逃げ出すために
毎朝空気が凍りついて、あっという間に十二月は半ばを過ぎた。あと一週間足らずで、冬休みだ。学校に来れなくなる。でも、俺を家にひとりにするのは両親はまだ認めない。もう中学生だと言っても、まだ中学生だと返される。
ずっと朋春さんと一緒だと思うと、じわじわと恐怖と嫌悪が喉を絞めつけてきた。その息苦しさが名残る中、登校してマフラーをほどいて席に着き、ホームルームまでぼんやりとしていた。
冬休みのあいだは里菜たちとも話ができねえなあ、とか思っていると、ふと教室がざわめいた。
ん、と顔を上げてみて俺も目を見開いてしまう。そこでは、三週間近くすがたを見せていなかった藤香が教室に踏みこんできていた。
「どうしてたの?」
「大丈夫?」
そんな声をかけられながら、藤香は教室を見まわして俺のすがたを見つけた。目が合った感じで、どうやら呼ばれていると感じて俺は席を立つ。
クラスメイトに今月の席を教えてもらって、そこに荷物を置いてから、藤香は教壇の脇に来た俺に駆け寄ってきた。
「早原とは、最後に少し話したい」
そう言われて、「最後?」と俺は歩き出した彼女の隣を追いかける。藤香はうなずいて俺を見上げると、「あたし、転校するんだ」と言った。
「え……はっ? 何で?」
「兄貴の療養で田舎に行くの」
「療養」
「そう。もう何年も部屋に引きこもってる兄貴」
廊下では、朝の挨拶が飛び交っている。それを縫って、俺たちは教室から離れていく。
「うちの両親って、その兄貴にかかりっきりでさ。あたしはけっこうほったらかしにされて育ったの。家では、誰もあたしのこと気にしてくれなくてさ」
階段の手前で立ち止まり、藤香は朝陽があふれる窓に背中を預ける。俺は人の往来をよけながらそれと向かい合う。
「早原とあいつのことイジメてたのも、ただ、家の中みたいに人に無視されたくなかっただけ。ひどいことをすればするほど、むしろ早原だけはあたしを見てくれるかなとも思ってた」
「……そうか」
「でも、分かってたんだ。早原が執着してるのは、あいつなんだよね。あたしじゃないんだ。あの最後に学校来てた日に、それを思い知って、学校も居場所じゃないって怖くなって。来れなくなったんだけど」
藤香はうつむいて、流れたロングヘアの跳ねる毛先が陽光に透ける。
「あたしは別に部屋に引きこもらなくて、リビングとかには出てた。だから、両親はやっぱり大して心配してくれなくて。何かもう、嫌じゃん。そんなにあたしのことどうでもいいのかって。だったら死んでもいいよねと思って、メンヘラだけど、手首とか切っちゃってさ。それで、一週間くらい入院もしてた。でも、それでやっと親もあたしのこと少しは考えたみたいで、自分たちだけじゃ解決できないと思って。田舎のおじいちゃんたちに相談したら、あたしも兄貴もこっちでゆっくりさせたらって言ってくれたらしいんだ」
「それで、療養」
「うん。あたしが田舎とかって思うかもしれないけど、けっこう好きなんだよね。近所の親戚の中に、いとことかはとことか友達もいるし」
「そう、か。よかったじゃん」
藤香は咲ってうなずき、「だから、ちゃんと応援もする」と言った。
「え」
「早原とあいつ。里菜」
「お、応援って、」
「あんたさ、里菜のこと、どう考えても好きなんじゃん」
「はっ?」
「前は普通にそうとう嫌ってんなと思ってたけど、あの日必死に『里菜は悪くない』とかかばってて、何か分かったわ」
「おっ、俺は、……そんな」
「元はと言えば、里菜もあんたに告ったんでしょ? はい、両想いー」
「待てよ、俺は──」
「ねえ早原」
「な、何だよ」
「あたしは、これくらいしかできないの。里菜にさ。だから、あんたたちのこと応援させてよ」
「藤香……」
「あたしだって、ちょっとは悔しいんだよ。でも、何というか……早原には里菜だなって、やっぱ感じるんだよね」
俺は藤香を見つめた。藤香は俺の横っ面を軽くはたき、「幸せにしてやりなっ」と言って教室に引き返していった。
俺は突っ立って、好き、と思った。里菜が好き。俺は里菜のことが好き。言われて初めて、里菜といて感じた発熱や息苦しさがよぎった。
そうか。俺は里菜に恋をしていたのだ。いつからなのかはよく分からない。けれど、話すようになった今なら、素直にすとんと認められる。
だって、里菜が咲ってくれるのがあんなに嬉しい。
藤香はその日、クラスメイトに挨拶だけすると、終業式を待たずにまた学校に来なくなった。それでも、数日後に『あんまり無理すんなよ』とメッセージを送ると、『早原は頑張れよ』と返ってきたから、連絡は続けてくれるらしい。放課後、教室でつくえにスマホを伏せて、俺は頬杖をついた。
