引き裂く光
鈴里はため息をつき、「だから少し濡れてたのか」と僕の肩をぽんとした。触れられてどきっとした僕は、鈴里を見上げ、「山野さんとつきあってるの?」と改めて問うた。鈴里は噴き出して、かぶりを振ると、「山野が好きなのは俺じゃないよ」と僕のこめかみを小突いた。
「夕絽だよ」
「えっ」
「あいつ、夕絽のことが好きなんだ」
「……うそ、」
「嘘じゃないよ。中学の卒業式から、ずっと相談聞いてやってるんだ。夕絽の一番の友達って、俺だしな」
目の前がくらくらしてくる。
僕? 僕が好き?
女の子に好意を寄せられるなんて考えてもみなかったことで、もちろん僕はそれを単純に喜べなくて、脊髄を逆撫でされたような寒気がした。
「最近は、夏休みになったら夕絽を合コンに誘えってうるさくてさ。俺、断ってるけど、もしかして夕絽は興味ある?」
ぶんぶんとかぶりを振ると、「だよなー」と鈴里は笑いを噛む。
「夕絽はそういうノリで恋愛するタイプじゃないよな。でも、山野って悪い奴ではないよ。考えるくらいなら、してやってもいいと思うけど」
「……無理、だよ」
「そうか? 一途ではあるだろ。卒業してけっこう経つのに、それでも──」
「そんなんじゃない」
「えっ」
「そんなの、……じゃ、ない」
瞳が熱を持ち、頬を伝っていく雫が、ぽたぽたと雨に濡れた地面に消えた。僕の涙に鈴里はやや息をのみ、「もうやめて」と僕は濡れた頬を指ではらった。
「鈴里、断っていいから。山野さんの相談とか乗らなくていいよ。何かごめん」
「………、山野のことそんなに、」
「僕には好きな人がいるから」
「えっ」
「山野さんのことは、いずれにしろ考えられないんだ」
「そう、なのか。あ、ごめん。ぜんぜん知らなくて」
「……ううん」
「えっと……それ、今の高校の女子? 俺も知ってるかな」
焦れた静電気を孕む靄がせりあげてくる。
違う。違うよ。「女子」じゃないんだ。僕が好きなのはそもそも女の子じゃない。
今、目の前にいる──
「……鈴里」
「ん?」
「鈴里、だよ」
「えっ」
「僕が好きなのは、鈴里だよ」
「……は?」
「鈴里のことが好きなんだ」
「え──、と、ああ、まあ俺も夕絽が親友だけど」
「親友じゃないよ。僕は、男が好きなんだよ。それで、ずっと昔から鈴里が好きだったんだ」
「な、何──いや、そういうのって、俺あんまり笑えないっていうか」
「鈴里に女の子を勧められるなんて、一番つらいんだよ。だから、やめてよ」
ざーっと砂嵐のような音を立てて、雨が降っている。鈴里は何か言おうとしても、声も言葉も届かないようだった。僕は傘の柄をきつく握って、「ごめん」とかぼそくつぶやいた。
「気持ち、悪いよね。言うつもりなかったけど。言わないと、また鈴里にまた女の子紹介されるなら、それはつらい……から」
「……俺、」
「返事とかしなくていいからっ。分かってるし」
「夕絽、」
「じゃあ、僕、帰らなきゃ。鈴里も気をつけてね。また明日っ」
手早く傘をさすと、強まる雨の中に紛れこんで家まで走った。雨粒が激しく傘を打ちつけてくる。ばしゃばしゃと水溜まりも蹴散らかし、ジーンズの裾を湿らせながらすぐ家にたどりついた。
心臓がかあっと腫れあがって、脈打っている。振り返らずに家に入り、かすかにリビングからのテレビの音がする玄関に突っ立って、息を飲みこんだ。紅茶の入ったふくろを抱きしめ、潤む瞳で肩を震わせた。
言った。言ってしまった。
好き。鈴里が好き。ずっと好きだった。伝えたくて仕方がなかったけど、怖くて言えなかった。
なのに、ついに言った。鈴里はどう思っただろう。やはり、気持ち悪かっただろうか。
しかし、どこかで期待している。鈴里は僕のことなら特別に受け入れてくれるのではないかと。想いに応えるという意味でなく、何というか、僕がゲイであることは認めるというか。いつも僕を守ってくれた鈴里が、僕を拒否するなんて、そんなことは──
ため息をついて、部屋に戻った。やりかけの勉強を一瞥して、何かいろいろ吹き飛んだ、とベッドサイドに腰かけて、ペットボトルを一本開けた。こくん、となめらかな渋みを飲みこみ、焦りを含んだ濃霧が胸を侵していく感覚にそわそわする。
鈴里とは、明日また登校するときに会う。どうしよう。そのとき、何かは言われる。
「ごめん」? ──そんな生易しいものだろうか。
「気持ち悪い」? ──鈴里でもそう言うのだろうか。
「ふざけるな」と怒るだろうか?
