たとえ吐きたくても
小雨が降り出した放課後、鈴里は水内と舞根と一緒に、さっさと帰ってしまった。鈴里とちゃんと話す、とおねえちゃんと約束したのに守れなかった。「香河」と声をかけてきたのは担任の先生で、うつむいて帰ろうとしていた僕は、否応なしに生徒指導室に連れていかれた。
廊下ですれ違う生徒たちから視線を感じるのは、そして何だかくすくす嗤われているのは、自意識過剰だろうか。
ざわめく階段を降りて、一階の職員室に並ぶ生徒指導室の前に立つ。これまで飛び抜けた優等生ではなかったけど、来たこともなかった部屋だ。あまり広くない室内に通されると、つくえを挟んで椅子が向かい合っていた。
先生は僕を座らせ、自分も向かい合って座った。雨音が冷たく落ちていく。僕は膝の上の荷物のベルトを握りしめ、息苦しく、先生からの観察に耐えた。
何を言われるのだろうか。クラスのみんなは僕を見捨てた。だから、先生もいっそ僕なんか無視すればいいのに──
「単刀直入に言うが」
先生はつくえにスマホを置いた。たぶん、先生のスマホだ。指先が画面をこつこつとたたく。ロックがかかっているのか、画面は起動しない。
「本当なのか?」
息が一瞬止まる。浅く喘ぐ。先生の声は落ち着いているけれど、なだらかというより張りつめている。
「言い出した者の出任せか?」
首を横に振る。先生は息をつき、「じゃあ」と繰り返す。
「本当なんだな?」
「………、はい」
押し殺した返答に、先生が息を吐いた。うんざりしたようなため息だった。おそるおそる目を上げると、先生の目には忌むようないらだちがあった。
「……『はい』?」
「あ、……ご、ごめんなさ──」
「『いいえ』と言わねばならないことが、分からないのか!」
驚くのと同時に、びくん、と恐怖に肩がすくむ。
「今日一日、あの教室にいただろう!! それとも、クラスのあの空気を感じてもいないのかっ」
「す、すみません、……でも、」
「いいか、みんなを動揺させていることを明日ちゃんと謝れ。お前の趣味は勝手かもしれんが、それに人を巻きこむな」
趣味。趣味なんかじゃない。好きで選んで同性に惹かれるわけじゃない。
そもそも、巻きこんでいない。鈴里は巻きこんだかもしれなくても、ほかのみんなは勝手に鈴里から又聞きしただけ──
「お前みたいな奴は、普通の教室でみんなの中にいるのもおかしいことを忘れるな。本来混じってはいけないのに、みんなと同じクラスにいさせてもらってるんだ。感謝はしても、迷惑はかけるな」
視覚の糸がふっつり切れたような絶望的な暗闇が、後頭部から襲ってきた。
何。何で。どうしてそんなこと。ひどい。さすがにひどすぎる。しかもこれが教師の言葉だなんて。僕はそんなに穢れた醜い存在なのだろうか。ただ、恋をしているだけなのに。その対象が同性だと、ここまで屈辱をぶつけられるのか。
白い手の甲で、蒼い血管が痛むほど震えている。外の雨音ががらんどうの頭にこもって、意識が綻びていく。
「じゃあ、明日のホームルームで、反省の挨拶をしてもらうからな。さっさと帰れ──」
椅子を立ってドアを開けた先生が、ふと口をつぐんだ。「どうした?」という険しさのない声には動けなかったけど、「夕絽」という呼びかけには肩が動いた。
僕は魂の力が落ちたような目で振り返った。そこにいたのは、肩や髪が濡れている鈴里だった。
「やっぱり、ふたりで一度話したほうがいいと思って」
黙って鈴里と並んで靴箱まで歩いて、靴をスニーカーに履き替えていると、ふと鈴里がそう言った。
僕は上履きを下駄箱に入れながら、鈴里を見る。鈴里はうつむいて、目も合わせずに苦しそうだ。僕も首を垂れると、「帰ったかと思った」と小さくつぶやく。
「帰ろうとしたけど。呼び出されてたの気になって」
「明日、みんなの前で謝らなきゃいけないみたい」
鈴里がやっとこちらを見た。僕は爪先からとんとんと履き心地を整える。
「謝るって」
「よく分からないけど」
「………、俺、間違ってた?」
鈴里を見上げた。鈴里はもやもやするみたいに頭をかきむしる。空気をひんやりさせる雨が強くなり、湿った土の匂いがむせかえる。
「今日みたいな騒ぎになるとは思ってなかったんだ」
「でも、鈴里がグループで僕のこと、」
「だって、どうしたらいいか分からないだろ。誰かに訊きたいだろ。男同士だぞ」
「………、」
「俺はただ、相談したくて書いただけだよ。ひとりで考えられなかったんだ。そんな、男とか……重いし」
僕はうなだれた。言われてみれば、そうなのかもしれない。僕自身、ゲイであることに死ぬほど悩んできた。告白したことで、必然的にその重みを鈴里に共有させてしまったのは察せる。
「夕絽が気持ち悪いとか、そういうのじゃないんだ。でも、俺には分からないよ。好きだって言われても、どうしたらいいのか分からない。気持ちには応えられないし、だけど、振って友達じゃなくなるのも嫌だ」
「……僕、は」
「ひとりじゃ分からなかったんだ。みんな真剣に考えてくれなかったけど、俺は、どうやったら夕絽とこれからも仲良くできるか教えてほしかっただけなんだよ」
「そんなの、……おもしろがられるの分かるでしょ。僕は、鈴里だから、知られてもいいって打ち明けたのに」
「じゃあ、俺は誰にも相談しちゃいけなかったのか?」
僕はぎゅっと唇を噛む。
違う。そうじゃない。分かっている。鈴里にも誰かに吐く権利はある。親友に想いを告白されて、動揺して誰かに相談したくなる気持ちは分かる。それでも、何もあんなさらすような手段はないだろう。とはいっても、それが特定の誰かだったらよかったのかと訊かれたら、それも嫌だ。
そうだ。こんなのすごくわがままなのに、僕は自分本位でこう思うのだ。
鈴里はひとりで悩んで、ひとりで答えを出してほしかった。
「……ごめん」
そこまで思い至ると、僕は恥ずかしくて耐えられなくて、熱い頬でかぼそくつぶやいた。
「え」
「もう、いいよ。ごめん。僕と仲良くしなくていい」
「な、何で。怒ったのか?」
「僕が悪いから、……友達の資格もないし」
「そんなことは言ってないよ」
「僕が消えちゃえば、悩むこともないでしょ? 鈴里は要は悩むのが嫌なんだから、それでいいじゃない」
「夕絽、」
「さよなら。ごめんね、……嫌悪されなかったなら、それだけでよかった」
僕は身を返して、傘立てからつかんだ自分の傘をぱっと開いて、雨の中を駆け出した。ぱしゃぱしゃと水飛沫がスラックスの裾を濡らす。
建物の中は肌寒かったのに、雨の中はほんのり温かい。水溜まりを踏みつけ、たまに人にぶつかって、声や舌打ちが聞こえたけど、無視して駅までたどりついた。
軒下で傘をおろすと水を跳ねる音が止まり、いつのまにか、ぬるい水分が流れ落ちて唇の端に染みこんでいるのに気づく。目を腕でこすって、鈴里は悪くない、と心で繰り返した。
そう、きっと鈴里は悪くない。あれが一般論なのだ。
同性の友達に告白された。どうしよう。悩む。傷つけたくないし、失いたくない。だって、友達だ。しかし、想いに応じることもできない。分からない。誰かに訊きたい。第三者の意見が欲しい。ひとりで考えていても重たい。
スマホを取り出し、あまり直視したくないトークルームを開く。鈴里の発言だけを拾って読んでみると、確かに、気持ち悪いとか迷惑だとかいう内容はなかった。まじめに質問しようとしても、みんなの発言でかき消されている感じだ。
