未来のために
僕の自殺未遂を見つけたのは、おかあさんだった。僕はそんなに血まみれだったわけじゃないけど、おかあさん自身がパニックで泣き出してしまって、手当てどころじゃなかったので救急車を呼ばれた。
救急車の中で、意識を確認され、名前や年齢を訊かれて、「そんなに深い傷じゃないな」と手首を病院に着くまでもなく手当てされながら言われて、情けなくなった。せめて深い傷くらい作れたら、この心を表せたのに。
大きな総合病院に着いたら、傷をホッチキスで留められて、精神科に案内された。「話すのつらいかもしれないけど、きっとアドバイスもらえるから、先生に話してみてくれないかな」と看護師さんに言われた。アドバイスが欲しかったわけではないけれど、人の話を聞くことを仕事をしている人に愚痴るなら、迷惑ではないだろうかと思えて、こくんとした。
おかあさんには待合室にいてもらって、ひとりで診察室に入った。人の顔を見れなくなっていて、僕は椅子に座っても、うつむいたままだった。そういえば、服装も制服のままだ。
「香河夕絽くん、か」
しばらくPCのキーボードをたたく音だけだったけど、不意に穏やかな声が沈黙を破った。
「……はい」
「高校二年生」
「はい」
「進路は進学?」
「一応。福祉とか」
「そっか。なりたいものとかあるの?」
なりたい、もの。一瞬心をかすめた光景に、僕は胸を締め上げられ、思わず嗚咽をもらしてしまった。僕の急な反応に、「夕絽くん」と先生がびっくりした声をかける。
なりたいもの。とっさに思った。鈴里が隣にいれば、何だっていい。
「好きな……人が」
「うん?」
「好きな、人がいて。でも、そんな……つきあうとかできなくてもいい。友達でいられるなら」
「うん」
「だけど、やっぱり……すごく、困らせてしまって、僕が気持ち悪くて、もう死にたい」
「気持ちを打ち明けたのかな」
「………、告白、しないつもりだったけど。何で……しちゃったんだろう。言わなければよかった」
「どうしても好きだったんだね」
僕は膝の上で手を握った。ずきっとした左手首には包帯が巻きついている。
そうだ。好きだった。どうしても鈴里が好きで、そんな人に、興味のない女の子を勧められるのは、心がちぎれすぎて。
「男……なんです」
「え?」
「僕の好きな人、男だから……仕方ないですよね」
「………、その人は、それを分かってくれなかった?」
僕はこくんとして、ぽたぽたとこぼれおちていく涙をぬぐう。
「分かってくれなかった、し……理解もできなくて、人に勝手に僕のことを話した」
先生はPCに何か打ちこみ、「アウティングか」とつぶやく。僕は鼻をすすって首をかたむけた。顔を見るのは相変わらずできなくても、先生は物柔らかに言葉を返してくれる。
「カミングアウトって言葉は知ってる?」
「……はい」
「その反対だよ。自分から打ち明けるんじゃなくて、他者によって不本意に人にセクシュアリティを知られること」
僕は目をこすって、名前もある行為なのか、と思った。ということは、よくある事象なのだろうか。そして、僕と同じ想いをした人も多くいるということか。先生は、僕以外にも僕のような心の人を知っているのかもしれない。
そう思うと不安感がやわらいで、緩く深呼吸した僕は、教室のさまざまな反応から手首を切ったことまで、訥々と話していた。先生は落ち着いた相槌を入れながら、話を聞いてくれた。僕の話が静かに終わると、「ひとりで頑張ってきたんだね」と先生はゆったりと言った。
「悩ませてしまったなあと思って、親友の彼やクラスメイトの意見を否定しない夕絽くんはすごいよ。誰かに相談したかったと言われたら、そう思うのかもしれなくても、本来そこは、プライバシーを考慮してもらっていいところだからね」
「……そう、なんでしょうか」
「もちろん。みんなを責めないなら、それはそれで夕絽くんの自由だとしてもね。自由なんだよ。周りの偏見に囚われることもないんだ。もしいけないことを挙げるなら、自分を追いつめたり、自分を傷つけたりすること」
「僕は、死んだほうがよくないですか……?」
「まさか。夕絽くんは何も悪くないし、おかしいところもない。生きていていいんだよ」
生きていていい。
その言葉が、ここまで打ち明けたあとだから、噛みあうようにすとんと心に落ちた。まだ視界は濡れていたけど、ちょっと顔を上げて先生を見た。先生は優しく微笑んでくれている。僕はそれにまた泣き出してしまって、もらった言葉を心で繰り返した。
生きていていい。ゲイでも。鈴里を好きになってしまっても。周りを不快にさせていても。僕は何も悪くない。
「今の話、ご家族に打ち明けるのはつらいかな?」
僕がぐすぐす泣いているうちにPC入力をした先生は、不意にそんな提案をしてきた。
「話に出なかったから、ご家族は知らないよね?」
「は、い」
「無理強いはしないけど、事情をくみとって話ができる誰かはいたほうがいいと思うんだ。ご家族に勇気が出ないなら、僕でもいいんだけど」
「………、ゲイなら死んでくれたほうがよかったって……もし、思われたら」
「……そっか。じゃあ、ここに通院してみる?」
