体温計【3】
玄関で物音がして、あとはにいちゃんがとっとと帰ってきたら飯、と思っていたら、何やら話し声がして二階にのぼっていく足音が続いた。ん、と振り返ると、司と南がリビングに入ってくる。
「今、階段のぼる足音が」
「築だよ。司が帰り道に見かけて拾ってきたんだって」
「よしっ。じゃあもう飯? 食える感じ?」
「うん。──すぐ支度するね」
南が言うとネクタイを緩めていた司は「ああ」とうなずき、ソファに腰かける。そして俺の教科書を拾い、「響のか?」とか言っているので、俺は南に断って駆け寄る。
「俺のですよ。響はもう外国の本を英語のまま読むクラス」
「マジか。あいつの脳みそはどこから来たんだ。このくらいの文はお前も読めるのか?」
「いや読めん」
「おい受験生」
「受験を通過した司は読めるんですね」
司は教科書に目を通し、「読めなくても生きていける」と教科書を俺に押しつけて立ち上がった。
「着替えてくる。飯だって響に声かけてこい」
「了解」
そんなわけで、勉強を中断した響、スマホをいじるにいちゃん、私服に着替えた司、エプロンを外した南、そして俺で食卓に着いた。同居を始めた頃より、南の料理はうまくなった。
俺はムニエルと白飯を口を含んでもぐもぐやりながら、隣の席のにいちゃんのスマホを覗きこむ。
「何だよ」
眉間に皺を寄せてスマホを伏せたにいちゃんに、俺はごくんと口の中のものを飲みこむ。
「食事中にもスマホとか依存ですね」
「メール消してんだよ。別れても放置してたらすげえ件数になってた」
「どのみち食事中はやめろ」
司が言って、築にいちゃんはやっと仕方なさそうに箸を持つ。俺はコーンスープをすすり、「俺も高校生になったらスマホ持つの?」と蕩けたクルトンを飲みこむ。
「高校生になったらね」
「授はスマホとかいらない感じに見えるな」
「確かにあんまいらねえかなあ。直接が早いし」
「でも、遅くなるときとか連絡早めにもらえると僕は助かるな」
「じゃ、やっぱ授も響もスマホ所持の刑だ」
「高校生になっても、俺の帰りは──あー、部活でどうなるか分からんのか」
「響も塾に通うかもしれないって言ってたしね」
「お前、学校終わってまだ勉強すんのかよ」
「安心はできない高校みたいだから」
響は白身と骨を綺麗に解体している。俺は魚を食うときは、とりあえず食らいついて、気になる骨だけ吐き出す。
高校になったら響の環境も変わるといいなあ、と思う。進学校は勉強が大変で、そういうことに精を出す余裕はないと聞くけれど、やっぱりどういう場所でも「はけ口」はいる気がする。まあ、響の成績がどこに行っても抜群なのは言い切れるし、成績が物を言う進学校だからこそ、響はやっと受け入れられるかもしれない。
響は桃と二年のとき同じクラスだった。もともと、桃が俺に響のことを教えてくれたのだ。響が、司と南という親を理由に、イジメを受けていると。俺が響に確認すると、「イジメなんて言えるものでもないよ」と言われたけれど、注意すると確かに露骨な暴力はないようでも、嫌味や嫌がらせが日常的につきまとっている様子だった。俺はちょっと悩んだけど、やっぱり司と南に「響には知らないふりしてやってくれ」と言った上で事を話した。
「響はさ、将来弁護士になりたいらしいよ」
話に困惑を隠せないふたりに、俺は響が教えてくれたことも言い添えた。
「弁護士?」
「らしいといえばらしいけどな」
「司と南みたいな人たちの権利を守れる奴になりたいって」
ふたりは少し驚きを走らせた。
「あと、立派な奴になって、自分を『ホモに育てられたクズ』って言った奴を見返すんだって。だから、司も南も響を助けたいだろうけどさ。自分で戦わせたほうが、たぶん、あいつは納得するんだと思う」
「でも、やっぱり心配だよ……ね?」
「ああ。担任には──って、担任は気づいてないのか」
「桃は何も言ってなかったから、役には立ってないんじゃないですかね」