頑張れ。何を頑張るのかはさすがに分かる。
だから俺は、今日の放課後は、教室に残ってほしいと里菜に伝えておいた。クラスメイトが帰っていく中で、里菜は約束通り残ってくれている。
俺たちが手を出さなくなったのを感じ取ったクラスメイトに、里菜は「またね」とか「さよなら」とか声をかけられている。それを見守っていると、やがて教室には俺と里菜のふたりきりになった。
俺は席を立って、里菜の席のかたわらまで行った。里菜は俺を見上げて、「何かあったの?」と愁眉を見せる。俺は里菜の隣の席に勝手に座った。
「『何か』って」
「おうち、というか──」
「まあ、冬休みどうしようって感じだな」
「いるの?」
「ああ」
「……そっか。ご両親が分かってくれるといいのにね」
「里菜の母親は?」
「うちもあんまり変わらない」
「………、一緒に、誰かに相談してみようか」
「えっ」
「誰かって誰って感じだけど。学校だと……保健室とか、カウンセラーもいるよな。担任は頼りにならないな、俺のやってたこと気づけなかったくらいだし」
「早原くん、話すのつらくない?」
「楽しくはないだろうけど、このまま一生あの人につきまとわれるほうが怖い。学校に来たことあるし、あの家を出ても、ひとり暮らしの部屋とかで待ち伏せするんだろうし」
「そう、だよね。早原くんは、早く誰かに助けてもらったほうがいいよ。私は──おかあさんが、逮捕とかされちゃうの?」
「分かんねえけど、保護くらいはしてもらえるんじゃね」
「……保護」
「母親と離れたくない?」
「分かん、ない。前は離れたくなかった。私がいい子にしてればいいなら、おかあさんも落ち着いてるからそうしようって思ってた。でも、私といるとおかあさんはかえって病んじゃうのかなって思うときもある」
俺はうつむいた里菜を見つめた。「寂しい?」と訊くと、里菜はあやふやに咲った。
「やっぱり、私がいるのが悪いのかなあ」
「里菜のせいじゃないだろ」
「でも、私のこと生まなかったらおかあさんは自由だっ──」
俺は身を乗り出して、里菜の唇を唇でふさいだ。里菜の肩が揺れて、その肩に手を置いて、俺は顔を離すと小さく息を吐く。
「お前が生まれてなかったら、俺は今でもひとりだった」
「早原、くん──」
「お前じゃなかったら、俺はいまだにイジメなんか続けてた。お前が俺のこと嫌いにならなくて、話聞いてくれて、そばにいてくれるようになったから、俺は助けられたんだ」
間近の里菜の瞳が、濡れてゆらゆらしている。俺はそこに映る自分が少し恥ずかしくても、じっと見つめてから、ゆっくり里菜を抱き寄せた。体温や鼓動が伝わってしまうと思ったけど、腕の中に招くと里菜は予想以上にかぼそくて、離したくないと思った。
「里菜のことが、好きだよ」
里菜が俺の学ランをつかむ。
「俺にはそんな資格はないのかもしれないけど、それでも里菜が優しいから、好きになっちまったよ」
初めて、誰かのことを「好き」だと思った。そして今、初めて「好き」だと人に伝えた。「好き」という感情が忌まわしくて、幼い頃に両親に言ったりしたことさえない。でも、里菜はそれを乗り越えて、俺に「好き」という想いの本当の温もりを教えてくれた。
「俺も里菜のこと助けたい。大人だったらそんな家から連れ出すけど、まだそれができないから。いつかそうしたいけど、今は誰か大人の力を借りるしかない」
「……私、」
「俺がそばにいる。母親のぶんまで、俺が里菜のそばにいるから。だから、生まれなかったらとか思うなら、母親のそばにいるのはやめてほしいんだ」
「早原くん、は?」
「え」
「早原くんも、ご両親に話すとかして、その人を離れてくれる?」
「うん。……ごめん、そっち先にしないと気持ち悪いよな」
「そうじゃなくてっ。その、……ひとりは……」
ぱた、と俺の学ランに雫が落ちる。どんどん水滴が落ちて、染みが広がっていく。
「ひとりは、もう……嫌だよお……っ」
里菜は俺の胸にしがみついて、一気に泣き出した。俺は里菜を抱きしめて、「俺もひとりは嫌だ」と目をつぶってささやく。
「だから里菜と一緒にいる。これからはずっと。それで、俺たちをひとりにした大人から逃げよう。ふたりで、逃げよう」
里菜は何度もうなずいて、俺の胸を湿らせていく。俺は里菜の頭に手を置いて、不器用に撫でてみた。髪がさらさらと指を流れる。
この頭を踏みつけたり、蹴たくったり、俺は本当に最低だった。この女の子は、ただ俺を好きになっただけなのに。
すごく遅くなったけど、俺は言わなきゃいけない。俺を好きだと言ってくれた。俺に恋をしてくれた。それが俺はすごく嬉しい。
だから里菜。
ありがとう。
俺を好きになってくれて、本当にありがとう。
【第九章へ】
