僕の爪痕-2

焼きつく恐怖

 俺は顔を上げた。いつのまにか、部屋には自分ひとりになっていた。一階で笑い声がする。「いつも悪いねえ」なんて両親の声がする。
 とうさんも。かあさんも。何にも知らない。
 何も知らず、中学二年生の俺を家にひとりにするのは可哀想だと心配して、あの男の家によこしている。とうさんの学生の頃からの親友なのだそうだ。
 働いてはいない。俺の世話をしているという体で、両親に金をもらっているくらいだ。
 朋春さん。俺はあの人に、幼い頃から性的に軆を汚されている。
 ため息をつくと、くそ、と舌打ちする。また抵抗できなかった。いつもそうだ。昔から。「嫌だ」のひと言も言えない。
 怖くて、気持ち悪くて、意識も朦朧としてしまう。俺だって、もう、ひと桁のガキではないのだ。筋肉だってついてきた。いや、寝る前の筋トレでつけてやった。なのに、あの人が視界に入った瞬間、天敵に気づいた小動物みたいに動けなくなる。押し退けるどころか、軆がぜんぜん言うことを聞かず、死体みたいにただ犯されるままになる。
 吐きそうだ。終わったあとは、いつも死にたい。本当に、死にたいとしか名状できない。どんな言葉も追いつかなくて、その絶望に打ちのめされて、……死にたくなる。
 ──翌日、俺は何事になかったような顔で登校する。学校が近づくほど、顔が上がって、しぼんでいた内臓も新鮮に息を吹き返していく。教室に着く頃には、イジメも厭わないスクールカースト上位の早原颯汰のできあがりだ。
 荷物をおろして席に着きながら、俺はちらりと糸山の席を見た。来ている。
 言わない。言わない、よな。言われたって、昨日藤香に言った通り、里菜に命令すればいいだけだ。気にすることないか、と前を向いたとき、ちょうどチャイムが鳴った。
 その日も、特に手ごたえを覚えることなく、一日は過ぎていった。
 しかし、昼休みに気づいた。俺はいつも通り、藤香たちと四人で弁当を食っていた。クラスの奴みんな、それぞれのグループでそうしている。その中でぽつんと孤立している里菜が、同じく群れない糸山を何やら気にしていた。
 声はかけていないし、視線も伏せがちだ。だが、過敏な人間だと気になるかもしれない。糸山はそれに特に反応していなかったが、突然、弁当を片づけて席を立つと、教室を出ていった。
 俺はとっさに眉を寄せる。里菜は糸山を追いかけていない。それを確認してから、「ちょっとトイレ行くわ」と藤香たちが余計に騒がないように糸山の名前は出さず、俺も教室を出た。
 廊下を見渡し、右手に糸山の背中を見つけた。階段を降りていこうとしていて、俺は舌打ちしてそれを追いかける。そのまま職員室に行って、教師にチクって里菜の面倒を押しつけるつもりか。そう思ったのだが、糸山は一階に着くと、職員室でなく渡り廊下に向かった。
 何だ、と首をかしげ、少し立ち止まる。池畑なり何なりに、俺たちと里菜のことを話すのではないのか。そうではなかった場合を思って躊躇ったものの、俺は糸山が人気のない中庭を横切っていくのを追った。
 どこに行くのだろう。この先には部活のプレハブがあるくらいだが。俺も中庭を横切り、プレハブの前に出た。
 プレハブ奥に面した、道路沿いに並ぶ桜の樹の前に、糸山の背中があった。まだ暑い時期なのに、糸山は薄手の黒いパーカーを羽織っているから間違いない。揺らめく葉桜の影の中で、糸山はひとりで突っ立っている。
 こんなところ、放課後に部活が始まらないと人は来ない。誰かとこっそり待ち合わせでもしているのか。普通に、女子に呼び出されたとか。あいつに告る女子がいるのかはともかく。
 何だよ、と息をついて、ひとまず心配はなさそうで引き返そうとしたとき、ふと糸山が動いた。手を振り上げ、何かぎらりと日光を反射したものを桜の樹に突き立てる。
 ざくっ、という音に、え、と目を凝らしたが、そうしなくても刃物なのは分かった。何してんだ、と見つめてしまうと、糸山はその刃物を、何度も何度も桜に突き立てはじめて、乱暴に肩で息をする。
 何だか、それが無心に人の喉を切りつけているみたいで、気味が悪くなってきた。頭やばいのかよ、と後退ろうとしたとき、糸山が動きを止めた。