ふたりは顔を合わせた。そのとき、「僕も口挟まないほうがいいと思う」という声がした。リビングのドアを開けていたのは、まだ四年生で「僕」だった奏だった。
「奏。来てたの」
「さっき来た。僕はクラスメイトとかの話、響くんに聞いてたよ。授くんしゃべっちゃうとかー」
「だって、あれイジメですよ」
「まあね。僕もかあさんには相談した。響くん、僕にも似たこと言ってたよ。同性愛の人に育てられても、ちゃんとした奴になれるんだってことを証明するって」
司と南は目を交わした。「僕も何にもできないのつらいけどさ」と奏はドアを閉めて歩み寄ってくる。
「響くんの、南くんと司くんが大切だって気持ちなら、誰も口出しできないんじゃないかな」
だから、響がヘルプを出すまではと、司と南はそのことを響に振らないようにしている。結局、響は自分で卒業まで迎えそうだ。進路や成績が不器用なりの気持ちなら、響はよっぽど義理堅く、愛情深いのだろう。
俺はマカロニサラダを食べるにいちゃんをちらりとして、結局反抗したのってにいちゃんだけだなあ、とまたムニエルと白飯を口につめこんだ。でも、それは偏見が強かったというより、にいちゃんはかあさんと過ごしすぎたのだと思う。男と女という「両親」になじんでいたのだ。
不仲の両親だったとしても、にいちゃんにとって親とは男と女で、それが周りとも変わらない当たり前だった。男と男なんていまさら受けつけられないほど、にいちゃんはとうさんとかあさんの子供だった。にいちゃんが悪かったわけじゃないのは、みんな分かっている。
中学生になって、まずにいちゃんが司と南のことを聞いた。それから、にいちゃんはやっとふたりに理解を努めるようになった。俺と響も、中学生になって一緒に聞いたから、奏も中学生になったらすべて聞くのだろう。
司のこと。南のこと。巴さんのこと。紫という俺とにいちゃんの母親のことも。
南と巴さんは今でも仲がいい友達だし、喧嘩ばかりしていたとはいえ、俺の両親も冷めていたわけではない。お互い、相手を大切にしようと努力はしていたのだ。でも、かあさんはあの日も言っていた。司を理解できないと。気持ち悪かったとか、まして憎かったわけではない。理解できないと悟るぐらい、理解しようとしたのだ。言ってみれば、巴さんは理解した。かあさんはできなかった。司も、その理解を強いないようにした。南を避けた。けど、やっぱり心は引き裂けず、かあさんにはできない理解を強要するより、別れようと切り出した。
単純に一緒にいたいだけなら、俺の両親は離婚しなくてよかったと思う。籍は残しておくほうが、外聞的にも便利だ。でも司なりにかあさんが大事で、自由であってほしくて、利用したくなかった。南を選んだエゴで離婚したのではない。
その想いは、かあさんも分かっていたのだろう。「強いね」とかあさんは最後の日に俺に言った。「おとうさんを、そうやって分かってあげてね」と。かあさんも本当は受け入れて、離れたくなかったのだと思う。
楽しければそれでいい。俺自身はそんな平熱を生きてきたけど、俺の周りと来たら変温ばかりだ。冷えたり。温かかったり。熱かったり。でもやっぱり、みんなひとりずつ落ち着く平熱がある。この家に帰ってきたら、みんな一番優しい顔をしている。昔はこの家庭こそが変温だったけど、今はとてもやすらげる家だ。
司と南が一緒にいる。にいちゃんが自然と食卓にいる。響は自分を信じて戦っている。奏は来たら空気のように混ざる。
とても自然な温度の家庭だ。そう見ない奴が多くても、見るだけだから分からない。この家庭に触れたら、きっと誰だってこの体温に気づく。
そして、俺もいつか桃とこの家のようなの温かさの家庭を作ろう。司と南の絆は適温だ。愛情を測るとき、俺はどんなふたりより、司と南を参考にしたい。
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