「冗談だろ」と笑い飛ばすだろうか?
それとも、もう、僕のことなんか置いて登校してしまうかもしれない。
ずっと一緒だったのに。何で壊すみたいに告白してしまったのだろう。言うつもりなんてなかった、それでも、鈴里に女の子を紹介されるなんてつらくて。
ぐちゃぐちゃしてくる頭にベッドに伏せったとき、不意にスマホが鳴った。どくんと心臓が刺さって、心当たりに不安になる。
鈴里……だろうか。明日も待たずに何か言われるのか。怖い。でも、明日どのみち言われることだ。
ベッドスタンドで充電中だったスマホをたぐりよせ、ポップアップを確認した。
『見澤鈴里さんから投稿がありました』
鈴里。でも、メッセじゃない。……グループの投稿?
嫌な予感に、指が震えた。まさか。そんなわけはない。さすがにそれはない。だって、鈴里はいつも僕を守って……
『いきなりなんだけど、同性愛とか分かる奴いる?』
……え?
確かに、それが鈴里の投稿だった。すぐに、通知を受けたクラスメイトの反応が来る。
『BLなら日野原とかが好きなんじゃね?』
『BLというか……』
……うそ。
『見澤くんが腐男子宣言でーす』
『え、見澤ホモなの?』
『俺じゃないよ』
やめて。
『俺じゃなくて、何か、告られたんだけど』
『男に?』
『えーっ、誰?』
『学校の男子?』
いやだ。
『女子いきなり食いつくなよ』
『マジで? 知ってる奴?』
『ヒくわ』
やだよ。
『相手によっては萌える』
『腐女子きめえ』
『いや、ほんと相手誰だよ』
どんどん反応がついていく。既読。既読。既読。グループに参加しているクラスメイトに知られていく。
鈴里、お願い。それだけはやめて。最悪でも、鈴里がそういうことはしない人だとは信じていたから、僕だって打ち明けたんだ。なのに、そんな──
『告ってきたのは』
お願い。お願い。やめて。お願い!
『香河夕絽
そこまで読んで、絞殺するように心臓を捻じりあげたひどい激痛に、スマホを取り落とした。
ぽん、ぽん、と反応が続いていくのが視界の端に映って、怖くて、誤って開いた恐怖画像を閉じるみたいに手探りに画面を落とした。
喉元が引き攣る。息が小刻みに震えて、口の中が渇く。幽霊の視線を感じているみたいに動けない。頭の中が細切れに壊れて、ざらざらと粉になっていく。視覚が途切れて、眼前に闇を投げつけられたみたいに意識が停電する。
何。
嘘だ。
そう、嘘だ。こんなの嘘に決まってる。こんなのひどい。僕は鈴里だけに打ち明けたのに。鈴里だけを信じたのに。鈴里だけは分かってくれると踏み切ったのに。ほかの人に言うなんて。しかもたくさんの人が見るツールで。どうして、こんなこと。
何で。何で。何で。
──そんなに、僕が、気持ち悪かった……?
だからって、こんなさらすようなこと。僕の気持ちは考えてくれないの? いつも僕のことを想ってくれたのは鈴里なのに。優しくて、励まして、咲いかけてくれたのは鈴里なのに。いつも僕を守ってくれた鈴里が、よりにもよって鈴里が、こんな、僕のはらわたを引き裂くみたいな……
倦むほどのひどい雨の夜。こうして僕は、誰よりも信頼していた人に、心から想っていた人に、炙るような白日の元へさらされ、引きずり出された。
【第四章へ】