僕の爪痕-3

浮いたふたり

 放課後に殴ったり蹴ったりしていることは、今のところ知られていないが、それでも俺たちが里菜を標的にしていることは、クラスメイトはうすうす感じ取っている。
 それは俺たちの「サトイモ」という呼び方だったり、ノートから宿題のページをちぎっていることだったり、とりわけ藤香が女子を先導して行なう無視とかだったりした。
 でも、俺がやっていることだから、みんな「イジメられる里菜のほうが悪いんだろう」という感覚で、担任の池畑にチクったりはしない。
 あの日、教室で居合わせたのが糸山でなくただのクラスメイトだったら、俺たちはそもそもチクられる心配なんてしなかっただろう。でも、糸山は里菜と違ったふうでもクラスで無視されていて、それに対して無表情で、何を考えているか分からないから、何となくしばらく気がかりにしていたのかもしれない。
 だが、糸山は誰にもあの日見たことを口外していないようだった。十月に入った頃には、少なくとも藤香たちは、心配するどころか糸山を気にすることも忘れていた。
 そんな中、俺だけはあの日桜にナイフを刺していた背中で、糸山が引っかかっている。それを藤香たちに口にすることはなくても、俺はときおり視線で糸山のすがたを確認していた。
 そうしていると、糸山は休み時間にしばらく教室を出ていっているときがあるのに気づいた。またあれやってんのかな、と思うと、何とも言えない薄気味悪さを感じた。
 今年は十月になっても涼しい日が少なく、軽く運動すると、汗もかくくらいだった。制服は衣替えになったけど、だいたいの生徒がまだ夏服を着ている。男女別れる二クラス合同の体育の授業もそうで、ジャージを着る生徒は少ない。
 男子はサッカーだった授業が終わると、三組の教室は男子、四組の教室は女子が着替えに使う。四組男子の俺は三組の教室で制服に着替え、かったるくあくびをしながら廊下に出た。
 そのうち「着替え終わったー」と女子の誰かが出てきて、三組の野郎共は「女子遅っせえし」とか言いながら自分の教室に入る。俺もそう思いながらも、口にはせず教室に踏みこんで、すると「早原っ」と藤香が駆け寄ってきた。
「これ、どうする?」
 藤香が差し出して見せたのは、女子の冬の制服である紺のセーラー服だった。「は?」と俺が眉を寄せると、「あれだよー」と藤香は教室の中を指さす。たどって見ると、体操服の里菜があたふたと何かを探していた。
 何か、というか、これは完全にこの制服か。
「ゴミ箱かなー。濡らすかなー。破っちゃってもいいね」
 楽しげに言い並べる藤香に、「売ったら金になるんじゃね」と俺が肩をすくめると、藤香はおかしそうに笑う。
「早原は相変わらず思いつくことがレベル高いな。あんな子のでも値段つくの?」
「さあな。ま、普通に窓から捨てれば」
「ぬるくない?」
「どっかに飛ばされるし、おもしろいじゃん」
「あ、そうか。よしっ。そうしよう」
 藤香はぐるぐると里菜の制服を丸めると、窓へと走っていった。そして窓を開け、「おい、サトイモ!」と里菜に声をかけると、その視線を受けてから、空中に腕を伸ばしてぱっと制服を手放した。青空の中に舞ったセーラー服に、里菜は大きく目を開き、それを見て俺もその場で小さく笑ってしまう。
 里菜は泣きそうにおろおろしていたものの、やっぱりそうするしかないので、そのまま教室を飛び出していった。いくつか教室から失笑がもれ、「だせえ」とか「どんくさいよね」とかいうささやきが生まれる。
 そのとき、四時間目を告げるチャイムが鳴った。俺は自分の席に着いて数学の教科書を取り出す。同時に数学の教師も教室にやってきて、起立、礼、着席が済むと、教師は名簿を開く。
「今日の欠席だけ確認するぞー。空いてる席はふたつだな」
「とりあえず里菜さん!」
 藤香が手を挙げると、クラスがまたくすくす笑う。しかし、数学教師はそれをいちいち気にせず、「里菜な」と名簿に何やらチェックを入れる。
「もうひとりは誰だ? 男子の列だな」
 今日休みいたっけ、と思いつつノートの宿題のページを開いていると、「さっきまでいた糸山がいませーん」と声がした。
 糸山。
 俺は顔を上げる。
「さっきまでいたって何だ。三時間目まではいたのか?」
「三時間目いた?」
「体育だったから分かんね。見てなかった」
「二時間目まではいたよね?」
「何だ、まったく……。まあいい、いないから欠席だな。じゃあ、昨日出した宿題の答え合わせいくぞー」
 俺は糸山の席をちらりと振り返った。
 確かに、朝にはいたと思う。また桜のところだろうか。いつもは一応、授業までには帰ってくるのに。よほど夢中になっているのか。
 まあいいけど、と俺は目立つ前に授業に向き直った。
 そのときはあんまり気にしなかった。結びつけて考えることもしなかった。里菜が教室にいないのは藤香の仕業だし、糸山は桜のところだろうと思ったからだ。
 だがそれからたまに、登校してきていたはずの里菜と糸山が、揃って授業からすがたを消すようになった。
「えー、あのふたりつきあってんの?」
「変な奴同士でいいんじゃない」
「授業サボって何してんだろ。気持ち悪いんだけど」
