増える薬
それに気づいたのは、梅雨時のじとじとした霖雨の日だった。
俺は相変わらずゴム手ぶくろをして、あいつの洗濯物を洗濯機に放っていたが、かあさんが起きてきたのでその手を止めた。「おはよう」と声をかけたのだけど、返事はなく、かあさんはキッチンに行ってしまった。
ん、と違和感を覚えたので、急いで洗濯物を全部入れて、洗剤もすすぎも多めにかけるとかあさんを追いかけた。
「かあさん。おはよう」
ダイニングテーブルのそばに立っていたかあさんは、今度は俺に顔を向け、「おはよう、雅羽」と力なく微笑んだ。その手元には薬のふくろがあったのだけど、もう空になってしまったシートだけがあった。
「あれ、薬なくなったの」
「うん……」
「病院、まだ来週じゃなかった?」
「そうなんだけど、……少し、多めに飲んだ日があったからかな」
「え、守らなきゃダメじゃん」
「ごめんね、ちょっと眠れなくて」
「そっか。先生に相談しないとね」
「でも……もう、増やしてはくれないと思うの」
「いや、増やさなくても、効かなくなったら別の薬に処方変えたりするって言ってたじゃん」
「……そうだね。変わったら効くかな」
「とりあえず、次の診察までは代わりに頓服飲んどきなよ」
「うん。ありがとう。それは飲んだから」
かあさんは空のシートをふくろに戻して、引き出しにしまった。空シートをそのままゴミ箱に入れたら、あいつにばれるかもしれないので、ゴミ出しのときに俺がそこから回収するようにしている。
かあさんはリビングのカウチに座ったが、すぐに横たわってしまった。「朝飯は?」と訊くと、「お昼に食べるね」とだけ言ってかあさんは目を閉じる。鬱来たのかな、とそれならあれこれうるさいのも悪いので、俺は先に終わって取りこんだ洗濯物をたたむために持ってこようとした。
が、頓服は飲んだ、と言ったのに、飲みこむための飲み物のあとがどこにもないのに気づく。しかし、かあさんは睫毛を伏せてこもってしまっている感じだったので、しつこく訊けなかった。
それから、かあさんは自分ひとりで薬を飲むとき、大量ではなくても用量より多く飲むようになっていった。俺は何度か注意したものの、「ごめんね、気持ちがつらかったの」とか言われ、そう執拗に厳しく言いづらくなった。先生から注意してもらうしかないかなあ、と久しぶりにかあさんの通院についていくのも検討していたが、俺も家事や仕事でなかなか都合がつかなかった。
今年も煮えたぎるような夏で、ときおり通過する台風のときだけ、荒々しく雨が降る。そんな季節が終わりかけ、優瑚の夏休みも過ぎ去って、カレンダーでは九月になった。昼間は残暑だったが、朝と晩はずいぶん涼しくなった。
その日は通院日で、十六時の予約に間に合うよう、かあさんは十五時半くらいに出かけていった。それを見送ったのと入れ違いに、優瑚が学校から帰ってきて、キノちゃんや壱野先生の話をしてくれる。
ずいぶん優瑚明るくなったよなあ、と感じていると、十六時を過ぎたので、冷蔵庫を見て夕食を作りはじめる。冷凍庫から鮭の切り身を見つけて、ムニエルにでもすることにした。
優瑚にも手伝ってもらいながら、副菜も添えて夕飯ができあがると、俺はすぐに仕事の支度に取りかかる。
店に勤めはじめて、俺も二年半近く経とうとしている。お姐さんたちの顔ぶれはすっかり変わったし、兄貴みたいに感じていたチーフもこの夏に昼の仕事に転職し、今度は渋い感じのおじさんがチーフとして働きはじめた。
変わらないのはママと客で、かなりの常連なら俺のことを知っている人もいるようになった。それでも、やっぱりホールには出なくて、ひたすら皿洗いだけれど。
新しいチーフがまだ手慣れないので、アイスを割ったりフルーツを飾りつけたりはこっそり手伝っていて、「ミヤくんには勝てないなあ」とチーフは俺なんかに頭が上がらない様子だ。「すぐ慣れますよ」と苦笑しつつ、その日も午前三時に営業が終わって、閉店作業のあと午前四時に家路についた。
風が軽やかに頬を撫でる、静まり返った夜道を抜け、団地の前にたどりついたときだった。嫌でも覚えのある怒声があたりに響いてきて、思わず渋面になった。
あいつの声だ。こんな時間に何だよ、と舌打ちしたものの、俺は急いでドアの前に駆け寄って鍵をまわし、ドアを開けた。
「恥ずかしいと思わないのか、自分から頭がおかしいと言ってるようなものだぞっ」
そんな声が近所迷惑に夜をつんざき、眉を顰める俺は後ろ手にドアを閉める。かあさんが謝りながら泣いているのが聞こえる。
音を殺してスニーカーを脱ぐと、明かりがもれるリビングに行こうとした。が、服に煙草のにおいが染みついているのに気づき、これだけは念のため着替えておこうと優瑚との部屋に入る。
暗闇の中で、「おにいちゃん」と怯えた小さな声がした。ベッドを見ると、優瑚が目を開いているのがぼんやり見取れる。この部屋にも怒号が無遠慮に聞こえてくる。俺はベッドに近づき、優瑚のまくらもとにひざまずいた。
「優瑚。あいつ──ずっと?」
「うん……おにいちゃんがお仕事に行ったあと、おかあさんと帰ってきた」
「かあさんと?」
「おかあさんが病院に行ってるの、ばれちゃったみたい……」
目を開いた。あいつにかあさんの通院がばれた?
