白日の少年-12

ひとりじゃない

 壱野くんと放課後ものんびり保健室で過ごして、そこに深実くんがやってくるようになった。
 深実くんは僕以外の人の前では素直になりきれないらしく、できればふたりで話したいとぼそぼそと言う。そんな深実くんに、「あらー」と壱野くんと白田先生は声を合わせ、何だか嬉しそうに僕たちを送り出す。
「あれ、勘違いしてると思うんだけど」と後ろ手に保健室のドアを閉めた僕に、「三人以上で話すの苦手で」と深実くんはうつむく。わりと内気なんだな、と思わずこみあげた笑いをこらえ、「行こうか」と僕は深実くんをうながす。
「はい」と深実くんは隣に並んで、「さっきの人たちには先輩から説明していいんで」と言った。僕はうなずき、「優しい人たちだよ」と微笑んで軽く深実くんの肩をたたいた。
 すぐ冬休みがやってきた。僕は壱野くんとも連絡先を交換しておいた。なので、ちょくちょく着信がつくスマホを手に、一階のこたつに入って、年末番組を見たり宿題をやったりした。
 鳴るようになった僕のスマホに、おねえちゃんが最初に興味を示し、僕は壱野くんや深実くんのことを話した。その話をおかあさんも聞いていて、おとうさんにも伝わった。僕のことを偏見しなかったり、同じ性指向だったり、そんな人たちが学校で現れたことに家族も安堵しているようだ。「学校に行かせるの心配だったけど、よかった」とおねえちゃんはにっこりして、いつも通り僕の頭を撫でてくれた。
 通院は月一になり、手首の傷はもちろん抜糸して包帯もガーゼも取れている。あのときは傷の深さが僕の痛みなのにと思ったけれど、今は傷痕がほとんど残らない浅い傷でよかったと思える。
 あの頃はほんと病んでたな、と感じる。僕も病んでいたし、周りも病んでいた。いまだに教室にいたら、いよいよダメになっていただろう。手首を切ってしまうほど、一度、感情が死んでしまってよかったのかもしれない。見失ったから、光が必要だと分かって、道がまた見えてきたら進む力を持つことができた。
 まったりと年末年始が過ぎて、家族で初詣に行ったりしたあと、三学期が始まった。黒いコートの僕が向かうのは、相変わらず保健室で、ドアを開けると「おはよー」と久々に聞く壱野くんの声がした。「おはよう」と返しながらドアを閉めて、保健室の温まった空気に息をつく。
「寒かったでしょ」と白田先生がゆずジャムをお湯で溶かしたゆず茶の紙コップをくれて、「どうも」と僕は受け取ってふんわり香るそれに口をつける。壱野くんもソファでそれを飲んでいて、僕は隣に腰を下ろした。
「冬休み、どうだった?」
「んー、クリスマスも正月も、祝うのまだ慣れないな」
「あ、そっか。どうだった?」
「ケーキもおせちも新鮮でしたわ」
「はは。彼女さんは」
「通話ばっかしてた。しょっちゅう会えないしなー、やっぱ」
「彼女さんの親とか、顔は会わせてるの」
「中一の娘が、娘の友達の兄貴に手出しされてるとかショックだろ」
「そうなのかな」
「手出しって言ったけど、木乃里とはまだ深い仲ではないんだぞ!?」
「あ、そうなんだ」
「頑張ってるよ、兄貴は。とりあえず妹に反対されないために必死だよ」
 僕は咲って、紙コップに口をつける。ほのかなゆずの味が、ゆずの皮から染みだしている。壱野くんは紙コップを空にすると、「香河くんはどうよ」とにやにやと覗きこんでくる。
「え、僕」
「放課後の彼氏と校外で会ったりとか」
「な、ないよっ。というか、放課後の彼氏って。深実くんには好きな人がいるんだよ」
「あ、そっか。えー、でもー、いいじゃん」
「いや、何がいいのか分からないよ」
「つきあわないの」
「そういう感じじゃないし」
「ちぇっ。まあ、あんまり幼なじみは引きずるなよ」
「う、……ん」
「まだ好き?」
「分かんない。ずっと一緒だったのにね。あんがい顔も合わせないものだね」
