レモン水【1】
狂ったような猛暑と体育の授業のあとだった。こんな日に水筒を忘れてしまった僕に、司は教室でペットボトルをさしだした。
「水分摂らないと、今日はマジで倒れるぞ」
「でも」とか言う僕に司はペットボトルを押しつける。もうそれほど冷えていなくても、熱い肌には心地よい。仕方なくおずおずと受け取った僕は、ゆっくり、ペットボトルに口をつけた。乾いていた喉に、澄み切った香りの味が染みこむ。
ふと、司が僕の名前を唇からこぼす。どきんとしてその唇を見てしまう。そして思う。その唇も、この味がしているのだろうか──
「南、おはようっ」
十月も半ばにさしかかり、蒸し焼きにされる残暑もやわらぐ日が現れてきた。朝陽の射しこむキッチンに立つ僕の背中に、一番初めに威勢よく声をかけるのはいつも授だ。
エプロンをつけて朝食の支度をする僕は、柔らかい匂いの味噌を溶かす手を止め、「おはよう」と振り返る。黒い短髪、わりと童顔、でも筋肉はしっかりした授は、ランニングすがたでタオルを首にかけて、リビングのドアからこちらを覗いている。
「今から?」
「おうっ。朝飯がっつりよろしく」
「はいはい。その格好、もう寒くない?」
「走ってたら汗かくくらいですよ。っしゃ、行ってくる!」
授はばたばたと騒がしく、朝五時半からのロードワークに向かう。
中学三年生の授は陸上部のホープで、大会にもどんどん出場するちょっとした有名人だ。短距離も長距離も好きみたいだけど、実績があるのは短距離で、よく賞状をもらって帰ってくる。息子同然の子だけど、すごいよなあ、なんて感心して焜炉に向き直る。
わかめと大根の味噌汁を仕上げて、焼き鮭の具合を見つつ、たまご焼きを作りはじめる。男五人暮らしだから、五本作ってもいいのだろうけど、さすがに疲れるので三本を分ける。冷蔵庫を開くと、きゅうりの浅漬けもあったので取り出す。「がっつりか」とつぶやき、そこは納豆かたまごを選ばせることにした。
六時半が近づいて、「おはよう」と落ち着いた声が聞こえてくる。
「おはよう、響」
起こしにいくまでもなく起きてくるのは、響だ。
かえりみると、まだパジャマの響は、リビングのソファに座って眼鏡越しに新聞の一面に目を通している。最近の学校の授業や試験は、経済やニュースからの話や出題も多いからだそうだ。
響は、授と同じ中学で同じ三年生だけど、性格や得意は真逆だ。学校きっての秀才で、試験では常に学年トップの成績を持ち帰ってくる。人に淡白で冷たい子だと見られるけど、本当は不器用で人見知りなのだと家族は知っている。黒髪に白い肌、そして華奢な軆をしていて、容姿で分かるけど、この子は僕の実の息子だ。
時刻がこのくらいになると、家の外でも物音が目覚めはじめる。鳥のさえずり、車の走音、急ぐ足音。
昨日は曇りで肌寒かったけど、この陽射しの通り、今日は少し暑いだろうとスマホで見た天気予報にはあった。確かにちょっと腕をめくってしまっていると、ごとんっ、と二階で毎度の音がした。
そのすぐあとに、何やら言い合う声が聞こえて、僕と響は目を交わす。
「わざわざ起こさなくていいっつってんだろっ」
「わざわざ起こさないと起きねえだろ、お前」
「俺が起きなくても司には何にも──」
「お前の学費をはらってんのは俺と南な」
「別に行きたくて行ってんじゃねえし」
「お前に中卒で生きていける根性はない」
「っせえなあっ。あー、はよ、南」
苦笑を噛み殺し、リビングに現れた築に「おはよう」と返す。また着替えず私服のまま寝たらしく、Tシャツとジーンズはくしゃくしゃだ。大きなあくびをして、築は「新聞とか響おっさんくせえな」とさっそく弟をいじりはじめる。
