淡い灯火
「優瑚ちゃんには、僕が家に行ったことは話してないのかな」
顔を上げかけ、目を合わせるのが怖くて、「すみません」と伏し目になる。「いや」と応じた壱野先生は、「一応、僕のほうからも誰にも話してないよ」と言った。
「本当は、ちゃんと報告しなきゃいけないんだけど──」
「いや、それは、いいんです。黙ってもらえてありがたいです」
「………、このあいだ、日中なのに君は家にいたし──優瑚ちゃんが、おにいさんが仕事も家事もやってることを心配してるときもあったから。中学生ではないのかな、と思ったんだけど」
どきんと肩が揺れる。
「ほんとに、働いてるの?」
「……俺の事情を分かってくれるところで、手伝い程度ですけど。正式なバイトではないです」
「昼間は家で家事をしてるんだよね。もしかして、夜に働いてる?」
俺はうつむいて、やばい、と胸がざわざわしてくる。さすがに水商売の店で働いてるのは知られたらまずい。こんな俺を雇ってくれているママへの義理もある。
俺がだんまりになると、「君はすごく自分を持ってるみたいだから」と壱野先生は静かに言う。
「君が決めてやっていることなら、責めたりはしない」
壱野先生を見る。その瞳は揺るぎなくて、思わず事情を吐いてしまいそうになった。が、どうしても喉がつっかえる。
そんな俺を見取ると、先生は優しく微笑んだ。
「いきなり、全部話せとは言わないよ。打ち明けていいと思うことを、ゆっくりと話していってくれないかな。君がそれをどこにももらしてほしくないなら、きちんと僕の胸に秘めておく。ただ、ひとりでも、いざってとき味方になれる大人はいたほうがいい」
「味方……」
「そう。ご両親は──あまり、強い人ではないんだよね?」
「……かあさんは、優しいです。優瑚も懐いてる。ただ、その……鬱病って言われて、薬がないと無理で」
「うん」
「もう一方は……まあ、家庭訪問のときのあんな感じですね」
「あのとき、おかあさんは大丈夫だった? 割れる音とかしてたけど」
「あ、はい。コーヒー淹れろって言われて、カップ落としちゃったみたいで。コーヒーくらい自分で淹れたらいいんですけどね、それはしないんですよ。できないのかな」
自嘲するような口調で嗤うと、壱野先生は少し黙ってからつぶやく。
「優瑚ちゃんにとっては、家では君だけが光なんだろうね。それは、おにいさんの話だけは嬉しそうにしてくれるので感じるよ」
俺は顔を上げ、軽く首をかしげる。
「今は、学校にキノちゃんとか──先生もいるし。ほんと、優瑚の担任が先生でよかったです」
「ありがとう。君もつらいのによく頑張ってるね。でも、少しでいい、甘えてもいいんだからね」
俺はうやむやに咲いつつも、「はい」と答えた。壱野先生は穏やかな笑みを作ると、「もし迷惑じゃなかったらなんだけど」とシャツのポケットからたたんだ紙を取り出す。
「念のため、僕の連絡先、教えておいていいかな」
「あ、はい。俺はスマホとか持ってないんですけど」
「そうなんだ。じゃあ、連絡先として聞いてる家電を登録していいかな」
「大丈夫です。あ、あの」
「うん」
「先生の連絡先、優瑚にも持たせていいですか」
「もちろん構わないよ」
「すみません。何というか、俺の仕事中に何かあったとき、先生に連絡するように言っておきたくて」
「そうだね。そうしてくれると、僕も安心だよ」
ほっとしながら、受け取った先生の連絡先をポケットに入れてきた財布にしまった。何となく秒針の音に気づき、掛け時計を見上げると十六時をまわっている。
「そろそろ仕事があって」と俺が言うと、壱野先生はうなずいて俺の仕事についてはもう突っ込まなかった。応接室を出て、いつのまにか静かになった廊下を歩き、先生は靴箱まで見送ってくれる。
「雅羽くん」