「期待はもうないだろ」
「それはないかな。話し合って、僕がゲイってことを認めてほしいとは思う」
「冬休み、幼なじみにも会わなかった?」
「うん。近所なのになあ。避けられてるのかもしれない」
「そんな奴ほっとけって言いたいけど、ま、香河くんには大事な奴なんだもんな。話してすっきりできるといいな」
 こくんとして、紙コップに口をつける。どうやったら鈴里と話せるかな、と考える。避けられているのなら、いっそう切っかけを考えなくてはならない。三学期はあっという間だし、僕は残り三ヶ月で、鈴里やあのクラスに訴えることができるのだろうか。
 そんなことを考えながら、緩やかな冬の日々を過ごした。啼く風が空中を舞って、冷気を肌に刺す。空の色は晴れると澄んだ青だけど、雪をはらんだ曇りがやっぱり多い。乾燥した空気に唇が荒れて、不意にかすかな血の味が混じる。
 松瀬先生や白田先生だけではない先生が保健室を訪ね、僕や壱野くんの勉強を見てくれて、進路相談にも乗ってくれる。「俺は就職なんでー」と壱野くんはまともに相談しなくても、僕は福祉系に進みたいことを伝えて、資料なども持ちこんだ先生たちに熱心に一緒に考えてもらった。
 一月が終わる頃の放課後、「福祉かあ」と僕がもらった入学案内のパンフレットをめくって、壱野くんはこちらを見た。
「福祉系って、たとえばどんな仕事あるんだ?」
「カウンセラーとかケースワーカーとか」
「あー、メンタル系?」
「いや、ホームヘルパーとか手話通訳士とかも入るよ」
「ふうん。香河くんがその中でやりたい仕事は?」
「僕は……うーん、自分がひとりでゲイってことに悩んだから、セクに限らず、マイノリティの子供の力になれたらいいなあって」
「へえ。いいじゃん」
「資格必要だったりするし、簡単には就けないのかもしれないけど。どうせなら、自分を生かしてできることがいいなって」
「そうだなー。うん、応援する」
 壱野くんはにっこりしてくれて、僕も照れながら咲った。「てか、もう少しで学年末テストだよなー」と壱野くんがパンフレットをテーブルに置いて背伸びしたとき、ノックが聞こえた。「どうぞー」と白田先生が応えると、ドアが開き、深実くんが顔を出す。
「こんにちは」と深実くんは軽く頭を下げ、「お、どうぞどうぞ」と壱野くんはソファを立って席を譲る。深実くんも、ちょっとは保健室の空気に慣れてきたようで、遠慮してすぐ帰ろうとはせずに、素直に僕の隣にやってくる。
 テーブルに散らかったパンフレットをひとつ手にして、「進路ですか」と深実くんは首をかたむけてくる。「うん」と僕は資料を重ねてまとめる。
「親も進学でいいって言ってくれてるから」
「そうなんですね。俺も進学希望です」
「何かやりたい仕事あるの?」
「建築関係に興味あります」
「え、工事現場?」
「というか、家の設計とか。部屋の模様替え考えるだけでも楽しいから、インテリアコーディネーターもいいかも」
「なるほど。いいなあ、デザインしたりするんだよね。僕はそういう才能はないや」
「好きなこと仕事にして大丈夫かなって、あるんですけど」
「いいと思うよ。やりたいことあるのに、つらい仕事をわざわざ選ばなくても」
 深実くんは僕を見つめて、「頑張ります」と嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が桜が咲くみたいに優しかったから、わずかにどきっとしてしまう。視線を手元に下げてから、「今日はごはん食べていく?」と膝の上でパンフレットをとんとんと揃える。
「先輩がよかったら」
「そっか。じゃあ、今日は寒いから、僕もスープくらい飲もうかな」
「はい。あ、これ、持ったままですみません」
