月光の少年-9

最後のとき

 やがてサイレンが近づいてきて、ドアを激しくたたく音がした。とうさんはバカみたいに突っ立っているので、俺は舌打ちして立ち上がると、その図体を押し退け、ドアを開けた。
 服も髪も肌も真っ赤な俺を見て、雨をかぶった救急隊の人は面食らった。それも気にせず、「こっちです」と俺は洗面台に救急隊の人を案内し、かあさんは担架に乗せられて素早く応急処置をされながら運ばれていった。
「すみません、ご家族の方も同乗お願いしますっ。ご主人──」
「俺が行きますっ。こんなの家族じゃないんで」
 かあさんはいよいよ危ないらしく、救急隊の人はしつこくとうさんを呼ばずに俺を救急車に乗せ、すぐ出発した。サイレンが唸る。運転席からの声では、今かあさんを受け入れてくれる近隣の病院を探しているようだ。
 救急隊の人に声をかけられても、かあさんに返事はなく、救急隊の人のやりとりの中の「意識ありません」という言葉に俺はどんどん怖くなってくる。
 かあさんがこのまま死んだら?
 俺はかあさんを守れなかったのか?
 あいつに殺されるみたいに、みずから命を絶たせてしまったのか?
 受け入れ先の病院が見つかると、救急車はかなりのスピードで車道を突っ切りはじめた。ピッ、ピッ、という心音を確かめる電子音が心臓に刺さる。胸騒ぎが感覚を侵蝕していく。十五分ぐらいで病院に到着すると、かあさんは緊急治療室に吸いこまれていった。
 俺は扉の前に茫然と立っていた。ふと出てきた女の看護師さんが、俺に目を留めて「家族は君だけなのかな?」と話しかけてきた。「妹と、父親は……」とかすれた声で返すと、「じゃあ、すぐにおとうさんに連絡して」と言われた。俺は眉を寄せて、首を振った。
「あいつのせいでかあさんは死のうとしたのに」と泣き出しそうになると、看護師さんは少しとまどったようでも、「じゃあ、親戚の人でもいいから」と俺が落ち着くように軽く肩を抱き、背中をさすってくれた。
「念のため、大人の人を呼んでほしいの」
「かあさん……死ぬの?」
「まだ分からない。あと、君が輸血できるか知りたいから──」
 頭がくらくらしていた。神経が麻痺していく。
 ごめんね、と最後にかあさんは言っていた。
 あのとき、すでにかあさんは決めていたのだ。なぜ気づかなかった? 俺のせいだ。全部、全部、俺がしっかりしてなかったから──
 ふらふらと公衆電話の前に向かって、大人、と思った。親戚なんて、知らない。母方のばあちゃんは死んだし、じいちゃんはその前に死んでいて顔も知らない。父方の祖父母は、あいつが会いたくないと言うので俺も会ったことがない。母方の親戚は、会ったことはあるけど、帰らないと連絡先は分からないし、そもそも遠方なので駆けつけろなんて言えない。
 俺はゆっくりまばたきしてから、ポケットに突っこんできた財布を取り出した。こんなの、いきなり、迷惑だって分かってるけど──
『はい、もしもし?』
 電話越しに聞こえてきた壱野先生の声に、俺はこらえきれずに泣き出してしまった。『雅羽くん?』と驚いた声がして、『どうしたの』と心配してくれる言葉が続く。俺は嗚咽をもらしながら、この状況をどうにか説明した。先生はしばし言葉もなく聞いていたけど、不意に病院の名前を訊いてきて、『すぐ向かうから』と言った。
『優瑚ちゃんも連れていくよ。今から帰りの会だったけど、それはほかの先生に頼むから』
「すみません……」
『いいんだよ。おとうさんは仕事中?』
「いや、あいつまた働いてなくて……」
『そう。じゃあ、留守番してもらっておこう。おかあさんのためにも、呼ばなくていいからね』
「はい……」
『つらいだろうけど、気をしっかり持って。君が閉じてしまったら、家から光が消えてしまうんだよ』
 俺は何度もうなずきながら、ぽろぽろと涙を落とす。あいつを呼ばなくていいとか、壱野先生が俺の心を察してくれるのがありがたかった。
 受話器を戻すと、ピー、ピー、ピー、という音が残る。俺は深呼吸して、大丈夫、かあさんは大丈夫、と自分に言い聞かせて、輸血のことで看護師さんのところに戻ることにした。
 血液型で俺の血が使えることが分かると、俺はすぐにベッドに寝かされて採血されることになった。もう何も感じないような軆だったのに、腕に針が刺さった瞬間、少し声がもれるほど痛いと感じた。俺の鮮血がパックされ、かあさんの元に届けられる。
 俺は血を抜いた腕を脱脂綿で抑えながら、さっきの扉の前に戻った。
「おにいちゃんっ」
 そんな声がして、顔を上げた。優瑚が不安で泣きそうにしながら、俺に取りついてきた。「優瑚」と俺は声をこぼし、「汚れるから」と言っても、優瑚はかあさんの血でどろどろになった俺から離れない。俺は力なく優瑚の頭を撫でていたが、「雅羽くん」と名前を呼ぶ声に再び顔を上げた。
 壱野先生だった。眼鏡の奥で、苦しいほどの瞳をしている。「かあさんは……」と俺が訊くと、「まだ出てきてないよ」と壱野先生は答えた。
