白日の少年-2

雨の夜

 五月末にさしかかり、中間考査が行なわれた。すっかり桜は葉桜にうつろって、初夏の白い日射しが濃い葉陰を落とす。葉擦れを起こす風は冷気を失い、肌に絡みつく湿気を孕みはじめた。そして、アスファルトの雑草の焼ける匂いが立ちこめ、しかしそんな気候も束の間、六月になると梅雨に突入した。濡れて鮮やかな緑がひたひたしたたり、傘をさしていても足元がぐずつく。
 その日も、そんな陰気な雨が降っていた。勉強しながら飲んでいたペットボトルの紅茶がなくなって、雨音に耳を澄まして面倒だなと思ったものの、コンビニは歩いて一分のところにある。気分転換に行くか、と立ち上がって鍵を取り、一階に降りて特に声もかけずに家を出た。
 ざーっと音が振りかかってくる。むせかえる雨の匂いは、透明とは言えなくても瑞々しかった。傘をさして雨の中に踏み出すと、空気はぬるりと温かい。銀の糸がどんどん地面に墜落する。そこにスニーカーを踏み出して、顔を上げてコンビニを目指した。
 通りに出てすぐの横断歩道を渡って、公園沿いを歩いたらコンビニだ。
 やたら白い電燈のコンビニで、紅茶のペットボトルを二本買った。ビニールぶくろを提げて、「ありがとうございましたー」と送られてコンビニを出ると、傘立ての傘を引き抜く。
 雨強いなー、と思いながら、その傘をさそうとしたときだ。「あ」という聞き憶えのある声がして顔を上げ、目を開いてしまった。
「鈴里」
 青い傘をさしてコンビニの前を通りかかっていたのは、私服の鈴里だった。幼なじみの僕たちは、もちろん地元が同じだ。緑の傘をさして、ぱちゃん、と浅い水溜まりを踏んで僕が駆け寄ると、鈴里も立ち止まって首をかたむける。
「何で──夕絽も呼ばれたのか?」
「えっ、誰に」
「俺、さっき山野やまのからメッセ来てさ。話あるっつうから、そこの公園行くんだけど」
「山野さん……」
 誰なのかは、すぐ思い当たった。中学時代の同級生の女の子だ。
 卒業式、山野さんは何やら鈴里に話しかけていたので、何か伝えたのかな、ともやっとしてそのままになっていた。卒業してずいぶん経った今頃、しかもこんな雨の夜に何だろう。いや、女の子が男を呼び出して打ち明けたい話なんて、ほぼ決まっているか。
「夕絽にもメッセ来たのか?」
「僕、は……山野さんの連絡先知らないから」
「そうなのか。あ、じゃあ隠れてるほうがいいな。ちょいここで待ってろ」
「え、あ、……うん」
「すぐ戻ってくる。ったく、雨の中何なんだよ」
 鈴里の薄い水色のシャツの背中を見送り、僕はひとまずコンビニの軒先に入った。空は真っ暗で、雲がぶあつく、月もない。雨の湿気の中は暖かいけど、少し濡れてしまった腕やスニーカーの爪先は冷たかった。
 鈴里と山野さん。連絡を取り合っていたのか。しかも会っている。知らなかった。
 子供の頃からある、僕の知らない鈴里を見せつけられたときの黒い霧が、細菌のように喉を侵してくる。僕は隠れておいたほうがいいって、山野さんとだけの親密な話をするのだろうか。まさか、もうつきあっているとか。いや、つきあいはじめていたら、さすがにとっくに紹介されているか。
 公園を見やって、傘の柄を握った。待ってろ、とは言われたけれど──
 ぽつっと雨が傘を跳ね返る。紅茶を抱きかかえ、空の下に踏み出した。一瞬にして、雨粒の音はばらばらと激しくなる。無意識に息を殺して、コンビニの前を離れて公園に近づく。
 闇夜に浮かぶ傘が、ふたつあるのがすぐ見えた。でも、傘があるからやりとりは見えない。せめて会話だけでも聞き取れないだろうか。そう思って、並ぶ木に隠れながらじりじりとふたりに近づいてみる。