 ゆっくり、こちらを振り返ってくる。
「よ……よう」
 引き攣った声で何とか言うと、糸山は無表情に握りしめているナイフを下ろした。ナイフって。俺でも携帯していない。
 でも、ビビって見せたら、こいつは誰に何を言い出すか分からない。それに気づくと、俺はふてぶてしい態度を取り戻して、糸山に歩み寄った。
「何でそんなの持ってんだよ」
 言いながら、攻撃されていた桜の樹を一瞥すると、今つけたのではなさそうな古傷もある。
「これがお前の八つ当たり?」
 糸山は何も言わずにナイフをたたむと、スラックスのポケットに入れた。さすがに何か言うか、と俺は構えたものの、糸山はそのまますれちがって、中庭のほうへ消えていった。
「何だよ」と残された俺はつぶやき、桜の樹に歩み寄って、傷痕に触れてみる。ぎざぎざしていて指に刺さる。何となく、隣の桜の樹も見ると、その幹も傷つけられていた。
 何だろう。こんなことをするって──普通に考えれば、いらいらしていたとか、だろうが。
 ざわっ、と風に葉桜が葉擦れをささやく。糸山が消えた中庭への道を見る。あいつ、もしかして俺たちと同類か。
 いや、分からない。何を考えているか分からないのは変わらない。本当に、不気味な奴だ。そう、だからクラスからもハブかれるのだろう。
 顔を上げると、緑の葉がゆらゆら踊って、熱のこもった光を揺らしていた。たぶん、海の中から空を見上げるとこんな感じだろう。
 あのときも、桜のそばだった。クラスが変わった、今年の春。そう、校門側の桜並木の下で。四月の終わり、花びらがあふれるようだった桜は、すでにほとんど散っていた。放課後、俺は話したこともなかった里菜に呼び出されて、「一年生のときから好きでした」と言われた。
 ──好き。好きって。
 俺はとっさにわけが分からず、理解しようと必死に「好き」という単語で頭を動かせた。だが、そうしているとふっと意識が陰った。
 それは、いつも言われている。そう、朋春さんに。昔から繰り返し言われているではないか。
 颯汰くんが好きだよ。
 かわいいね。
 ああ、もっとその顔が見たい。
 好きだよ、僕だけの颯汰くん──……
 耳を食んでささやかれた感触がよみがえった瞬間、突き落とされるようなフラッシュバックが脳裏に散乱した。喉が逆流して吐きそうになって、上体を折ってしまう。
 鳥肌を撫でる手。奥まで突き上げられて。精液の臭い。腹にかけられた白濁から立ちのぼる。
 ああ。ああ。ああ!
 嫌だ。頭が壊れる。思い出したくない! 息が切れて、過呼吸で口の中が渇く。
「は、早原くん……?」
「……っけんな、」
「え──」
「ふざけんなっつってんだよっ。好きとか気持ち悪いこと言うんじゃねえっ」
 茫然とした里菜の目に気づき、はっとした。が、まだ頭が混乱していて、謝るとか考えられなかった。
 それより、俺を「好き」だというこの女を、怖いと感じた。俺を「好き」だってことは、こいつも朋春さんのように──
 その場から駆け出した俺は、翌日から里菜に抵抗するためにすぐ乗ってきそうな藤香たちを集め、「俺に告ってきた里菜の目つきが気持ち悪いんだけど」とか言って、あの放課後の仕打ちに誘導した。そして勉強に集中し、中間、期末と学年でトップクラスの成績を修めるようになり、池畑や教師たちの信頼も得た。
 クラスメイトたちも、自然と俺のランクを高く位置づけた。みんな俺の思い通りに動くようになった。優位に立つようになり、学校では自由になれるような気もしてきた。
 でも、本当は何も変わっていない。家での俺は、幼稚園児のときから変わっていない。
 何も言えない。「嫌だ」と言えない。里菜には言えた「ふざけんな」という絶叫も出ない。あの人の笑顔の能面が怖くて、泣きそうになって、声さえ出ない。何ひとつ抵抗できやしないのだ。
 そう、もはや「やめてください」と情けなく哀願することすら、反抗と思われるのが恐ろしくて、……俺は何もできない。

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