白日の少年-9

許されるのなら

 僕はたまに買い物程度の外出はしていたけど、人には遭わないようにしている。もうじき十二月で、世間はハロウィンが終わったときからクリスマスでにぎわっている。
 町を歩いて、ポインセチアとすれちがって、クリスマスか、と考えた。毎年、クリスマスは約束なんか交わさなくても鈴里と過ごしていた。なのに、今年は鈴里が今どうしているのかも分からない。帰宅して冷えた軆にふとんを巻いて、このまま簡単に他人になるのかな、なんて電気毛布にうずまって思っていた日だった。
 ドアフォンが鳴ったのには気づいていたけど、僕には関係ないと思っていたら、ふとノックが聞こえた。
「夕絽? 起きてる?」
 おかあさんの声だ。僕はドアに首を捻じって、ちょっとうとうとしていたあくびを噛んでから、「何?」と応える。
「今、高校の先生がいらしてるんだけど」
「えっ」
「あっ、担任の先生じゃないからね。夕絽を受け持ったこともないって先生で、おかあさん、お話もしたんだけど」
 何。何だろう。僕を受け持ったこともない?
「学校のほうに疑問があるって話していらして、よければ夕絽と話したいって。あと、もうすぐ期末考査があるからそのことも相談しましょうかって」
「……はあ」
「どうする? 無理は言わないよ」
 学校のほうに疑問がある、ということは──僕をいびったみんなのほうがおかしい、と見ているということか。そんな先生いたっけ、と思っても、心当たりは浮かばない。が、確かに期末考査はどうすればいいのか気になっていた。そもそも、このまま出席日数不足になっていっていいのかも心配だった。
 ベッドを這い出ると、ドアに歩み寄って隙間を作った。僕のほうがちょっと高い目線で、おかあさんが廊下にいる。
「夕絽。どうしようか」
「ん……その、じゃあ、おかあさんも一緒に話してくれるなら」
「それは任せて」
「ごめんね」
「いいよ、気にしないの。じゃあ、行きましょうか」
 うなずいて、いったん部屋に戻って藍色のジップパーカーを羽織ると、寒い階段を降りて一階に向かった。
 暗い森のように心臓がざわついているけれど、そこまで味方するように言っておきながら、おかあさんの前で罵倒してくることもないだろう。とはいえ、ちくりとした棘くらいは覚悟しておかなくてはならない。
 大丈夫、と自分に言い聞かせながら、暖房とストーブでふわっと暖かくなるリビングに踏みこんだ。
「この子が夕絽です」
 おかあさんに紹介されてぎこちなく顔を上げると、ソファにはぜんぜん見憶えのない、スーツの男の人が座っていた。
 思っていたより若くて、三十にもなっていないかもしれない。「ありがとうございます」とおかあさんに頭を下げたその先生は、僕に目を向けて力強く微笑んだ。
「君が香河か。初めてになるな」
「あ、はい……初めまして」
「初めまして。僕は松瀬まつせ。一年生に数学を教えてる。たぶん──君とはすれちがったこともないな」
「そう、ですね。初めてだと思います」
「そうだよな。いきなり悪い、押しかけてきて」
「い、いえ。えと、その……僕のこと」
「ああ。安心しろ、先生は友達にもゲイの奴がいるんだ。それなりに分かってるつもりだ」
「友達……に」
 思わずまばたきをすると、「何かあったかいの淹れてくるから、座りなさい」とおかあさんに言われて、僕は慌てて先生の対角に腰を下ろす。
「香河のうわさだけは聞いてたんだけどな、学校に来なくなってるのは、このあいだの職員会議で初めて知ったんだ。もっと早く力になっておけばよかったな」
「職員会議……に、なったんですか」
「放っておくわけにはいかないしな。香河のこと、分かってない先生もいるけど、このままふたをしたくないって先生方もけっこういるんだぞ」
「ほんと、ですか」
「ああ。でも、指導権はやっぱり担任が強いんだよ。あんまり出しゃばっちゃいけないんだが、期末考査を口実に何とか面会を許してもらえたんだ」
「担任は、その」
「香河と話したいと言って、いい顔はされなかった。だが、不登校に追いこんだのに、それで事が落ち着いたと思ってるのが個人的に気に食わない」
 はっきり言うなあ、と思っていると、おかあさんがカフェオレを持ってきてくれた。先生には、湯気の消えているコーヒーがすでに出ている。おかあさんは僕の隣に座って、「松瀬先生、夕絽の味方になりたいって言ってくれてるの」と言った。
「味方」
「おかあさんは、今の高校を苦しんで卒業するより、よそに編入したほうが、とも考えてた。それを、松瀬先生に少し考え直してもらえませんかって言われて、お話してね。確かに、ちょっと考え直したから、夕絽をここに呼んでみたの」
「………、学校は、行きたくない……けど」
