味方はいない
「夕絽? 鈴里もう来てるよ」
結局、眠れなかった。うとうとしても、すかさず生々しい想像が腫れあがって恐怖に喉を絞められる。
スマホはあれから見ていない。投稿の着信音は、午前一時過ぎにやっと途絶えた。
現在午前七時半で、雨はやみ、カーテンをめくると隈で虚ろな目にきらきらした朝露が沁みこんでくる。日射しが漂白されたように白く見えた。
晴天を喜ぶ鳥が鳴く中、がちゃっとドアが開いたのと同時に、そんな声がした。
「何だ、起きてるんじゃない」
声の主は、大学生の僕のおねえちゃんだった。僕はドアを振り返り、咲えないままあやふやにうなずく。
鈴里。来たんだ、と思い、また胸が苦しく圧迫される。
「ほら、夕絽もさっさと着替えなさい」
「……鈴里、何か変じゃない?」
「変って」
「迷惑そう、とか」
「何で? いつも通りだったよ」
「そう……」
「あの子は、もうしっかり支度も済ませてるよ。急がないと、鈴里まで遅刻──」
「先、行っててって」
「えっ」
「……えと、その──僕、遅いから」
「夕絽が断っても、鈴里は待つでしょ」
「待たないよ、たぶん」
おねえちゃんはうつむく僕を見て、「どうしたの」と僕の頭に手を置いた。
「喧嘩でもしたの?」
おねえちゃんは、愁眉しながら僕の髪をくしゃくしゃにする。その温かい手のひらに泣きそうになる。
おねえちゃんは僕にいつも優しい。でも、同じぐらい優しかった鈴里は、僕のことを知った途端に、手を返した。だから、この性を知ったら、おねえちゃんも──
「大丈、夫。鈴里が正しいって、分かってるから」
「そう。夕絽はそうやって、いつでも相手をまず思いやるからえらいね」
おねえちゃんを見上げた。まだ化粧をしていなくて、頬にそばかすが残っている。
僕はちょっとだけ咲うと、「鈴里とは、ちゃんと学校で話すから」と約束した。おねえちゃんは微笑んでうなずき、僕の肩をぽんぽんとして部屋を出ていった。
本当はこのままベッドに後退したかったけど、そうしたら、次はおかあさんが来るだけだ。ずるりとベッドを降りると、重みでもげそうな腕を持ち上げて制服に着替えた。
カーテンを開けて部屋に晴れ間を通し、つくえの上で時間割や宿題を確認する。ちかちかと着信ランプは来ていても、結局スマホは見ずにポケットに入れた。
一階に降りてささみと野菜のサラダと、ベーコンエッグを載せたトーストを食べて、顔を洗ったり歯を磨いたり、いろいろと済ますと、玄関でスニーカーを履いた。
もちろん、鈴里はもういない。
「いってらっしゃい、夕絽」
おかあさんが家事の合間に送りにきてくれて、こくんとして「いってきます」と答えた。
ドアを開けると、かっと夏の日射しがレーザーみたいに斬りこんでくる。その中に踏み出して、背中でぱたんとドアを閉めると、憂鬱なため息がもれた。
おねえちゃん。おかあさん。おとうさんだって。
もし僕のことを知ったら、どう接してくるだろう。僕の家庭は温かいものだと思ってきた。僕の性は、おそらくそれを凍らせ、砕いてしまう。知られなければ、それがせめてもの救いかもしれない。
道路に出て、冷めた風が抜ける中で駅まで歩いていく。アスファルトに染みこんだ雨が立ちのぼって、蒸した匂いがしている。晴れてはいるけれど、雲のないまっさらな青空じゃない。折り畳み傘は持ってきた。
昨夜、鈴里に告白したコンビニの前を通ると、甘酸っぱいどころか、トラウマの場所を通りかかるように胃痛と脂汗がゆだった。
学校。行きたくない。どんな目をされる? どんなことを言われる? どんな拒絶を受ける?
クラスメイトには知れ渡っているのだ。いや、あの速さなら学年くらいには広がってしまっているかもしれない。どんな反応が来るのだろう。嫌悪。無視。軽蔑。中傷。笑殺。数えはじめたら、キリがない。
それとも、受け入れてくれる人もいるのかな。そんなにおかしくないよって言ってくれる人がいたら、それでいい。たとえそれが鈴里ではなくても、僕の味方になろうとしてくれる人がいたら、大事にする。ひとりかふたりくらい……そう、みんな揃って敵にまわるなんて。
いまどき、同性愛なんてよく転がっている。クラスメイトにはBL漫画で喜んでいる女の子もいる。考えすぎて、卑屈になることはない。
そうだ、悪くどろどろと予断するより、わりと気楽に考えるのだ。僕が自罰するほど、同性愛は悪でも罪でも異でもない。そんなことみんな分かってる、だから、怖がらなくても普段通り教室に入ればいい。
混み合う満員電車で高校の最寄りまで揺られていく。いつもはさりげなく鈴里が守ってくれるけど、今日はぎゅうぎゅうの重みが容赦なくのしかかってくる。
僕はポケットで震えたスマホを取り出し、通知がひどいことになっている画面を確認した。メッセ、メール、リプライ、通話着信まである。そういうのはとりあえず無視して、昨日手探りに画面から落としたトークルームを開いた。
『香河休み?』
ぽん、とちょうどそんな投稿が表示された。
『いつも見澤くんと来るよねー』
ひとまず現在のそんな投稿は置いておき、僕は指を震わせながら画面をさかのぼった。ただのクラス参加で、そんなににぎわうグループではないのに、昨夜はやはり祭り状態だったようだ。準急でしばらく電車は停まらないから、ドアにもたれ、静かに深呼吸してあふれている昨夜の反応を読みたどった。