 深実くんが手にしていてパンフレットをさしだしてきて、「あ」と僕は受け取る。その拍子に指先が触れて、心臓がことんと跳ねたけど、平静を装ってパンフレットに一番上に重ねる。壱野くんが意識させるようなこと言うから、と責任転嫁しつつ、僕は資料をかばんにしまって立ち上がった。
「じゃあ先生、僕、今日は帰ります」
「はーい、気をつけて」
「壱野くん、また明日」
「おう。近いうちに学年末対策もしようぜ」
 僕はうなずきながらコートを羽織り、かばんを持ち直して、深実くんと廊下に出た。
 すうっと冷気が背筋を駆け上ってきて、「寒い」と思わずつぶやくとうっすら息が白かった。雪降るかな、と窓の向こうの灰色の空を見やる。
 ドアを閉めて歩き出すと、「先輩」と呼ばれて僕は深実くんを見上げる。
「何?」
「あの……嫌でなければ」
「うん」
「俺のポケット懐炉入ってるんで、その……」
 僕は深実くんを見直した。ポケット。懐炉。え、とじわじわ動揺していると、深実くんは続けた。
「手、つなぎますか……?」
「えっ、……で、でも」
「いや、先輩に変な気があるとかじゃなくて。ほんと、ただ、寒いかなって」
「………、」
「すみません、俺、何か──変ですよね。すみません」
 深実くんがしゅんとしていると、靴箱に着いた。僕たちは学年が違うのでいったん離れ、上履きをスニーカーに履き替え、昇降口でまた合流する。
 何だか無言で、とん、とん、と階段を降りていく。深実くんを見た。深実くんの頬が、この寒さなのにほてっている。僕はこくんと一度息を飲みこんでから、深実くんの手に手を伸ばしてみた。
 指がぶつかって、はっと深実くんは僕を見た。僕も徐々に頬を熱くしながら、「分かってるから、いいんだよね」と言った。
「え……」
「深実くんの好きな人も、僕の好きな人も、ちゃんといるんだし。その、ほんと、寒いだけだよね」
「……嫌だったら、」
「深実くんこそ」
「俺は……俺は、先輩と手をつなぎたいだけかもしれないです」
「えっ」
「先輩の手を握ってあげたい」
 深実くんを見上げるまま、まばたきをする。深実くんは僕の手をつかむと、ぎゅっと握りしめて引っ張った。僕は前のめりに深実くんについていき、夕闇が迫って、残っている生徒もきっとほとんどいない学校を出ていく。
 深実くんはポケットに僕の手を入れて、すると懐炉に触れて、火が灯ったように指先が熱にほぐれた。
「先輩」
「ん、うん」
「迷惑かもしれないですけど」
「……うん」
「先輩の手をつかめて、嬉しいです。先輩はひとりじゃないって、やっと伝えられた」
「あ……、」
「俺がそばにいますから。もう、大丈夫だから」
 胸の奥がぎゅうっと切なくなって、深実くんの手を握り返した。
 好きとか、そういうのじゃない。ただ、この人は、絶対に僕の味方なのだと感じた。だから、僕もこの人の味方でいたい。お互いひとりぼっちだった。そばにいてくれる同性に惹かれて、孤独だった。
 でも、今、僕たちは近しい人間として隣り合っている。そばにいる。恋とか愛とかというより、ただ、一緒にいればひとりじゃないのだ。
「ありがとう」
「えっ」
「ありがとう、深実くん」
「………、俺も、ありがとうございます」
 その日もファミレスに立ち寄って、食事をしながら深実くんとあれこれしゃべった。遅めの十九時頃に席を立ち、電車に揺られて帰宅した。
 家族揃って夕食のお鍋を食べて、ラベンダーの入浴剤が香るお風呂で温まって、宿題をする前に充電しておいたスマホからコードを引き抜く。
 そうしたら、壱野くんから連絡が来ていることに気づいた。何だろ、とメッセージを開き、飛びこんだ短い文章に目を開いた。
『うちの高校の新聞部の奴が、かがわくんとみさねくんの写真を載せてんだけど、大丈夫か?』
 え。
 ……えっ?

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