 俺は小さく息を吐くと、「巻きこんですみません」とつぶやいた。壱野先生はかぶりを振り、静かに俺と優瑚に歩み寄ると「よく頑張ったね」とぎゅっと抱きしめてくれた。その体温が、匂いが、柔らかさが、俺の神経に沁み入って、また泣いてしまいそうになった。
 ──かあさんは、ずいぶん意識不明のままで、本当に危なかった。しかし、何とか一命は取り留めてくれた。
 俺は一度、雨が続く夜中に壱野先生に車で家に送ってもらって、着替えてから洗面台の掃除もした。あいつは明かりをつけないリビングでひとり、「俺は関係ない」「勝手にバカなことを」とかぶつぶつ言っていた。店にも電話を入れ、しばらく休ませてもらえることになった。
 かあさんの着替えも持って家を出て、車で待っていた壱野先生と優瑚には、「大丈夫だった」とだけ言って、病院に引き返してもらった。朝、壱野先生に仕事は大丈夫なのか訊いてみると、「今日は休むよ」と言ってくれた。
 そして、ほぼ一日眠ったままだったかあさんは、雨が上がった昼頃にようやく目を覚ました。
「かあさん」
「おかあさん」
 かあさんの睫毛が動き、俺は思わず椅子を立ち上がり、優瑚もベッドサイドに取りついた。かあさんは視線をゆらゆらさせ、俺を、優瑚を、壱野先生を見た。壱野先生と初めて会うかあさんは、ぼんやりとその顔を見つめている。
「あたし、お医者さん呼んでくるっ」と優瑚は廊下に出ていき、ゆっくり俺に目を戻したかあさんは、ごめんね、と声になってない声でささやいた。俺は急速に泣けてきて、「ほんとだよ」とかあさんがかぶっているふとんを握りしめた。
 かあさんは精神科のカウンセリングも受けるということで、一週間入院することになった。家を離れていることで、かあさんはだいぶ安堵しているようだった。家から病院への足がなかったので、壱野先生が毎日車で俺と優瑚を病院に連れてきてくれた。かあさんも壱野先生のことは恐縮しつつも受け入れ、差し入れのくだものを素直に受け取ったりしている。
 しかし、一週間経てば、家に帰らなくてはならない。俺が間違えて警察に電話したのもあって、あいつは警察にかあさんの自殺未遂について事情を聞かれたりしているらしい。それを恥辱と感じ、ますます怒りを溜めこんでいて、帰宅したらまたあいつがかあさんの精神状態を悪化させそうだった。
 精神科の病棟に入院することも話し合われたが、そこまでの金のあてがない。その話し合いで、「差し出がましいかもしれませんが」と壱野先生が軽く挙手した。
「僕の部屋、ルームシェアできるふたり部屋なんですが、しばらくそこで暮らしてもらうことは可能でしょうか」
 俺だけでなく、かあさんも優瑚も、先生たちも壱野先生を見た。注目されて、壱野先生はちょっと緊張した面持ちになったものの、「あくまでルームシェアというかたちで」とつけくわえた。先生たちはかあさんを見て、「どうですか?」と訊く。かあさんは狼狽えたままうつむいてしまい、「どういう意味?」と優瑚が俺に訊いてくる。
「んー、かあさんはしばらく、壱野先生の家に暮らしてもらうって感じ……かな」
「えっ、先生、おかあさん助けてくれるの? ほんとに?」
「おかあさんがよければね。優瑚ちゃんは賛成してくれるかな」
「うんっ。壱野先生なら、絶対優しいもん」
「雅羽くんは?」
「ん、まあ……かあさんのぶんの生活費とかは、きちんとこっちが出すなら」
 みんなの視線がかあさんに集まる。かあさんは恐る恐る壱野先生を見て、壱野先生は物柔らかに微笑む。かあさんはなおも困ったように沈黙していたものの、「ご迷惑でなければ」と耳を澄まさないと聞き取れないほど小さな声で言った。
 そうして、かあさんの身柄は壱野先生が預かることになった。俺と優瑚は一時的に養護施設に、という話だったが、キノちゃんのご両親が是非にと名乗りを上げ、優瑚どころか俺まで預かってくれることになった。
 俺ひとりで荷物を取りに帰ったとき、あいつは皿を割り、壁に穴を空け、家の中をめちゃくちゃに荒らしていた。無言で上がりこんだ俺が、着替えや日用品をかき集めてバッグに押しこんでいると、「俺があいつを殺しかけたことになってる!」とか「お前が変なことを警察に吹きこんだなっ」とかわめきちらしてきた。
 俺は手を止めてとうさんに向かい合って立った。それからその胸倉をつかみ、「もうお前はここにひとりだ」と低い声で宣告した。とうさんがぎょろっと目を剥く。
「何……を、言ってるっ。俺の金で食ってきて、この家に住んできて、お前らに行く場所なんか──」
「行く場所がないのは、お前だけだ。せいぜいここで孤独死でもしろ」
 俺はぐいっととうさんの胸倉を引きつけ、腕に力をこめて床にたたきつけた。敵わなかったあの軆が、簡単に吹っ飛ぶ。俺はいくつかの荷物をまとめたバッグを素早く持ち上げると、うめいているとうさんを無視して家を出た。
 それが、俺と父親の最後のやりとりだった。

第十章へ

error: