失われた居場所
学校はそうだったし、家にいてもどんどん引きこもりがちになってしまう。僕の家族だって、そこまで鈍感ではない。鈴里が訪ねてこなくなったことも加え、いよいよ懸念を投げかけてきてくれた。僕はそれに無理に咲うことさえできず、ぽろぽろ泣き出すくせに、何ひとつ打ち明けられなかった。
嫌だ。知られたくない。怖い。恥ずかしい。嫌われたくない。
「どんなことがあっても夕絽の味方だからな」とおとうさんは言ってくれたし、「つらかったら家にいたっていいんだよ」とおかあさんは言ってくれた。それでも、僕は両親に信頼で応えて告白することができなかった。ここまで想ってくれる人たちに『気持ち悪い』と思われたら、僕はどうやって生きていけばいい?
おねえちゃんも考えこんでいたものの、僕が「鈴里は関係ないからそっとしてあげてて」と言ってからは、問いかけにいくことはやめたようだった。そして、僕から真相を聞き出したい両親のクッションにもなってくれて、「無理やり言わせることでもないでしょ」とよく食卓や風呂上がりで親につかまった僕を逃がしてくれた。
僕は部屋にこもって、ベッドにもぐりこむと、スマホからネットで逃げ道を探った。
ネットでは、現実とかけ離れてセクシュアルマイノリティが認知されている。いや、現実でも認めてもらえている人はじゅうぶん擁護されているのだろう。ネットを見ていると、いまどき同性愛を理由にイジメを受けている僕のほうが『遅い』のではないかと感じてしまう。それくらい、ネットではセクマイに偏見があるほうがおかしいという風潮なのだ。
僕はとっくに、グループやメッセージに使っていたアプリをアカウントごと削除しているし、SNSは鍵つきのひとりごとアカウントだけ残して、もう誰ともつながっていない。だから、スマホは何の通知もなく静かで、もぐっていくようにワード検索したり掲示板を見たり、ネットに広がっている僕と同じ人たちの世界を覗き見た。
一度、セクマイ当事者限定のSNSとやらに登録してみた。そうしたら、いきなりメール通知が届いて、メッセージを開封すると「どこに住んでるの?」とひと言だけ書いてあった。礼儀もスルーも、何も分からなかったので、ただ素直に答えているうちに「かわいいね。顔見たい!」とか来たので、ヒイてしまって返事をやめた。
そしてその人とやりとりしているあいだに、ほかの人からもメッセージが届いていた。こんなにいそがしいものなのかと思いつつ何とかメッセージを返し、プロフィールを完成させていたら寝てしまった。
ちょうど週末だった翌朝には、「高校生」とか「彼氏なし」とかの項目に釣られたらしい人たちから、メッセージが来まくっていた。好み教えてとか。近いし会いたいとか。どっちだとか好きな体位はとか。これってただの出会い系じゃないかな、と悟ったので、夜にはひっそりと退会しておいた。
いろいろ調べてみたけれど、やはりネットで事は解決しそうになかった。励まされたり、ときには救われたりする意見なら落ちていても、いざリアルに受け皿になってもらうとなると、登録やツテが必要になってくる。
オープンになっているようで、入口がどこなのかよく分からない、取っつきのないよそよそしさがあった。いいサイトもあるのかもしれない。拾ってくれる団体だってあるのかもしれない。でも、うまく見つけることができなかった。
もともと、そんなにネットに浸かることがなかったので、僕の検索する単語が下手なのもあるのだろう。あんまり会ったりしたくないのだけど、それでも会うのも覚悟して、出会い系みたいなところであっても一応登録しておこうか?
綺麗な秋晴れの昼休み、人気のない特別教室並びの廊下になぜかぽつりぽつりと並ぶつくえに座って、お弁当を食べながらそんなことに悩んでいたある日のことだった。ため息をついて、かぼちゃの煮つけの甘さが家の味なのでちょっとほっとしていたところに、「香河」と声がかかってはっと顔を上げた。
「あ……、」
名前を言いそうになって、僕なんかに呼ばれたくないかと慌てて口をつぐんだ。
そこにいたのは、舞根だった。とっさに構えたものの、どうやらひとりだ。水内も、そのほかもいない。舞根は僕をイジメる中にいつもいるけど、水内のように強く当たってくることはない。
何だろ、と用事が分からなくて、とりあえず弁当箱を閉じる。
「ひとり……だよな」
廊下を見渡した舞根の問いに、僕はやや躊躇ったのち、小さくうなずく。「そうか」と舞根も小さくうなずき、それからもう一歩僕に近づいてきた。
「その、何かというか、話があるんだけど」
「話……?」
「その話を、して。それで、お前に頼みがあるんだ」
「……頼み」
「水内みたいなことは言わない……たぶん」
「………、何?」
僕の猜疑が混ざった声に、舞根は深呼吸してわずかに泳ぐ目を、まばたきではらう。吐き気をなだめるように胸のあたりをさすり、「何というか」とつぶやいて、「その」と発声練習のように声を張り、まっすぐ僕を見た。
「俺、中学のとき、男とやってたんだ」
「……は?」
陽光が射す空中に、ぽかんと声が浮いた。とっさに、何を言われたのか理解できなかった。
な……に? 中学のとき──男と? 舞根が?
僕がその意味を飲みこむ前に、舞根は急いで言葉を続ける。
「もちろん、好きでやってたわけじゃないっ。何というか、無理やり……相手、先公だったんだけどさ。何だかんだ、ふたりきりにさせられて、その、嫌だって言っても聞いてもらえなかったんだ。悪戯……にしては、正直重かった。だって、男にしゃぶられるとか、しゃぶるとかさ……」
舞根を見つめた。その吐息や、指先や、膝小僧が、かすかに震えているのを見取って、僕は気づいた。いつも、僕と目が合うと舞根は目をそらした。軽蔑からだと思っていた。違う、そうじゃない、舞根は──
「香河は、同じなんだよな」
「……えっ」
「男と、……したいわけだろ」
「ぼ、僕は、」
「できれば見澤とやりてえんだろっ」
何? 何と返せばいい?
違う。僕はその先生とは違う。でも、確かに同じでもある。言い分ける言葉は?
「舞根、落ち着い──」
「分かれよっ。くそっ、俺は……俺は、お前が怖いんだよっ」
──こわい。
それは、向けられると身構えもしていなかった感情だった。気持ち悪い。汚い。卑しい。そんな言葉なら、いくらでも身構えていたけど、舞根のその感情は予想だにしていなかった。
怖い?
僕が?
「怖いんだよ……思い出すんだ、全部、頭の中に。怖い。だから、頼むから、学校辞めてくれねえかな……?」
「………」
「俺はこのこと誰にも言ったことねえし、言うつもりもないから、いきなり不登校とか転校とかできないし。お前に消えてもらうしか、気持ちが助からねえんだよ」
話しているだけで、舞根は息が上がりはじめて、汗を浮かべて過呼吸気味になっている。演技でも嘘でもないのだろう。
「頼む、消えてくれよ。不登校でも、転校でも、何でもいいから」
「……そっ、か」
「死んでも……いいし。死んだほうが、どうせ楽だろ……」
目がぱっくり開いた。
死。死んでもいい。笑いそうになった。滑稽すぎて。死ねばいいではないかと、まさか『頼まれる』なんて。口汚い唾棄ではなく、そんなに必死になって「死ね」と言われるなんて。僕は、そこまで当たり前に死を突きつけられるほどの存在なのだろうか。
つくえを降りた。舞根には「分かった」とすれちがいざまにつぶやいた。
さすがに精根尽き果てた。やめよう。学校に来るのはもうやめよう。そして、死ぬための努力をしよう。
そうだ。死んだら楽だ。何も考えなくていい。何も感じなくていい。何も思わなくていい。
僕にこの先、幸せになれそうにもない。なのにだらだら生きていて何になる? この血を垂れ流すまま、不愉快を抱いて生きていくなんて拷問だ。
楽になりたい。僕だって幸せになりたい。そして、僕が幸せになるには、誰にも迷惑をかけずに幸せになるには、自殺という手段しか残されていないのだ。
教室からかばんを取ってくると、昼休みの混雑に紛れて、学校をあとにした。電車は空いていた。
空は青く高く澄んで、十一月が近いひんやりした風が頬を癒やしていく。落ち葉が乾いた音を立ててひるがえる。
たどりついた家には誰もいなかった。おとうさんは仕事で、おねえちゃんは大学だ。おかあさんも買い物か何かだろう。
荷物をおろした部屋からカッターを持ってくると、洗面台に向かい合って、袖をめくって左手首を水道にさらした。こうして洗い落としながら切れば、血溜まりになって止まることもないだろう。息を吸って、それから、肺をたっぷり使って、息を吐いた。右手を持ち上げ、銀色の刃先を静かに皮膚に食いこませた。
ぴりっと痛みが走る。その痛みが、やっと、学校を出てきたときから麻痺していた神経を起こした。肩が震えたけど、僕は唇を噛んで、肌にめりこんだ刃先をすべらせた。どろりと鮮血があふれて、それと同時に、僕の瞳からも引き裂かれたみたいな涙があふれてきた。
死にたい。心の底から、そう思った。生きていく自信がない。生きていく楽しみもない。僕なんか汚い。迷惑しかかけられない。
水内を嫌悪にまみれさせた。舞根の心を破壊した。何より、鈴里の優しさを傷つけてしまった。
僕なんか、生きていて何になる?
どうしてだろう。それでも、あがくように考えてしまう。僕は、鈴里を好きになっただけなのに。鈴里の答えだって分かっていた。水内に何の害を与えた? 舞根の傷をなぜ僕まで担う?
分からない。僕がゲイじゃなければよかったのだろうけど、やっぱり変えられないんだ。誰かに迷惑をかけたくて、同性に惹かれるんじゃない。ただ、好きになるだけ。恋をするだけ。それで、何で死刑宣告を受けたみたいな気持ちで、手首を切っているのか。
みんな好きだった。いい奴だと思っていた。友達だった。それ以上なんてなくてよかった。鈴里。水内。舞根。友達のままでいてくれたら、それだけでよかったのに。
裏切ったのは、僕じゃなくてそっちじゃないのか? 一緒にいて一番楽しかった奴らが、今一番、僕をこの世からさいなんでくる。
鈴里。好きになってごめん。好きにならなければよかったね。そしたら僕は、このカッターを握る右手からも、鈴里に守ってもらえていたかもしれないのに。
刃物を止める人はいない。僕が死のうとしても止める人なんていない。鈴里さえ好きにならなければ、僕の未来が切断されることもなかった、それなのに。
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