 そんなうわさがひそひそと流れはじめて、俺は静電気のようなかすかだか確かないらだちを覚えた。
 里菜はもちろん、糸山だって、俺の中では孤立していて、味方なんか作ってはならない奴なのだ。傷を舐めあうなんて気色悪いことは許せない。でも、どうやら一緒に授業をサボっているのは明らかだ。俺の意に反して、こそこそと馴れあっている。
 生意気に反抗されたようでいらいらして、俺は放課後だけは必ず里菜を捕まえて、藤香たちといっそう激しく痛めつけた。
 糸山にも何かしなくては。そして、できればふたりを引き離さなくてはならない。
 そう思っていた。だから、やっと頬を撫でる風が涼しくなってきた十月の下旬、藤香が休みだったので、俺は昼休みに教室を出る糸山のあとを追いかけた。
 糸山が向かったのは、三階の先にある屋上だった。そんなとこ鍵かかってるだろ、と思ったら、糸山はあっさりドアを開けて、外に出てしまった。知らなかった。この学校の屋上は解放されていたのか。
 俺は息を吐いてから、ノブをまわしてドアを開けた。さあっと光と風が顔面に当たり、ちょっと目をつぶってから、屋上のコンクリートに踏み出す。
 やはり、屋上が自由に出入りできるなんてみんな知らないのか、そこに人影はひとつしかなかった。糸山がフェンスにもたれて、菓子パンの封を開けようとしている。
 里菜もそうだが、糸山も早くから制服は冬の学ランになっている。糸山は俺に目を向けて、さすがに嫌な顔をするかと思ったが、例によって無表情だった。
 俺はドアを後ろ手に閉めると、落ち着いた歩調を努めて、糸山に歩み寄っていく。
「いつもここでサトイモと密会してんのか?」
 風が強い。俺の髪も糸山の髪もさらさら流れて、服の裾もはためく。ごおっと風音が耳を圧して、青く突き抜ける空には雲がたなびいている。
 けっこう寒かった。もしかして里菜と糸山が冬服を着ているのは、ここで長く過ごすためなのだろうか。
「あんな女のどこがいいんだよ」
 俺は糸山の隣のフェンスに背中を預けた。そして、糸山のほうを向いてそう言ったが、糸山は反応せずにがさっと菓子パンを封を開ける。いちごの匂いがした。
「ていうかさ、お前に訊きたかったんだけど。まだあれやってんの? 木にナイフ刺す奴」
 糸山はこちらを見もしない。無頓着にいちごのジャムパンを食っていて、いらっとしてくる。
「あれさー、やっぱ人に見立ててやってんの? 誰かのこと殺したかったりすんの?」
 糸山の口が動くのを見つめて、俺は笑ってから言った。
「で、それって、自分の彼女をイジメてる俺のことだったりする?」
 糸山は一瞬手を止めたが、やっぱりこちらを見ずにパンに咬みつく。「ふうん」と俺はまた笑って、天を仰いだ。
「そんな顔して、イジメ許せねえとか思ってんだな。ま、当の女子は喜ぶのかな」
 糸山はかたくなに無言だ。俺もそれ以上何も言わず、ただ空で緩やかに動いてかたちを変えていく雲の数を数えたりしていた。
 そうしていると、踏んでいた通り、がちゃっとドアの開く音がした。目を向けると、相手も俺に気づいてはっとすくむ。
 そこに現れたのは、里菜だった。
 里菜は引き返しそうに踏みこむのを躊躇っていたが、そのとき、やっと糸山が動いた。くしゃくしゃとパンの包装を手の中に丸めながら、里菜のほうへ歩いていく。「糸山くん」と里菜も糸山に歩み寄り、そんな里菜の手首を糸山はつかむ。
 ふたりで出ていくのかと思ったら、糸山は里菜を引っ張って、こちらに戻ってきた。里菜は俺に怯えて前のめりつつ、抵抗せずに糸山についてくる。糸山は里菜を自分の背後にやってから、俺を見た。
 何か言い出すわけではない。ただ黒い瞳は俺を威嚇し、睨みつけてくる。
 風で里菜のスカートがひるがえり、ばさっと音を立てる。あの日は昼休みにこそこそとその制服抱えて帰ってきてたな、と思った。そして、そのあとに糸山も戻ってきていた。
 あの、藤香がセーラー服を三階から捨てた日からなのか? あの日にこいつらは接点を持ったのか? そして今ではつきあっているのか? 外れ者同士、ここでこっそりなぐさめあっているというわけか?
 俺は里菜を見た。里菜も俺を見ていて、でも、視線が触れあうとぱっとうつむいた。俺は無意識に舌打ちして、「勝手にやってろ」と吐き捨てると、きびすを返した。
 それでも、糸山の目が俺の背中を射ている。里菜を守っている。くそ、と言いようのないいらいらが芽吹いて、表情にせりあげるのを感じ、俺は校舎に入って乱暴にドアを閉めた。
 何だよ。何なんだよ。俺に刃向かいやがって。
 身分の低いお前らなんか、俺がクラスメイトに頼めば、一瞬にして不登校にもできるんだ。それなのに、優しさだか絆だか得体の知れないもので、俺をはねつけやがって。
「……くそっ」
 つぶやいて壁を殴り、こぶしに返ってきた痛みに歯軋りして、俺は階段を降りていった。
 また何か気に食わないことがあったら、そこで一緒に授業をサボっていることを池畑にばらしてやる。そう思ったが、我ながらそれは情けない仕返しに思えて、余計にむしゃくしゃした。

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