スニーカーを履き、頭を下げようとした俺に壱野先生が言う。
「僕は土日関係なく、わりといつでも学校にいるから。居心地が悪いときは、優瑚ちゃんと一緒に学校においで」
俺は壱野先生を見つめた。そして、優瑚が楽しそうに学校に行くようになった理由が改めて分かった気がした。キノちゃんの存在も大きいだろう。けれど、きっと、この先生が優瑚も大好きなのだ。「そうさせてもらいます」と俺が頭を下げて笑顔になると、「よし、咲った」と先生もにっこりしてくれた。
それから、何日か悩んだ挙句に、俺は優瑚に壱野先生に会ったことを話した。優瑚はとっさに不安げな表情を覗かせたが、「先生が俺たちの味方になってくれるって」と伝えると、「ほんと?」とぱちぱちと睫毛を動かす。「あの先生、俺好きだわ」と言うと、「あたしも先生好き!」と優瑚は嬉笑した。
「家が嫌だったら、いつでもふたりで学校来ていいって」という言葉も伝えると、「じゃあ、おにいちゃんも一緒に学校行こうよ」と優瑚は俺の手をつかんで、「いや、さすがに授業には参加できねえよ」と俺は苦笑いしてしまった。
初夏が終わり梅雨が来て、梅雨が終わり真夏が来て、季節は巡っていった。優瑚と一緒に小学校に逃げるとはいっても、かあさんとあいつをふたりにするのは忍びないと思っていたが、先生の話を聞いたかあさんは、「私は大丈夫だから、できればそうしなさい」と言ってくれた。
無理しているし、大丈夫でもないのは分かっていても、かあさんも親としてそれぐらいしたかったのかもしれない。だから、俺と優瑚は土日とかにたまに小学校に行くようになり、そんなとき、壱野先生は温かく迎えてくれた。
蝉が鳴きはじめ、すぐ夏休みが始まり、優瑚はキノちゃんの家にお泊まりまでするようになっていた。そして、「キノちゃん、まだ会ったことないなー」と俺がぼやいたのが効いたのかどうか、めまいのする猛暑の八月のある日、「キノちゃんがおうち来てくれるから、お菓子買いたい」と優瑚がひかえめに俺の服を引っ張ってきた。
とうさんは働いているときで、日中なら我が家はいつでもOKだった。優瑚は夕飯の買い物についてきて、あれこれお菓子を吟味した。
「もう全部買っちゃえ」と俺が笑うと、「いいの?」と優瑚はぱっと顔を上げる。「キノちゃんにはお礼しなきゃいけないからな」と俺は優瑚が手にしていたお菓子をぽいぽいとかごに入れて、「よし、次は今日の夕飯の材料だ」と歩き出す。「ハンバーグ食べたい」と優瑚が言うので、「はいはい」と今夜はハンバーグに決まった。
キノちゃんが俺たちの家を訪ねてきたのは、その数日後だった。迎えに行っていた優瑚が、「ただいまー。外暑いよー」と声を上げ、「お邪魔します」という声も続いたので、お、と乾燥まで終わった洗濯物を取りこんでいた俺は玄関を覗く。
「おかえり、優瑚」
「あっ、おにいちゃん。キノちゃん、これがおにいちゃんだよー」
はしゃいだ優瑚に、「『これ』って」と笑ってしまいつつ、俺はその後ろにいた女の子を見る。
「いらっしゃい、キノちゃん」
「初めまして、桜城木乃里です」
そう言って頭を下げたのは、小学三年生にしては長身で、髪もポニーテールにした大人びた女の子だった。凛とした黒い瞳、綺麗な鼻梁に引き締まった口元、何というか、学級委員長とかやっていそうな雰囲気だ。服装も藍色のワンピースで大人っぽい。
「おにいさんのことは、優瑚ちゃんによく聞いてます。今日はお邪魔します」
そう言って見せた笑顔も、無邪気というより淑やかな感じで、「お、おう」と俺はどぎまぎとどもってしまう。「おにいちゃん、ほっぺた赤い」と優瑚が言って、「そんなことありませんっ」と俺は一度目をそらし、もう一度キノちゃんを見る。キノちゃんはまっすぐこちらを見つめていて、俺はどんな顔をしたらいいのか、へらっと咲うしかなかった。
そこで、ありがたいことにかあさんがリビングから現れ、キノちゃんの視線と挨拶は、そちらに向かった。かあさんもうわさのキノちゃんの登場に表情が綻んでいる。「おかあさん、一緒にミルクティー作ろっ」と優瑚はかあさんの手を引き、キノちゃんは俺とのすれちがいざま、もう一度会釈してふたりのあとを追った。ふわっと優しいシャンプーの匂いが名残った。
何というか──最近の小学生、すげえな。と思いつつ、洗濯機に向き直った。
いや、あれぐらいで普通なのか? 優瑚が子供っぽいのか? というか、なぜ俺はどきどきしているのだ。小三相手はロリコンになるぞ。あの子、まったくロリっぽくないけど。
女三人で楽しそうにやっているのを横目に、俺は家事に勤しみ、所帯染みてるとか思われてるかなーと特にキノちゃんをチラ見してしまう。
キノちゃんは優しい。優瑚はそう言っていたが、確かにキノちゃんは優瑚が選んだお菓子を「おいしい」と喜んだり、お泊まりのときのことを「楽しかったよね」と話したり、かあさんにも学校でのことを語って気遣いを見せている。「お菓子はおにいちゃんがいっぱい買ってくれたの」とチョコチップクッキーを頬張る優瑚が言うと、「ありがとうございます」とキノちゃんの視線が来て、「いや、うん、お礼だしね」と俺はまた変な口調になってしまった。
十七時くらいに、キノちゃんは見送る優瑚と共に、俺たちの家をあとにした。俺絶対に変だっただろ、と若干焦っていたので、「また遊びに来てね」という言葉だけはきちんと帰り際に伝えた。「はい」とキノちゃんはやはり淑やかに微笑んで、「おにいさん優しいね」と優瑚に言い、「かっこいいでしょっ」と優瑚は得意げに返す。
すると、キノちゃんは初めてちょっとだけ照れた感じで、「うん、かっこいい」と言っていた。いや、ぜんぜんかっこよくないです……。と、こぼれそうになったのをこらえて、俺は優瑚とキノちゃんを玄関まで見送った。
それから、夏休みには何度かキノちゃんが遊びに来てくれた。俺もかあさんも、あっという間にキノちゃんを嬉しい存在として受け入れた。
夏休みが終わる直前、優瑚とキノちゃんが、子供部屋でふたりきりで長いあいだこもっていたことがあった。あとで優瑚が話してくれたところによると、キノちゃんに家の中のことを全部打ち明けたそうだった。あいつにセーラー服を着せられたことまで。
キノちゃんは優瑚の手を握って、いつでも自分の家に泊まったりしていいと言ってくれたそうだ。その話をしながら優瑚は涙をぽろぽろ落とし、「キノちゃんと友達になれて嬉しい」とつぶやいた。俺は優瑚の肩に手をまわして頭を撫でると、「キノちゃんのこと、大事にしろよ」と力強くささやいた。
優瑚は何かあるとキノちゃんに相談するようになり、俺は俺で、相変わらずたまに小学校にお邪魔したときに、壱野先生とだいぶん打ち解けて話せるようになっていた。少しずつ、これまでのことを話したりするときもあって、きっと教師という立場ならしかるべきところに報告しなくてはならないのに、俺の気持ちや仕事の立場を理解して黙っていてくれた。
そんな俺たちを、かあさんも喜んでいたのは嘘ではなかったと思う。
さわやかな秋が、冷たく乾燥した冬にうつろっていく。年が明け、三年から四年はクラス替えがないので、優瑚の担任は今年も壱野先生だし、キノちゃんも同じクラスだろうと俺は安心していた。緩やかに春が芽生えて、優瑚は進級し、俺も百円時給が上がる。
そんな頃、外に向かう俺たちを優しく見送ってくれていたかあさんに、ちょっとずつ異変が起きはじめていた。
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