悪い夢
かあさんを寝室で休ませると、俺は薬を集めておくためにリビングに戻った。しかし、散らかっていたシートだけでなく、テーブルに並べた薬までなくなっている。ゴミ箱を見ると、そこに全部投げこまれていた。
拾おうと手を伸ばしかけ、シートに唾液が吐きかけられているのに気づく。
「病院も薬も禁止だ、お前も余計な手助けはするんじゃない」
「……何で、かあさんが病院に通ってるのか考えないのかよ」
「あいつの被害妄想だ」
「てめえのせいだろうがっ。……ばあちゃんが、言ってた。あんたと結婚するまでは、かあさんは明るい人だったって」
「そうだな。俺も騙されたんだ。結婚してみたらあんな女だったなんて、まったく──」
「お前がかあさんを追いつめてんだよ。せめて離婚ぐらいできねえのかよ」
「あいつが金を返さん」
「は?」
「お前らにかかった養育費も、結婚してからの生活費も、あいつの母親の葬式にかかった費用も、全部返すなら離婚ぐらいしてやると言ってるんだ」
何……言ってんだ、こいつ。
金? 金を出したから、かあさんに何をしてもいいと思ってるのか?
だいたい、『返す』って言い方は何だよ。養育費も、生活費も、夫婦なら『返す』というものでは──
気が違っているのは、こいつのほうだ。話していたくなくて、俺はその場を立ち上がった。薬はまた新しく処方してもらうしかない。何なら、俺も病院についていって事情を説明しよう。
子供部屋に戻ると、優瑚が上体を起こす。俺はベッドサイドに腰かけ、「大丈夫だよ」と優瑚の頭を撫でる。「おかあさん」と言った優瑚に、「今眠ってもらった」と答えてから、「優瑚、キノちゃんちがいいって言ってくれたら、世話になってもいいからな」と続ける。優瑚は不安そうでも、小さくこくんとした。
翌日、かあさんと病院に行こうと思っていたのだが、やはり仕事を辞めたらしいあいつがずっと家にいた。かあさんを連れ出そうとすると、殴りつけてきそうな勢いで怒鳴ってくる。それでも強引に外出させようとしたものの、かあさんが怖がって、寝室にこもってしまった。
学校から帰ってきた優瑚は、「キノちゃん泊まっていいって」と報告してきて、「じゃあ、しばらくそうさせてもらえ」と俺は優瑚に荷物をまとめさせ、ぴりぴりした家から送り出した。俺は出勤できるだろうかと思ったが、あいつは俺の動きには関心をしめさなかったので、夕方に家を出ることができて仕事には出れた。
あいつに見張られて、かあさんは薬をもらいにいくどころか、全部捨てられてしまって、安定剤を一錠も飲めなかった。手が震えるだけでなく、目が泳いで、物音に過敏になり、頭が痛いとかお腹が痛いとかで、頭まで毛布をかぶって過ごす。そんなかあさんにあいつはまたいらだち、細い腕をつかんで引きずり出し、正座させて怠けるなとか甘えるなとかなじる。
かあさんは不安定なまま泣き出して、何度も何度も、あいつに謝っていた。それが続くと、「お前はそれしか言えないのかっ」とあいつはかあさんに物を投げつけ、髪を引っ張る。なるべく俺が割って入っても、夜、仕事に出かけているあいだはどうしようもなかった。帰宅すると、かあさんが過呼吸を起こしているときもあり、俺はしばらく仕事を休もうかと考えはじめた。
そういえば、ここしばらく、かあさんとあいつをふたりきりにしてばかりだったかもしれない。優瑚がキノちゃんの家に泊まるだけでなく、俺まで土日には小学校に行って。かあさんはそうしていいと言ったけれど、優瑚はともかく、俺はその言葉に甘えすぎた気がする。
やはり、かあさんをあいつをふたりきりにする時間を増やすなんて、良くなかったのだ。そばにいれば、薬を多く飲みはじめることもなかったろうし、薬の用量を守って頭がはっきりしていれば、病院を出るとき素早く身を隠せていたかもしれない。俺がかあさんの「大丈夫」に甘えたせいだ。俺がかあさんをちゃんと守りさえしていれば──
十月が近づいてきても、相変わらず残暑は厳しかった。だが、その日は透き通った銀色の秋雨が降っていた。雨の匂いもひんやりして、霧雨なのかそんなに降りしきる音もしない。
あいつは相変わらず働いていない。働いていないのに、食費や光熱費が続いていることには、頭がまわらないらしい。「俺の金で生活できてるんだぞっ」と怒鳴っている。
十八歳になったら、絶対に俺が稼いで生活がつながっていることを言ってやる。そうしたら、あいつの言い分なんか切り捨てられるはずだ。それを理由に、かあさんに離婚も勧められるかもしれない。弁護士とか雇ってでも、家から追い出してやる。前に吐いていた離婚しない理由だって、おそらく逆にあいつの異常性として認められる。
