僕の爪痕-4

黒い空の下

 五時間目と六時間目の授業を受けると、放課後になった。藤香はいないが、あとのふたりはいるし、仮にひとりでも今日は里菜をぼろぼろにしようと思っていた。
 だが、終礼してかばんからスマホを取り出し、メッセージが来ていることに気づいた。藤香だろうかと開いてみて、一瞬にして俺の心臓は凍りついた。
『今日は家にお母さんがいるんだよね。
 でも会いたいから、校門で待ってるよ。』
 ぞわっと総毛立って、軆がこわばった。
 ついで、鼓動が不穏な駆け足になってくる。投稿時刻。“15:04”。ダメだ。もういる。今は十五時半をまわっている。
 どうしよう。逃げられない。裏門はいつも閉まっている。校門を通らないと帰れない。
 指先が小さく震えて、何とか抑えようとスマホを握りしめた。耐えがたいいびつな吐き気がこみあげる。喉元をじわじわ絞めつける吐き気だ。おかげで息が荒くなってくる。冷や汗が流れる。一瞬ほてって、急激に冷たくなる軆に、頭の中が綻び落ちていく。
 怖い。嫌だ。怖い。どうすればいい。怖い。怖い。怖い──
 ぽん、と肩に手を置かれた。俺は大袈裟に跳ね上がり、振り返った。そこにいたのは、いつも一緒に里菜で楽しんでいるふたりだった。
「何ー? 早原がビビるの初めて見た」
「やばいもんでも見てたのかよ」
「え……、あ、まあ、……ああ」
「ろれつまわってないよー?」
「藤香いないけど、今日どうする?」
「今日──は、えと……あ、……あの」
「えー、どうしたの?」
「顔面蒼白じゃん」
 懸念の言葉と裏腹にふたりが笑って、俺も引き攣っていたが何とか合わせて笑ったときだった。
「早原ー、親戚の人が迎えにきたって言ってるぞ」
 どくん、と心臓に鼓動が食いこむ。「親戚の人?」とふたりがきょとんとして、俺はとっさに「親が倒れたらしくて」と言っていた。言ってしまったあと、何であの人に合わせるんだよ、と混乱が激しくなる。やばいじゃん、早く行きなよ、という声が遠くから聞こえる。俺はうなずいたような気がする。
 廊下のほうから、「颯汰くん」と声がした。
 間違いない。あの人の声だ。
 俺は手元が狂わないよう、必死に自分を取り繕いながら、荷物をまとめてドアへと向かった。
 ぽん、とまた肩に手が置かれる。今度こそ、いつもの汗ばんだ手だ。
 濃いコーヒーの臭いがする。
「さあ行こう」と言われて、俺はこくんとした。ぷつん、と軆の自由が途切れたのが分かった。そのまま、心神喪失した犯人が連行されていくみたいに、俺は茫然としたまま肩を抱いてくる人についていった。
 校門に車が横づけされていて、俺はその助手席に乗せられた。すーっと動き出した車は、そんなに走らず、住宅街の外れの茂みで停まった。そこがあまり人通りのない場所なのは、昔からこの土地に住んでいて知っている。
 縮むようにかばんを抱きすくめると、痙攣で震える息がもれた。
 エンジンが止まる。
 目の焦点が狼狽えているまま定まらない。伸びてきた手が頬に触れて、びくんとすくんでしまう。俺の張りつめた息遣いに、ほてって荒くなった息がかぶさる。
 すぐ目の前に俺を覗きこんでくる顔が来る。頬に触れた手は俺の額をさすって、前髪をかき上げるとべたりと口づけてきた。気持ち悪くて、振りはらうより泣き出したい。俺の顔の輪郭をなぞった手は、かばんを足元に引き剥がし、シャツの上から俺の軆を撫でまわした。
 はあ、はあ、と犬みたいな息が耳元でこだまする。コーヒーの臭いが車内できつくなっていく。
 手はどんどん下にいって、スラックスの上から俺の性器を捕らえた。ゆっくり揉まれて、感じたくないのに、反応が現れてきて笑い声が混ざる。
