カラーサークル-16

ハートのチョコレート【1】

「明日、いくつもらえると思う?」
 二月十三日、久しぶりに家の食卓で、ゆっくりと息子の奏と夕食を取っていた。具のどっさり入った鍋焼きうどんで、ぐつぐつ煮込んだ野菜が、甘い香りを立ちのぼらせている。
 うどんに半熟たまごを絡めながら、奏にそう訊くと、「分かんない」と色気のない答えが返ってきた。
「とりあえず、かあさんからひとつはもらえる」
「息子は母親のチョコを嫌がるもんだけどね」
「かあさんが選んでくるチョコおいしいからなー」
「あたしは、身内だけでも六人分も用意して大変なんだから。明日の収録は、女の子だからちょっとほっとしてる」
「誰?」
桃瀬ももせりなこちゃんの番組で、ゲストは松原まつばら恵那えなちゃん」
 あたしが芸能人と仕事するのは当たり前だから、奏も慣れたもので「ふうん」と息を吹きかけてうどんをすする。
 バレンタイン。毎年、この日はあの日を思い出す。もしあの日、彼を選んでいたら──あたしはきっと、この子にも恵まれていなくて、こんなに幸せではなかったのだろう。
「おはようございまーす」
 翌日、そんな声と楽屋を覗いてきた顔に、りなこちゃんはぱっと振り返って、「恵那ちゃんおはようっ」とどんなメイクより愛らしい笑顔で言った。りなこちゃんの仕上がりを見ていたあたしも、開いたドアを見て、「おはようございます」とその子に挨拶する。
「恵那ちゃん、久しぶり」
「あ、スタイリスト久賀さんなんだ。小物楽しみー」
「隣に用意してるよ。よし、じゃありなこちゃんは完成。──メイクよろしく」
 待機していたメイクの女の子に声をかけると、「はいっ」と元気な返事が返ってくる。
「りなこちゃん、メイクいいかな?」
「はあい。恵那ちゃん、あとで話そうね」
 うなずいた恵那ちゃんとそのマネージャーさんと一緒に、あたしは桃瀬りなこちゃんの楽屋を出る。
「今日の衣装、どんな感じ?」
「ゴシック系かな」
「えー、ドラマでそんな格好ばっかしてるよ」
「はは、今回のお嬢様ストーカーの役、おもしろいよ」
「役はおもしろいけど、あの格好でアクション多いのは大変なんだから」
「先週の二階から飛び降りて抱きつくシーンはすごかったなー」
「あれスタントじゃないんだよ? あ、ここか」
『松原恵那様』という名札を確認して、恵那ちゃんはドアを開ける。そして、そこに広がっていた黒の世界に「わあっ」と声を上げた。
「ドラマはどちらかといえばゴスロリでしょ。今回は純粋にゴシックね」
「これもらって帰るのはいいの?」
「いいけど、恵那ちゃんが着て歩いたら目立つよね。ねえ、木野きのさん」
「そうですね。私服でも、松原は街だとすぐ気づかれるようになってるので」
「恵那ちゃん変わったよねえ……。あのセーラー服が」
「久賀さんには天海あまがい監督とのときにもお世話になりましたね。あの映画の松原の私服シーン、取材でも好評だったんですよ」
「特にラストね!」
 そう言って、恵那ちゃんは黒曜石と黒リボンのチョーカーをつけている。
「同じ服探してるって手紙も来るよ」
「あれは、あえてノーブランドのコーディネイトだったから、見つからないでしょ。さて、恵那ちゃんのセンスも伺いつつ衣装決めようか」
 チョーカーに合いそうなレースのワンピースを手に取ると、恵那ちゃんは素直にそれを受け取って軆に重ね、真剣に鏡を覗きこむ。数年前まで、恵那ちゃんの仕事にはそんな面影もなかった。昔の恵那ちゃんは無礼なほど身勝手で、芸能界からも世間からも嫌われているのに消えなくて、「あの子ってゴキブリみたいだよね」──そんな陰口が絶えない子だった。
 智生ともき監督の映画に出てからだ。あたしも携わった天海智生監督の『水空』という映画。撮影中も恵那ちゃんは智生監督に懐いていて、その誰も見たことのない無邪気な笑顔には、出演陣もスタッフも驚いていた。
