はっと家の中を振り向いて、現状を思い出す。
すぐさま「何やってるんだっ」という怒号が続いたので、壱野先生は怪訝そうに奥を覗く。
「今の──」
「……優瑚、あんまり、この家好きじゃないと思うんで」
「えっ」
「先生には知られたくなくて、家庭訪問のプリント、俺に渡さなかったんだと思います」
「………、」
「すみません。親はたぶん、まともに先生と話せないっていうか──」
かあさんの怯えて謝る声がして、それにとうさんの怒鳴り声がかぶさる。
壱野先生は察した様子を見せると、急に真剣な瞳になって「君もひどいことされてる?」と腰をかがめて俺を覗きこんできた。俺はその瞳を見つめて、ぎこちなく咲うと、「よく分かんないです」と答えた。
「でも……」
「うん」
「優瑚は、嫌な目に遭った」
「……そう。分かった。今、止めに入ったほうがいいかな?」
「いや、……何も聞かなかったことにしてください」
「それは、」
「大丈夫です。通報とか、ちょっと、されるとまずいし。俺も困るんで」
「どうして──って、初対面の僕には話せないこともあるね。ごめん」
「いえ。優瑚、今は学校が楽しそうだから。よろしくお願いします」
「……無理しないで。何かあれば、小学校に来て僕に話してくれていいから」
「はい。ありがとうございます」
家の中のいつもの騒音が、ぐさぐさと心に刺さる。なぜかひどく恥ずかしかった。
壱野先生はうつむいてしまう俺を見つめて、考えこんだあと、「家庭訪問できなかった代わりに、一度、学校のほうで面談はできる?」と問うてきた。
「えっ……と、俺でいいですか?」
「もちろん。家庭訪問は今週いっぱいで落ち着くから──来週の水曜日の午後で、都合いい時間あるかな?」
「なるべく早いと助かります。十七時以降は無理」
「分かった。十五時半は?」
「大丈夫です」
「じゃあ、そのとき話そう。何でも聞くから。ひとりで抱えこまないようにね」
俺は壱野先生の瞳を見つめた。一瞬、泣きそうになった。そんな、許してくれるような目は初めてだった。
ああ、この人には何も知られたくなかったな。そう思う半面、全部知ってほしいような気持ちになった。壱野先生は俺の肩を温かくたたくと、腕時計を覗き、「待ってるからね」と言い置いて、やや後ろ髪を引かれるようでも、俺の家の前を立ち去っていった。
ため息をついて、ドアを閉めた。とうさんが怒っている。かあさんが謝っている。
ほんと恥ずかしい家だな、と思った。優瑚が友達には家の中を隠したがる気持ちが、ようやく分かった気がした。俺だって、もし友達がいたら、こんな家には連れてきたくない──
翌週の水曜日、俺は自分も以前はたまに行っていた小学校におもむいた。よく晴れていて、陽気はちょっと暑いくらいだった。
考えて、壱野先生が家に訪ねてきたことはかあさんにも優瑚にも、当然あいつにも黙っていた。だから、今日小学校に行くことも秘密だ。両親を家に置いていくのが不安だったのだが、さいわいあいつは面接に出かけたまま、どこに行ったかは知らないが帰ってきそうになかった。
校門への並木道は葉桜で、鮮やかな緑になっている。生徒はまだけっこう残っているようで、笑い声や駆け足が響いていた。
勝手にスリッパを借りておき、職員室に顔を出した。俺を知っている教師に見つかる前に、適当な先生に壱野先生を呼んでもらう。壱野先生はあのときのスーツとは違う軽装で現れ、俺を応接室に通して、お茶まで出してくれた。
「来てくれてよかったよ」
つくえを挟んで向かい合ったソファに腰かけ、壱野先生がなごやかに微笑む。俺はぎこちなくうなずき、湯飲みに口をつける。冷たい麦茶だ。
「もしかして、来ないかもしれないとも思ってたから」
「ちょっと、悩みました。でも、学校での優瑚のことは聞いておかないといけないかなって」
「そっか。しっかりしたおにいさんだね」
壱野先生を見た。眼鏡越しに、やっぱり、あの凪いだ瞳がそこにはある。
「優瑚、学校では何か問題とかないですか」と訊いてみると、「大丈夫だよ」と壱野先生は咲った。
「教室ではちょっと引っ込み思案なところもあるけど、思いやりのある子だよ。二年生の担任の先生に、コミュニケーションが少しって聞いてたけど、だいぶ頑張って同じ班になった子と話したりしてる」
「そう、ですか」
「授業は真剣に聞いて飲みこんでくれるし、少し小柄だけど健康的だと思う。給食も好き嫌いせずに食べてくれるよ」
「前は、優瑚ってあんまり学校行くの好きじゃなかったみたいで。仲間外れとか、されてないですか?」
「クラス替えしたばかりの頃は、僕もそういう空気を感じて心配だった。そこは木乃里ちゃんがいてくれて、みんなも優瑚ちゃんを受け入れつつあるように感じる」
「きのり……ちゃんって、あ、キノちゃん」
「そう。木乃里ちゃんは、落ち着いてておねえさんっぽい感じの子かな。目立つタイプではないけど、意思はかなりしっかりしてる」
俺はうなずきながら、「三年生になってからは、キノちゃんのおかげで学校行くの楽しそうで」と湯飲みをつくえに置く。
「俺もほっとしてます」
「うん。これでも、僕にもわりと懐いてくれてるみたいだから。木乃里ちゃんとよく手伝いもしてくれるんだよ」
「そうなんですか」
「僕が頼りないからかもしれないけどね。まだ、教師になって三年なんだ。みんなと同じ三年生」
「あ、かなり若いかなって思いました」
「今年二十五だよ。雅羽くんは高校生ぐらい?」
「いや、まだ中二です。っていっても、ぜんぜん行ってないけど」
「そう、か」
「えと……まあ、はい」
俺は湯飲みをつかむと、麦茶をごくんと飲んだ。
そういう話にもなるよな、と覚悟はしていたものの、ここからどう切り出せばいいのだろう。口火を躊躇っていると、壱野先生が口を開いた。
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