「かわいいよ」とささやかれる。俺は歯噛みして声を殺す。
 くそ。何で。自分の性器のプライドのなさが悔しくて、恥ずかしくて、気持ち悪い。
「颯汰くんのここは、僕が一番よく知ってるからね」
 粘つくような声がして、俺は目をつぶってかすかに首を横に振る。
「こんなに気持ちよくなってるのに?」
 かたちを握られ、しごかれると小さくうめきをもらしてしまう。
「ほんとに颯汰くんはかわいいね」
 やめろ。
「僕の手で気持ちよくなってくれて嬉しいよ」
 やめてくれ。
「ほら、僕も颯汰くんが好きだから、こんなに──」
 不意につかまれた手を引っ張られ、手の甲に勃起が当たる。
「颯汰くんはいい子だから、どうしたらいいか分かるよね」
 その言葉と一緒に耳たぶをすすられ、俺はとにかく早く解放されたくて、それをつかんで手首を動かした。俺の髪に顔をうずめ、そのにおいを嗅きながら、異様な唸り声をもらす。
 やだ。嫌だ。早くいってくれ。俺も萎えろよ。必死に自分の下半身に訴えても、こすられて気持ちよくなってしまう。
 不意に、がたんっと座席が倒された。急に狭い天井が視界になり、ぎっ、と車が軋む。
 俺の軆におおいかぶさったその人は、俺のスラックスも下着もおろして、俺の手で硬くなった自分自身もあらわにした。そして、ダッシュボードからいつもの瓶を取り出すと、自分にも俺にも透明の潤滑を塗りたくって、「いくよ」と俺をつんざくように犯した。
 痛い。押し開かれて痛い。軆の中をかきまわされる。腹の中で勃起がうごめいている。圧迫感が苦しい。強く突かれて便意を刺激されたが、同時に半勃ちの性器をつかまれて揺すられ、変な感じで快感が戻ってしまい、息を引き攣らせる。
 颯汰くん。颯汰くん。僕の颯汰くん。すごくいいよ。ほんとに何でこんなにかわいいんだろう。
 どんどん腰の動きが早くなって、ぱんっ、ぱんっ、と皮膚がぶつかる。車がその動きと一緒に揺れる。つらぬかれて、引き抜かれて、湿った音がぐずつく。だらしなく息遣いがあふれて、汗をかきながら、俺の中に脈打つものをこすりつける。
 俺は目をきつくつぶって、嗚咽がもれないように唇を噛みしめて、捻じりこまれる痛みに必死に耐える。
「……あっ、あ──出る、っ……出る、」
 そんな声が急に生々しく聞こえたとき、軆の中に熱がぶちまけられたのが分かった。俺は大きく目を開いた。
 朋春さんが、俺の中に、射精しているのだ──と理解するのに、しばらくかかった。
 最後まで俺の腹の中に出してから、朋春さんはようやく軆を離した。そして、俺の尻の穴から零れる白濁を生理ナプキンで抑えて、そのまま下着とスラックスを穿かせた。腹の中がごろごろと混乱している。
「送ろうか」と言われて、後部座席に夕陽が射しているのに気づいた。俺はかぶりを振って、足元のかばんをつかむと、転がり落ちるように車を降りた。
 腹が痛くなってくる。中出しされるといつもそうだ。だから、朋春さんは面倒がってあんまり中出ししないのだが。家じゃなかったら遠慮なしかよ、と不愉快な腹を抱えてよろめきつつ、俺はどうにか車から離れていった。
 生理ナプキンと尻のこすれ合いが嫌な感じだ。こぼれた精液で粘ついているのが分かる。脂汗を流し、息切れしながらよろよろ歩いていて、不意に嗤笑が漏れた。
 気色悪いのは、どっちのほうだか。
 里菜と糸山の絆が気色悪いなんて、俺がよく言ったものだ。気色悪いのは俺だ。男なのに男に抱かれて、男なのに生理ナプキンをつけて、男なのに──
 こんなに汚れて、情けないのは俺のほうではないか。
 恐怖にこわばっていた肌をなだめる、涼しい風が流れる。どこかの夕飯の匂いがした。