 僕は手の中のカップを握って先生をちらりとして、「行かなくて、高卒もなくて、どうしようとも考える」と正直につぶやく。手のひらがじわりと温まっていく。
「学校に来るのは、やっぱり怖いか?」
「怖い……というか、迷惑だから。僕が来ると迷惑だって」
「そう言った奴がいる?」
 躊躇ったものの、こくりとした。「そうか」と先生はこまねき、「じゃあ、そんなこと言われなかったら?」と突きつめてくる。
「えっ」
「そんな中傷を吐いてくる奴がいなくても、学校には来たくないか?」
「い、いないなら……行きます。ちゃんと、普通に生きていきたいし。だったら、進学だってしたいし」
「そうか。進学も考えてるのか?」
「福祉系に進みたいとは思ってます」
「そうなのか。じゃあ、教室にはもう行かなくていいっていうのはどうだ?」
「え……」
「今のクラスに戻れっていうのが酷なのは、さすがに先生でも分かる。でも、学校に来るだけでもしたら、それは出席日数にできるんだ。それに、どんな教室でもいいから学校に来たら、手の空いた先生が勉強も見てくれる。試験にも参加できる。ちゃんと卒業できるんだ」
「そ、そんなの……いいんですか?」
「もちろんだ。香河が学校に来てくれるだけでも嬉しいって先生もいるんだぞ」
 僕は睫毛をまたたかせる。手の中のカフェオレを飲むのも忘れて、信じられないあまり動揺してしまう。そんな、僕が学校に行くだけで──
 学校に来るだけで不快だと言われた。そして、そんな僕が悪いと思った。でも、僕はきっと悪くない。間違ってない。今なら少しずつそう思えている。だとしたら、僕を受け入れてくれる人だっているのかもしれない。
「香河のことが校内に知られるようになった切っかけの話は、だいたい聞いてる」
 はたとして顔を上げる。
「それもあって、イジメを受けて当然だとか先生もいるのも知ってる。苦しめたのは香河のほうだ、なんて言う生徒も知ってる。だが、ゲイに想いを告白されることは、特殊な苦悩じゃないと先生は思うんだ」
「……でも」
「特別なことじゃない。好きになっただけだろう? そして、それを伝えるかどうかなんて、恋愛なら自然にあることだ。ゲイに告白されると迷惑だなんて、大半は告白されたこともない奴の決めつけだ。そんな決めつけがあるから、悪循環でゲイに想いを寄せられた奴が悩む。もっと簡単に惚れた腫れたやっていいと思うんだよな」
「………、」
「何というか、どう言い表したらいいのかむずかしいが──お前が、苦しめたくてそいつを好きになったわけじゃないのは、確かだろう?」
 僕は先生を見つめた。見つめたまま、気づいたらほろほろと涙を落としているのに気づいた。
 そうだ、と思った。そうなのだ。ごめん、とたくさん思った。ごめん、鈴里。好きになってごめん。告白してごめん。でも、僕は、けして君を傷つけたかったわけじゃないんだ。
 一緒に幸せになれないのは分かっていたけど、それでも、好きになっていた。苦しめる気なんてなかった。むしろ伝えたかったのは、それだけ君が素敵な人だったと──
「夕絽」とおかあさんは肩をさすられて、僕は甘い香りのカフェオレをこぼさないようにカップを抱いて、泣き出してしまった。「まったく」とおかあさんも涙を孕んだ声で息をついた。
「本当に鈴里くんが好きなんだね……。ごめんなさい、先生」
「いえ。少し言葉がずうずうしかったでしょうか」
「そんなこと。この子は、誰かにそういうことを言ってほしかったんですね。ごめんね、おかあさん、気づいて言ってあげられなくて」
 首を横に振って、何とかカップをテーブルに置いて、それからはちきれたように泣きじゃくった。
 鈴里に会いたい、と思った。すごく久しぶりに、そう思えた。鈴里に全部説明して、つたない言葉でも説明して、ちゃんと仲直りしたい。
 突き放したのは僕だった。歩み寄るのも僕なのだ。そのためには、まず学校に行かなくてはならない。
 近所でこっそり仲直りしておくだけではダメだ。僕は振られて、それでも友達としてなら鈴里と仲直りして、何にも誰にも「迷惑」なんかじゃなかったことを証明したい。僕をイジメた人に、その誤解をかえりみてもらいたい。謝ってもらおうなんて思わない、ただ、みんなの偏見を正せるのは僕なのだ。
「学校に……」
 息を引き攣らせた声で、僕はようやく顔を上げて、松瀬先生を見た。
「学校に行きたい、です」
 先生は僕の目を見つめ返し、「待ってる人もいるからおいで」と言ってくれた。僕はこくこくとうなずいて、ほっとしたのにあまりにも涙が止まらないから、かえって笑ってしまった。
 おかあさんが僕の肩をとんとんとなだめてくれる。そして、「よしっ」と松瀬先生が膝を打った。
「じゃあ、どんなふうになら登校できるか、相談していこう!」

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