睫毛を伏せた。学校に、もう行きたくない。その気持ちは変わらない。だとしたら、やはり家族には打ち明けなければいけないのか。
「先生は」
「うん?」
「先生は、おかあさん……おとうさんもおねえちゃんも、僕を分かってくれると思いますか」
「どうだろう。断言はできない。ただ、何も話してもらえないのはつらいかもしれないね」
「つらい……」
「話せるなら、話してもいいんだよ。もちろん、焦ることじゃない」
首を垂れて、考えていた。診察を受けはじめて、ずいぶん時間が経ってしまっていた。
手首の傷の治療で外科にまた来るので、精神科も一応再診することにした。「失礼しました」と診察室を出ると、もう待合室は暗くて人もいなくて、オレンジの非常燈になっていたからびっくりした。
「夕絽」と呼ばれてきょろきょろとすると、足音が駆け寄ってきて、見ると、おかあさんだけでなくおとうさんとおねえちゃんもそこにいた。おねえちゃんが僕をぎゅっとして、半分泣きながら僕の名前を呼んだ。
先生の言葉を思い返した。話してもらえないのは、つらい──……
「バカ。ほんとに、バカなんだから」
そう言いながらも、僕の頭を撫でるおねえちゃんのことを、僕は呼んだ。おねえちゃんは僕を覗きこみ、僕はおねえちゃんと目を合わせたあと、おとうさんとおかあさんも見た。
「あの……ね、」
そっとおねえちゃんと軆を離す。おねえちゃんが暗目にも憂慮を浮かべる。
「僕、その……」
僕は息を飲みこんで、家族を見つめた。
「い、イジメ……られてたんだけど」
一瞬、空気がこわばる。でも、それは家族は予測していたのか衝撃のヒビはなかった。
「イジメられてたのはね、僕のせいで……今、先生は僕は悪くないって言ってくれたけど、おねえちゃんたちもそう思うかは、分からない……」
「夕絽のせいって。そんなこと、」
「紗暁、夕絽に話させなさい」
「どうして、そんなふうに思うの?」
僕はうなだれて、生唾を飲みこんでから、ゆっくり口を開いた。
「鈴里……が、好きだと思って」
「鈴里くん?」
「鈴里に何かされたの?」
「違う、僕が……鈴里に、迷惑かけた。好きになったから。男なのに……鈴里も、男なのに」
とっさに、返ってくる言葉はなかった。ナースステーションのざわめきがぼんやり聞こえる。
沈黙が痛い。僕は身を縮め、怖くなって目もつぶった。
そのとき、腕をぐいっと引っ張られて、おねえちゃんの匂いがした。おねえちゃんの軆に倒れこんだ僕をおかあさんも抱きしめ、「バカだなあ」とおとうさんは僕の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「鈴里くんが分かってくれなくても、おとうさんたちは夕絽のそばにいるぞ」
……おとうさん。
「ほんと。夕絽を手放すなんて、鈴里くんは意外と見る目がないねえ」
おかあさん。
「え、でも待って。じゃあ、まさか鈴里にイジメられてるの?」
おねえちゃんの問いに首を横に振って、水内や舞根のことも話そうとした。が、通りかかった看護師さんに会計をお願いされて、人もいなくなった総合案内で、ひとまず会計を済ました。そこで時計を見たときには、時刻は二十時だった。
駐車場におとうさんが乗ってきた車があり、その中で、改めて話の続きをした。三人とも、僕が悪いなんて言わなかった。水内の意見や舞根の事情については、「そんなの知ったことじゃない」とか言ってくれて、僕は思わず咲ってしまった。
僕の笑顔でみんなも安心してくれて、そして、これからおかあさんが夕食を用意するのも大変なので、外食して帰ることにした。国道沿いの回転寿司に入ると、みんながレーンから僕の好きなネタを取ってくれる。
その席で、僕はもう学校には行きたくないと伝えた。そうしたほうがいい、と家族全員うなずいてくれて、学校には自宅療養とだけ伝え、僕は不登校を始めた。
学校に行かなくても、家の中でひとりぼっちになることはあんまりない。それが、だいぶ心を助けてくれた。しかし、家族がみんな出払ったとき、夜寝る前、登校せずに朝陽を見つめるとき──やはり、どうしようもなく不安になった。
学校に行かなければすむ、という問題でもないのだ。不登校は、これからの人生について、どうすればいいかまで巻きこんでくる。学校に行かずにこの先どうする? 卒業できない? 退学になってしまうのだろうか。
そして、僕はこのゲイという性質とどう向かい合っていくのか。オープンか、クローズか。どちらにしても、どうやって出逢いを見つけたらいいのかも分からない。あるいは僕は死ぬまでひとりなのか。
ぐちゃぐちゃ考えていると、とても抱えきれなくなって、未来が重圧的で死にたくなる。破裂しそうなほど考えて、悩んで、死ねばこういうのから楽になれると思うと、死ねたらいいのになあなんてふっと考えてしまう。
でも、朝ならおねえちゃんが大学の前に顔を出してくれる。昼は一階に降りればおかあさんがいてくれる。夜はおとうさんが仕事の疲れも見せずに話してくれる。家族がいて、僕は何とか不用意な衝動から脱することができた。
気候はどんどん冷えこんでいった。音を立てて吹く風は冷たく、凛と澄み切った空には冬の匂いがする。いくら掃いても積もってきていた枯葉も減って、空気は乾燥していった。
【第九章へ】