 心臓が食いこむ。雨音が刺さる。不安で爪先がすくむ。立ちこめる雨の匂いと、信じたくない恐怖で背中が冷えて、きゅっと傘をつかんでうつむいたときだった。
「わた──、やっぱ──らめられなくて」
 ぱっと顔を上げる。
 何。今、何か聞こえた。女の子の声だから山野さんだ。
「──ど、そう言わ──も」
 雨音を破って捨てたい。何だろう。今の答えは鈴里の声だった。
「こうい──のは、俺よ──……」
「──たしは知ら──いもん。あんた──かいな──の」
 拾えた断片を反芻し、あんたしかいない、という言葉がふと浮かんだのでどきんとする。
「でも俺──」
「いいじゃない!」
 その山野さんの声がいきなり大きく聞こえ、僕はびくっと肩を揺らした。
 ぐらっとした傘を慌てて持ち直し、そういえば、通りかかってこの立ち聞きを訝る人が周りにいないのを確認する。この時刻の住宅街なので、人通りはない。
「好きなんだもん、ずっと、中学から好きだったの!」
 続いて聞こえた叫びに、心音が突き刺さった。息の根が止まった。頭から急速に体温が蒼ざめる。ずぶり、と足元がぬかるんだ気がして、取りつくみたいに紅茶の入ったふくろを抱きしめる。
 好き。
 好き、って──
 言っていいんだ。女の子は。当たり前のように、鈴里への想いを告白していいんだ。
 そうだ。その権利がある。それが自然なことなのだ。
 女の子は、いいな。鈴里に、男に、「好きです」と伝えてもいい女の子たち、みんなうらやましい。応えてもらえるかは別としても、少なくとも打ち明けるのは自由なのだ。
 とぼとぼとコンビニに引き返し、皓々とする軒先で傘を下ろした。客の出入りは相変わらずそれほどなくて、ひと気のなさにわずかに不気味な感覚を催した。
 ちょっと濡れたなあ、と肩や腕の冷える水気をはらっていると、まもなく「夕絽」と名前を呼ばれた。
 そちらを向くと、軒下に入ってきたのはもちろん鈴里だ。優しく微笑まれて、そんなの苦しいのに、どうしてもどきどきする。
「服濡れてる。ここ、少し降りこんだか?」
「え、あ──うん」
「中にいてもよかったのに」
「ここにいろって言われたから」
「そっか。ごめん。風邪ひいたら俺のせいだな」
「冬の雨じゃないから大丈夫だよ。……あの、山野さんは?」
「ああ、あいつはマンションだから、向こう側から帰っていった」
「そ、う。話はできたの?」
「いつも通り、勝手なこと言われただけだけどな」
 いつも通り。いつも、話をしているということか。本当に僕は何も知らなかったようだ。
「夕絽はさ」
「ん、うん」
「山野のこと、どう思う?」
 ぎゅっと息詰まった胸にうつむく。
 やめてよ。どう思うかなんて、自分の心を確かめたいみたいに、僕に訊かないで。
「えっ……と、……分かんない。そんなに話したことないし。鈴里は、仲がいいの?」
「いや、別に。あいつも俺のこと何とも想ってないしな」
 鈴里を見上げた。雨は空中を引っかいて落ちていく。
「どう、して」
「え」
「どうして、嘘つくの?」
 僕の言葉に、鈴里はぽかんとこちらを見下ろした。
「嘘って」
「山野さんは、鈴里が好きなんでしょ」
「はっ? そんなわけないだろ」
「で、でもっ──さっき、山野さんが中学から好きだったって」
 鈴里はまばたきをして、「あ」と僕は頬を染めてうなだれる。
 雨に埋もれてやや沈黙したあと、「見てたのか」と訊かれた。気まずかったものの、こくんとする。「最後まで?」と続き、考えて、それには首を横に振る。

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