 公園沿いの道路に影が伸びて、それを頼りなく目でたどる。そうしてみて、ふと、背後からの影が俺の影に並んでいるのに気づいた。とっさにびくっと振り返った俺は、思いがけず、目を見開いてしまう。
 そこには、すでに私服になっている糸山が、変わらない無機質な目で立っていた。
 俺と目がぶつかった糸山は、味気ない目つきのままこちらに足を踏み出してきた。俺はその場をとっとと離れようとしたが、走ろうとして腹がぎゅっと軋んでしまい、その場に座りこんでしまった。
 痛い。くそっ。せめて中出しされてなければ。尻からこぽこぽと精液が垂れていくのも分かった。そうしてぐずぐずしているうちに、糸山がかたわらにやってきた。
 俺は舌打ちして、「笑えよ」と吐き捨てた。
「どうせ見たんだろっ。勝手に笑えよ」
 腹が音を立てて痛む。立つこともできない。糸山は何も言わなかったが、急に腰をかがめると俺の肩を担ごうとした。突き放そうとしたものの、不快感がつらくて動けない。
「ほっとけよ……っ」
 半分泣いているような声で言っても、糸山は俺を介抱して立ち上がらせた。押し退けて抵抗する力が出ない。ほとんど糸山に引きずられて、俺はその場に面していた公園のベンチに連れていかれた。
 座っても呼吸が乱れていて、両手で下腹を抑えてしまう。糸山は俺の正面に突っ立っていたが、黙って隣に腰を下ろした。俺は上体を折って、トイレで下痢して出したほうが楽かもしれないとも思ったが、何とか痛みが引くのを待った。
「とうさんの親友なんだよ、あの人」
 腹の具合にいらいらして、気を紛らわせたくて俺は捨て鉢にそんなこと言っていた。
「うち共働きなんだけどさ、ガキの頃から。家に俺ひとりにするのは心配とか可哀想とか言って、両親があの人を家に呼んでおくんだ。だから、昔からなんだよ。よく分かってねえガキの頃から、俺はいつもあの人の性欲のはけ口だ。ヒくだろ。男なのに、男にやられてるとかさ。でも、あの人のせいで人に好かれるのも怖くなっちまった。里菜だってそうだ。俺に告白なんかしやがって。怖いんだよ。やめてくれよ。だから俺は里菜に嫌われないと不安であんなことやってるんだ。笑うよな……笑っていいよ」
 糸山は俺を見てから、背中をさすってきた。俺は笑ってしまう。笑ったら、一緒に泣きそうになってしまう。
「何だよ。俺のこと殺したいとか思ってるくせに。事情知ったら同情かよ」
 それでも、糸山の手が俺の昂ぶった恐怖をなだめていく。俺は深呼吸してから、糸山に横目をくれる。
「お前さ、マジで里菜とつきあってんの?」
 糸山は俺の瞳を正視して、首を横に振った。俺は目を伏せて、「そうか」とまた首を垂らす。
 変だ。なぜほっとしているのだろう。どのみち、きっと里菜はもう俺でなく糸山に惹かれている。あんなことをされてまで俺を想っていたら、ただのバカだ。そうだよな、と喉の奥で嗤って、抑えていた腹をさする。
「いつか、里菜に『ごめん』って言えんのかな……」
 糸山は無言で俺の背中を安んじていて、ようやく身を起こせた俺は、大きく息を吐いた。
 腹痛に必死になっているあいだに、すっかり暗くなっていた。月が澄み渡るほど、空気も肌寒い。もう虫の声もなく、静かだ。
 なだめる手を引いた糸山を見て、俺は「里菜のそばにいてやってくれ」と言った。糸山は俺をじっと見て答えない。ほんとしゃべんねえ奴、と俺はかすかに咲って、飲みこむような黒の空を見上げると、まだ少しこいつにそばにいてもらおうと思った。

第五章へ

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