体温計【2】
「響は大学をもう決めてるからなー。ついお前まで気になる」
「え、響は高校行かずに大学行くのか」
「それ基本的には無理な」
「この家も出て、法学部で一番権威の大学に行くんだって」
「へえ。あー、弁護士か。しかし、奏は未定でまだいいけど、にいちゃん何になるのか分からん。何あの人」
「大学も適当なレベルで選んで、遊んでそうだよなー」
「築とは一度、そのへんの話したほうがいいね」
ふたりはそこのところは親として悩んでいる様子で、深いため息をついた。
「にいちゃんって、結局どういう女にするんだろ」
「さあな。あいつそろそろ検査しといたほうがよくないか?」
「でも意外と、会ってまずっていうのはないみたいだけど」
「そうなのか?」
「行きずりはやってないみたいだよ。つきあうことになったら、まあ早いけど」
「俺にはそういうの話さねえぞあいつ」
「あのさー、兄貴の下半身情報はいらん」
「あ、ごめん。でも、そういう築にびしっと言ってくれる子がいいね」
俺はボトルから麦茶をおかわりしつつ、「にいちゃんをしかると言えば」と何となくつぶやく。
「雪姉は元気にしてるかなあ」
「雪ちゃん。お盆は帰ってこなかったね」
南も気づいた様子で言って、「もし雪ちゃんとなら、安心だな」と司は笑いを噛んだ。
「築、もらってくれねえかなー」
「あのふたりはそのうちつきあうかもって、思ってたよね」
雪姉は、俺たち兄弟の幼なじみだ。ここの隣が雪姉の母方の実家で、お盆と年末年始はよく一緒に過ごした。歳は築にいちゃんのふたつ上で、今はひとり暮らしのアパートで女子大生をやっている。
ちなみに今年のお盆は、おじさんとおばさんは帰省していた。「彼氏かなあ」とか奏が言うと、「そんな悪趣味いるか」とにいちゃんは吐き捨てていた。俺たちの中でも、にいちゃんが雪姉と典型的な幼なじみだ。
「──築。授はできてることを、何であんたがしてあげられないの?」
男と暮らすことになった父親にふてくされ、家になかなか寄りつかないにいちゃんに雪姉はそう何度も諭した。
「……親が普通のお前には分かんねえよ」
真夏なのに日も暮れていた。やっと家の前に引きずってきたにいちゃんは、今度は門を通ろうとせずに雪姉にそう言った。俺は小三、にいちゃんは小五、雪姉は中一だった。
「俺は、司は南といると普通だと思うけどなー」
「わけ分かんねえこと言ってんじゃねえよ。ガキが」
「あんたがガキだし。授は司さんたちを見てたら、そう思うんだよね?」
「うん。だって、南といたら司って優しいもん。よく咲うし」
「………、」
「かあさんといた頃は、いつもいらついてた気がするな」
「やっぱり、授のほうが賢いね。あんたには、司さんのそういう変化が分からないの?」
「男と男とか、……気持ち悪いだろ」
「その固定観念のほうが気持ち悪い。本気でそう思ってる? 古臭いな」
「くさいですな」
にいちゃんは舌打ちして、やっと門を抜けた。俺は雪姉と顔を合わせ、「ありがと」とにっとしてにいちゃんを追いかけた。いつも、雪姉がこの町にいたらいいのに。そしたら、にいちゃんは本当に、雪姉とつきあっていたのではないかと思う。
ともあれ、にいちゃんを黙らせるのは雪姉が一番うまいのだ。にいちゃんが進路でだらだらしていたら、きっとそのときも怒ってくれるだろう。
俺の進路も響の進路も決まって、でも家の中はそんなに焦らずに俺たちを見守ってくれた。母子家庭の桃のところも理解を示してくれた。というか、桃のママは俺のことを気にしてくれて、「お金なら出せるんだよ」と私立も視野に入れ直すことも言ってくれたらしい。昼休み、「どうする?」と桃は首をかたむけ、「上下関係とかもあっても面倒だしなー」と俺は桃が作ってくれた弁当をかきこんだ。
ママを気にかけ、塾に行く金は抑えたい桃のために、俺は特に参考書を読みこんでいる響に声をかけた。響の志望校は、このあたりでトップクラスの進学校だ。一緒に勉強したら勝手にレベルが上がるんじゃないかと、俺は桃を家に連れてきて、ダイニングで響と一緒に勉強してもらった。俺も初めは一緒に参考書を覗いたりしていたけど、意味不明すぎて茶々を入れはじめて邪魔になるので、おとなしくリビングで自分のレベルで最低限の暗記をやったりした。
桃はママの代わりにほとんどの家事もやっているので、夕方には俺の家を出て、保育園へと妹の杏を迎えにいく。それを見送って家の中に戻ると、響はダイニングに広げた勉強道具を片づけている。
「桃が明日もよろしくって」と伝言を伝えると、「分かった」と響はうなずいた。俺はその眼鏡の奥を眺め、「よろしくでいいか?」とちょっとだけ気にする。
「え、どういう意味」
「いや、響はひとりで黙々と勉強したいよな」
「授には、確かに時野さんのサポートが一番だと思う。協力するよ」
「そっか。響も頑張れよ。弁護士」
「うん。頑張る」
「響のおかげで、司と南みたいのが増えるといいよなあ」
「そこまで叶うかは分からないけどね。僕にできることはしたい」
響はまとめた勉強道具を抱えて、「また夕食で」とリビングを横切って二階に行ってしまった。俺は夕射が明るいキッチンに見やって、腹減った、と思う。でも間食はしない。三食がっつり食って、そのぶん動いて、俺の体調の基本はそこからできあがっている。
リビングのソファに腰をおろして、しばらく教科書の英文を読んでいたけど、四文字以上の単語には必ずつまずくのですぐ投げてしまった。天井の電気を見つめていると、不意に階段を降りてくる音がした。ぱっと振り返るとやはり南で、「夕飯用意するねっ」と忘れて作業していた様子でエプロンをまとう。
さいわい、買い物に行かなくても冷蔵庫にあるもので間に合ったらしい。バターのいい匂いがしてきてメニューを訊くと、白身魚のムニエルとマカロニサラダ、コーンスープだそうだ。俺が消費するから、米もきちんと毎日炊いてもらっている。
「今日って、奏来るのか?」
食器の用意を頼まれて、ダイニングの食器棚から皿やお椀を取り出しながら訊いてみる。
「メール来てなかったから、今日は向こうじゃないかな」
「そっか。司は帰ってこれそう?」
「司の電話で、今の時間に気づいたから。築がまだ帰ってきてないよね」
「連絡ないの」
「いや、『夕食頼む』とだけメール来た」
「んじゃ、皿は五枚か」
「そうだね。ごめんね、受験生に手伝わせて」
「いえいえ」と焜炉の隣に皿を並べたりしていると、車のエンジンの音が駐車場のほうに聞こえてきた。「南が出迎えたら喜ぶだろな」と言うと、南はこちらを見て、「焦げないか見ててくれるなら」とフライパンの柄をしめす。「はいよ」と俺はフライパン返しごと受け取り、南は玄関に走っていった。
フライパンでは、五匹の白身魚がバターで香ばしくできあがっている。マカロニはもう鍋から上がって、野菜とマヨネーズにあえるだけみたいだ。優しい匂いを立ちのぼらせる黄色のコーンスープは、いつも食卓で各自の好みでクルトンを落とす。
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