『は!? 香河!?』
『あー、納得といえば納得かも』
『いや、ビビるわ。告ったことにビビるわ』
『メールで告ってきたのかよ?』
『女子の話してたら、自分は男が好きだからって』
『うわ』
『一番困る奴じゃん』
『どうしたらいいのかな。普通でいいのか?』
『脈有りと思われたら終わる』
『見澤くんは、香河くんのこと振るでOKなの?』
『まあ、うん』
『じゃあ、確かに期待は持たせないほうがいいかと』
『明日、香河って学校来るんだよな』
『てか、これ見てるんじゃないの?』
『反応しろよ』
『ホ』
『モ』
『サ』
『ピ』
『エ』
『ン』
『ス』
『見てねえな』
『何でホモサピエンスになるの』
『明日来てもさ、どうすりゃいいわけ。「はよー」って笑顔作れる自信ない』
『身近にいるとヒくよね。よそでやってほしい』
『ゲイバーとかな。日常生活にいると怖いわ』
『見澤はどうすんの?』
『分かんねえから、こうやって訊いてるんだろうが』
はっと気づいたときには高校の最寄り駅に着いていて、僕はどっと制服の波にホームに押し出されて、崩れそうになりながら倒れこんだ壁際に手をついた。
痙攣のように嗤う口元に、塩味が流れこむ。目の前もゆがんで揺れて、ぽたぽたと頬にしたたっていく。耳の中が空白で何も聞こえない。喉はからからで、口の中には乾燥した唾液が粘つく。頭の中が、ゆっくりと、毒がまわるように溶暗していく。
ダメじゃないか。ぜんぜん、ダメじゃないか。やっぱりそんな甘くないのだ。クラスメイトはもちろん、鈴里さえ僕を持て余している。
僕と同じくらい、みんなも僕をどうすればいいのか分からないのだ。でも、それはゆっくり死ぬようなもので、考えてみて、よし味方につこうなんて奴はしょせんいない。考えて、悩んで、確実にみんな「拒否」を選ぶ。それが正しいのかは分からなくても、それが「普通」だからだ。
小さく嗚咽をもらし、このまま帰ろうかとも思った。すると、「大丈夫ですか」と駅員さんに心配そうに声をかけられた。肩に手を置かれ、びくっとしてしまう。
汚いのに。
そう、汚い。僕なんかに触ったら汚い。申し訳ない。だから「ごめんなさい」と何度も口走って、僕はカードケースを取り出して構内を走って、改札を抜けた。
地元より、空気にわずかに湿り気があった。睫毛が濡れて重く、頬も水気が風にすれて冷たい。
顔をこすって、遅刻ぎりぎりの時刻に焦る制服の中を歩いていった。校門で少しすくんだが、思い切って敷地に踏みこんで、靴を履き替える。白い光が射す階段をのぼって、さざめく廊下を抜けて、教室の前に着いた。
心臓がざわざわと黒い不安におおわれている。指先もわななく。静かに息を吸って、吐いて、目をつぶってドアをスライドさせた。
それから、顔を上げて、目を開いた。みんなこちらを見ていた。
どう、しよう。いっそ咲ってしまう? でも、顔の筋肉が脱力している。突っ立って教室に入れない。ばくん、ばくん、と怯えた鼓動が眼前で破裂する。
無理だ。耐えられない。そう思って身を返そうとしたとき、「冗談なんだろ」という声がした。それが誰の声なのか分からなかったが、すぐに言葉は続いた。
「あんなの、見澤がふざけただけだろ?」
「何かの罰ゲームとか」
「ただのネタだよな、冷静になったら」
どうして。
そこまで、受け入れがたい? いや、みんな必死に僕を嚥下したいのだ。それには、僕が道化だったという種明かしが一番楽だ。でも、僕は──けして、おどけて、鈴里を好きになったわけじゃない。
僕が立ちすくんだまま反応しないと、教室はざわざわとやっと事実を悟りはじめた。「マジかよ」とか「キモ……」というささやきが空中を泳いで、みんなの表情が蒼白くなっていく。僕は唇を噛んで、うつむいた。
そのときだ。「おいっ、チャイム鳴るぞ!」と担任の先生の声が背後から降ってきた。僕が振り返ると、先生は一瞬表情を引き締めた。昨夜の「祭り」は、担任として見ていたと思う。「お前か」と先生は息をつき、「放課後、きちんと話を聞こう」と出席簿で僕の後頭部を軽くたたいた。チャイムが鳴り響いて、僕はさすがに逃げられずに教室に入ると自分の席に着いた。
ゼリーに閉じこめられたみたいに、息苦しく肩身が狭い。先生は僕のことには触れずに、ホームルームを始める。ちらちら視線を感じながら、僕はかばんをつくえのフックにかけた。
放課後。話。先生ぐらいはせめて分かってくれるのだろうか。正直、先生が理解してくれたって役に立つのか分からないけれど。それでも、認めてもらえるなら──
その日は一日、ひとりぼっちだった。鈴里も近づいてこなかった。朝、鈴里と一緒に登校して、ほんの少し頑張ってふざけてみせたら、それでよかったのかもしれない。「冗談だったんだ」のひと言で、僕以外はみんな楽になる。
なのに、それを言わない僕は、意固地だ。そこまでして自分がゲイだと主張したって、何の得もないのに。バカなのだろうか。そんなに、ゲイであることに誇りがあるわけでもない。くだらないプライドなど踏み躙って、嘘さえつけば、このいたたまれない冷や汗からだって解放されるのに。
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