築は司の若い頃にそっくりだ。艶やかな髪質、野性的に切れ長の目、高い身長と綺麗な骨格。雰囲気は違うかもしれない。司は人望が厚くて、築はちょっと軽薄で──どちらも女の子にモテるところは同じだ。
「おはよ、南」
築を小突いた司が、ソファの脇を抜けてキッチンにやってくる。司はもうパジャマじゃなくて、ワイシャツとスラックスだ。
並んだ司を見上げると、司も僕を見下ろす。昔と変わらない、僕を映すときはとても優しくなる黒い瞳と低い声が嬉しい。
起きたときにも言い交わしたけど、「おはよう」と僕は微笑んで答える。
「今日の朝ごはん和風だから、お茶がいいかな」
「ああ。てか、このキッチンやっぱ朝はまぶしすぎるよなー」
窓を向きながらつぶやく築は、建築士をしているから、自分で設計したわけではないこの中古物件に少しだけ不満があるようだ。
「暗いよりいいよ。手元もはっきり見えるし」
電子ポットでお湯を注いだ急須から緑茶を淹れる。一番は濃すぎるから、あとで自分で作業中に飲む。二番を司のマグカップにそそいで渡すと、「サンキュ」と受け取って司は口をつけた。
司が何か飲むときは、無意識にその口元を見てしまう。その癖を司も知っている。だからまたくすりとされて、頬を染めてうつむいてしまう。
「南」
「……ん」
小さく上目遣いをした拍子に、唇を唇がかすめた。淹れたての熱がこもった唇に、肩が揺れそうになる。そして少し、司のまだ剃っていない髭がちくりとした。
キスがしたい、と思うわけではないのだけど。あんまり変わらないかもしれない。司が何か飲むと、その唇の味はどんな味だろうと思ってしまう。
そのとき、「お天気ですよーっ」と玄関から騒々しく授が帰ってきた。「うるせえ」と築が露骨に顔を顰め、響は新聞を置いてダイニングに移動してくる。ここから、この家の朝は一気に騒がしくなる。僕と司は顔を合わせ、個性豊かな子供たちとそれぞれの一日を始めることにする。
授がシャワーを浴びるあいだに、ダイニングのテーブルに朝食を並べる。響は黙って手伝ってくれる。築はリビングのソファに寝転び、スマホをいじって、かったるそうにぶつくさする。その築を、洗顔や髭剃りを済ました司がダイニングに引っ張ってくる。授は五分で汗を流すと、「腹減った!」と叫んでテーブルに着いた。僕は響にも席に着くように言い、そして、家族揃っての朝食が始まる。
「あー、もう別れたい」
頬杖をついた築が、閉じたスマホをいらいらと指先でたたきながらつぶやく。
「またか」
たまご焼きを食べる司が息をつく。授は鮭を皮も骨も気にせず食べ、響はきっちり解体している。
「疲れた。この女、メールの量がおかしい」
「何かひとつ気にいらないと捨てるよな、お前」
「気に食わないのとつきあっててもうざってえだろ」
「つきあってどのぐらいなの?」
僕が味噌汁を置いて訊くと、「十日ぐらい」とか返ってくるのがざらだ。
「少しは授見習えよ」
「筋肉バカだろ、こんなん」
「授と桃ちゃんは二年だっけ?」
「んっ?」
聞いていなかったらしい授が首をかしげるので、「確か二年くらいだよ」と響が冷静に言う。
「夏休みだったから」
「何でお前がしっかり憶えてんだよ。地味な嫉妬?」
そんな築の悪態にも、「授が初めての大会で優勝したときだったからだけど」と響は動じない。
「そっか、優勝したら告白するって僕たちに宣言してたもんね」
「あのときは、一年が記録出して騒がれたよなー。あのときから、お前と桃ちゃんは安定だよな」
「桃はかわいいからな。にいちゃんの悪趣味と違うのさ。そしてにいちゃんを選ぶ女もまた、悪趣味」
「っせえな。陸上なんて逃げ足くらいにしか使えねえ才能だろ」
「まあ、確かに、何度もこの脚には遅刻から救われてますわ」
「……ふん」
授の天然にも築の嫌味は通用しない。
【第二章へ】