昼食が終わり、かあさんを寝室に連れていってベッドに寝かせた。「俺だけが病院に行っても、薬ってもらえないのかな」と言ってみたが、かあさんは答えず、震えながら丸くなってしまった。
俺ひとりでは、どうすればいいのか分からないところに来ている。薬がかあさんの優しい笑みを助けてくれていたのだ。どう対応されるか分からなくても、俺だけでもかあさんの病院行ってみようか。
そんなことも思いつつ、ベッドを離れて寝室を出ようとしたときだった。
「雅羽……」
かぼそいかあさんの声がして、はっと振り返る。
「ごめんね……」
俺はベッドサイドに駆け戻り、「かあさん」と呼びかけてみる。かあさんは無表情なまま涙を流していて、ただ「ごめんね」と言い続けた。「謝らなくていいんだよ」と言っても、かあさんは「ごめんね」とささやく。俺はやつれたかあさんの手を握って、「大丈夫だから」と言った。
「かあさんのことは、俺が守る。そばにいるよ」
かあさんはまぶたを伏せ、それでも涙を流していた。俺はしばらく、かあさんの手を握っていた。
蒼白くて細い手だ。この手を守らなくては。そう感じた俺は、仕事は休もうとやっと決めた。多少だが、金は蓄えてある。それが手薄になってきたら、また働かなくてはならないけども──
かあさんが眠ったのを見取り、寝室を出て、昼食を食べたあとを片づけた。あいつはリビングのカウチに寝そべって、テレビを観ている。そろそろ、同じ空気を吸うのも嫌になってきた。
俺あいつのこと殺したりしないよな、と思い、生々しさにぞっとして、振りはらうように食器を洗った。あいつのために人生をダメにしたりするものか。食器を全部水切りに並べると、洗濯機止まってるかな、と洗面所に向かった。
そして──踏みこもうとしたそこで、視界に飛びこんだ赤という赤に、思わず立ちすくんだ。とっさに、その光景が理解できなかった。洗面台が毒々しく赤に染まり、床にも赤はどろりと広がり、マットも赤を吸いこんでいる。
金属っぽい、鉄の匂いが立ちのぼっていた。
「え……」と間の抜けた声がもれて、ついで、息遣いも足元も震えはじめた。洗濯機の陰から覗く倒れる脚に、脊髄が凍ったように血の気が引く。
「かあさんっ」
俺は自分に血が飛ぶのも気にせず、洗面所に踏みこみ、洗面台の前で倒れているかあさんを抱き起こした。すでにぐったりしていた。だらりと垂れた腕を見て、身をこわばらせてしまう。
笑う口ぐらいぱっくり開いた、大きな裂け目が手首にあった。今までちらちら見かけた切り傷なんて、比じゃない。血管の断面が見取れるほどざっくり切れ、ゆだる熱湯のようにあぶくになって、脈拍のたびに血があふれている。皮膚だけでなく肉まで裂け、脂肪らしき白っぽいものも見えた。どくん、どくん、と血管の切り口は脈に合わせて跳ね、血飛沫をあげて、あたりに飛び散って、濃い血だまりは黒ずんでいく。
「かあさん、かあさんっ?」
かあさんは薄目のままだが、返事はない。やばい。周りの血の量を見ても、これは危ない。
俺はばくばく暴れる心臓に呼吸を乱しながら、いったんかあさんを寝かせると、廊下の電話まで走った。「うるさいっ」というあいつの声に本気で殺意を覚え、「てめえがうるせえんだよっ」と俺はものすごい声で怒鳴り返した。もちろん癇に障った奴は、どすどすと廊下に顔を出したが、血みどろで受話器をつかむ俺に息を飲む。
「お、お前、何──」
「うっせえ、黙ってろっ」
ええと、番号。番号。救急車。救急車は──110は警察で、救急車は……ああ、くそ、思い出せない。もう警察でいいか。とりあえずどこかにかけなきゃ!
無我夢中だった。結局俺は警察にかけてしまい、母親が手首を切ったこと、出血がひどいこと、どうしたらいいのか分からないことをまくしたてた。さいわい、対応してくれた人が119にかけなおすように言ってくれた。俺は平謝りして、すぐさま119にかけなおした。とうさんが何か言ってきても聞こえない。今度は消防署につながり、住所や名前を訊かれ、救急車を要請することができた。
俺は洗面所に戻り、べちゃっと血を含んだマットを踏んで、かあさんを呼び続けた。覗いてきたとうさんの「ひっ」というビビった声が、異様にいらついた。
誰のせいで。誰のせいで、かあさんがこんなことをしたと──。
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