 そして『水空』の宣伝や取材を終えると、バラエティなどにいっさい出演しない期間が続いた。干されたといううわさも流れたけれど、ドラマや映画にはハイペースで出演していたし、演技にストイックになろうとしているのは見る人が見ればすぐ分かった。
 どういう経緯かは分からないけれど、智生監督が何かの切っかけは作ったのだと思う。
 最近の恵那ちゃんは、番宣でたまにトーク番組などに出演するようになっている。今日収録するのも、例のドラマの告知のためにりなこちゃんがホストを務める深夜番組だ。ふたりはプライベートでも親友だから、まだ昔ほどの露出はなくても、恵那ちゃんサイドもオファーを受けたのだろう。
 今日の恵那ちゃんのイメージは、大人になったお嬢様だ。黒い衣装と白い素肌で見立てていく。革のヘッドドレス、姫袖のブラウス、ブロークンレースのスカート、薄手のニーソックス、ピンヒールのブーツ。鎖骨、手、太腿、覗くところは白く。恵那ちゃんは綺麗なストレートの黒髪だから、本物のお人形さんみたいになってくれる。途中でメイクを終えたりなこちゃんが来て、「すごい!」と声を上げた。一緒に来たメイクの子には、ルージュを赤にすることだけ指定して、あとは任せる。
 ──昔から、洋服が好きだった。選ぶのも。見るのも。着るのも。
 あたしの時代では小学校はまず私服だけど、アルバムを見るといつも妙な、変わった格好をしている。和服のような日。全身ボーターの日。古着の日。ロリータっぽい日。パンクな日。ワンポイントだけの日。そして、そんな格好のあたしの隣には、大切な友達であるふたりも必ず写っている。
「水瀬くんって、美由くんとつきあってるのかなあ」
 三十年前になる。小学生に上がったばかり、むしろ同性愛なんて知識がなかったくらいの頃、友達がそんなことをもらしてきた。
 あたしは司と幼稚園が同じで、司は同じクラスになった南とずいぶんと打ち解けて、南は人見知りするけど司の幼なじみのあたしには心を開いていた。放課後、三人で帰ったりもする。
 そういうときのふたりを思い返して、あたしは何の疑いもなく友達に返した。
「あのふたりは、結婚すると思うなー」
 友達が泣きそうな顔になったのを憶えている。司か南、どちらかが気になっているのかとやっと気づいた。
「……巴ちゃん、もう友達じゃない」
「え」
「男の子同士で結婚するとか、気持ち悪いこと言うもん」
「気持ち悪いって、だって──」
「ばいばい。もう話しかけないでね」
 一方的にあたしを拒絶して、その子はあたしの席を離れていった。
 何なのだ。つきあってるわけないじゃん、と言えばよかったのか。でも、近くで司と南を見ていたら、そんなお世辞は言えない。南を特別扱いする司。司を見つめてはにかむ南。結婚するだろ、とやっぱり思う。
 男同士では結ばれない、とはっきり知ったのは小学三年生の性教育だった気がする。その年、あたしは南と同じクラスだったから、思わずその表情を盗み見てしまった。顔を伏せた南の顔は分からなかったけど、くせっぽい前髪は震えていた。
 次の休みに時間に限って司が来なかったから、あたしは南の元に行った。「気にしなくていいよ」と言うと、南は椅子から立たないままあたしを見上げた。
「学校で習うことなんか、役に立たないんだから。男と女とは決まってない」
「巴……」
「親友じゃなくていいんだよ」
 南は頬を染めてうつむき、「気づいてたんだ」と言った。あたしは咲って、南の目の高さにしゃがむ。
「司と南は、ほかの相手、考えられないもん」
「でもね、テレビとか見てると、やっぱり、おかしいんだよね」
「おかしくないよ。ああいうのは、笑ってる奴らがおかしいの」
「………、司は、僕のこと考えてくれるのかな。僕みたいに、想ってくれるのかな」
「どうでもよかったら、あんな目はしないと思う」
「目?」
「うん。南を見るときの司の目は優しい」
 南はあたしを見て、潤んだ目は力なく咲った。「ほんとだよ」と念を押しても、南に自信の火は灯らなかった。

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