僕は鈴里をすごく悩ませたのだろう。その悩みは鈴里のものだ、僕のプライバシーを理由に自分の底で苦しめとは言えない。もちろん、僕は僕の感情で「さらされた」と感じるけども、それは被害妄想なのかもしれない。
むしろ、鈴里は優しいのだ。僕がどうでもよかったら悩みもしない。解決しようとしてくれた。方法がないか探ってくれた。自己中心的なのは、よく考えもせずに告白した僕だ。鈴里は悪意で人の知恵を借りようとしたわけじゃない。本当に、困っただけなのだ。
傘をまとめて、改札を抜けてホームで電車を待った。やってきた電車には下校中の高校生がたくさん乗っていて、うるさいほどににぎやかだった。冷房がちょっと寒い。
座席は空いていなくて、僕は手すりにもたれ、泣きそうなのを肩に力を入れてこらえた。雨粒が車窓のガラスを切り裂くように走る。
僕がおかしい。そう、僕がいけないのだ。男に惹かれる僕。友達に恋した僕。想いを打ち明けた僕。すべて僕が悪い。
間違っているのだ、同性愛なんて。現実なんてこんなもので、ネットでレインボーパレードとか聞いたりするけど、そんなの日常的じゃない。みんな分かってくれないし、たとえ分かろうとしてくれる人にも分からない。同性愛なんて、こんなにもみじめだ。告白したら、結ばれるどころか、ほどけてしまう。
せめて、好きになった相手がゲイだったら、醜い卑屈も考えないのだけど。どうやったらほかのゲイと知り合えるのか、まったく分からない。強いて言えば、薄暗いゲイバーのイメージしかない。何にせよ後ろめたくて、自分の存在が許されない害悪で、早く死ぬしかないと取り返しのつかない鬱屈に堕ちていく。
翌日、僕はホームルームで先生に教壇に呼ばれた。同性愛だなんてうわさは嘘です。そう言うべきだったのだろうが、そんな嘘をつく気力もなかった。もちろん気丈にプライドを語ることもできなかった。
悪いのは僕、醜いのは僕、狂っているのは僕。力なくそんな自責を述べて、担任の先生がいらつきはじめて「もういい!」と僕のぼそぼそとした『反省』を打ち切って席に戻らせた。刺さるみんなの視線が、次々と毛穴を塞いで息苦しくさせる。
先生は僕を引きずり出しておきながら、偏見するなとか人それぞれだとか、僕を擁護することはうわべでも言わなかった。
悪いうわさの伝染は早い。僕がゲイだということは、学年から校内に、隅々まで行き渡ってしまった。
それまでぜんぜん目立たない生徒だったのに、急激に顔と名前を知られて、遠巻きに笑われたり大袈裟によけられたりした。クラスでは無視をされている。鈴里も近づいてこない。比較的仲が良かった水内と舞根も。
みんなに嫌われてしまった。卒業までこの孤立なのだろうか。いや、もしかしてもっと先も? あるいは一生?
七月になり、期末考査の結果はさんざんだった。さいわい、家族には何も知られていない。でも、知らないから僕の成績の急落を心配された。
おねえちゃんは、最近鈴里と登校していないことに触れ、「何かあったの?」と気遣ってくれた。おねえちゃんには打ち明けようかなと思ったけれど、鈴里のときの失敗が心臓に食いこんで、勇気が出なかった。
やがて夏休みになり、しばらく学校に行かなくてすむことになった。
夜、夏の虫が泣いている。部屋にはクーラーがきいている。目を閉じ、ベッドに仰向けになる。
二学期はどんな毎日が待っているのか、そんなことは今は考えたくなかった。
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