「病院からおかあさんが出てくるのを見た、みたいなこと言ってる」
「何で、あいつがそんな時間帯に駅前に──いや、もしかしてまた仕事辞めたのかな」
「分からないけど、おかあさん、お薬も飲ませてもらえてないみたいでつらそう」
「俺が入っていってみる。着替えだけするよ」
優瑚の頭を撫でると、立ち上がって服を着替えた。
仕事中は黒服になっていても、店に置いているだけでこの私服にも煙草が染みつく。このにおいで俺の外出に気づかれるとか、煙草を吸っているとかあいつに誤解されるのも面倒だ。
クローゼットから取り出した柔軟剤の匂いの服を着て、不安そうな優瑚に「大丈夫」と言い置くと、俺は部屋を出た。
「分かってるのか、精神科なんて狂ってる奴の行くところだっ。お前自身はふてぶてしいから、人にどう思われようが気にしないのもしれんが、俺の立場になって考えろっ。女房が精神科に通って、薬ばかり飲んでるなんて、周りにどう思われるかっ」
廊下に出ると、怒鳴り声がいっそう生々しくなる。
あいつがわめいていることは、相変わらず自分勝手だ。かあさんは人に病院のことを話しているわけではないし、拡散しているのは今まさにあいつ自身だろう。たぶん同じ棟には筒抜けだ。
俺は深呼吸し、顔を上げると、早足でリビングへと廊下を抜けた。
そこでは、くずおれて土下座のような格好になったかあさんの頭を、とうさんが踏みにじっていた。あたりに薬のシートが散らかり、かあさんの嗚咽が弱々しい。とうさんはスーツのまま、着替えさえしていない。
「いいかっ、病院なんか許さないからなっ。まともになりたいなら俺がたたきこんでやる、ただ愚痴るために金まではらうなんて──」
「いい加減にしろよっ」
滔々とかあさんを罵るとうさんに割りこんで、俺はとうさんの胸倉をつかんだ。いつのまにか俺はとうさんより背が高くなって、昔なら簡単に振りはらわれた力も強くなっていた。とうさんは踏ん張ったものの、俺が強く押し退けてはらい投げると、思ったより簡単に体勢を崩して尻餅をついた。
「何するんだっ」
「てめえこそ、かあさんに何してんだよっ。誰のせいで、かあさんが病院にまで追いこまれたと思ってるんだ」
「そいつが弱いんだ、適当に病名をつけられて騙されてるんだっ」
わけの分からない主張は無視して、「大丈夫?」と俺はかがみこんでかあさんを抱き起こした。「ごめんね」と言いながら顔を涙でぐしゃぐしゃにするかあさんは、手を震わせている。「とりあえず薬飲もう」と俺が散らかったシートをかき集めようとすると、「そんなもの飲ませなくていいっ」ととうさんもシートを集めて、ゴミ箱に投げ捨てた。
「こんなもの、ただ依存してるだけで、断ち切ってしまえば何とかなるっ。だいたい、こんなにたくさんの薬、どうせ俺の給料からかすめとってるんだろうっ」
俺が稼いでいると言いたいが、それを言ったらまた妨害される。「どうせ仕事辞めてきたくせに」とだけつぶやくと、「何だとっ」ととうさんはいきり立ったが、「あいつらが俺にくだらん仕事ばかりよこすからだっ」とやっぱり否定しない。
俺はかあさんの肩を支えて立ち上がってもらうと、ダイニングテーブルの椅子に座らせた。
「ごめんね、雅羽……」
「いいよ。薬……どれだろ。分かる?」
とりあえず手にした薬をテーブルに並べると、かあさんは細い指で薬を選び、俺はマグカップに白湯を入れてきた。「そんなもの飲むんじゃないっ」ととうさんが怒鳴って、かあさんはびくんと手を止めたものの、「飲んでいいんだよ」と俺が言うと、ぎこちなくうなずいて薬を飲んだ。
「お前は、母親がそんなものに中毒して恥ずかしくないのかっ」
まだ言っているが、取り合わずにかあさんの震えが落ち着くように手を握った。かあさんは力なく握り返し、とうさんが怒鳴ってくるたびに身をすくめて怯えている。「ベッドで休む?」と訊くと、かあさんは引き攣った首でうなずいた。
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