水面で【1】
何か、もう、疲れた。そう思ってあきらめて、手離して、ぼんやりと水面でゆらゆらしているうちに、こんなに時間が経ってしまった。私は何年、あの子たちに会っていない? あの人に……会っていない?
『また今度、お茶しよう』
『ちょっと用事があって』と電話を切ろうとした巴は、私がスマホを離す前にそう言った。きっと社交辞令。いつもそう思う。でも、私とあの子たちのあいだには巴しか残っていない。だから、つい甘えて「空いてる日メールする」とか約束じみたことを言ってしまう。すると巴は、たいてい自分はどの日が空いているかを言ってくれる。実際、私が巴に合わせるほうがたやすい。
『じゃあ、週末明けのお昼ね』
「うん。楽しみにしてる」
これで、たぶん、築と授の話も聞ける。今日はバレンタインだ。“用事”があのふたりの家に行くことなのは、何となく察している。
通話を切ってスマホを充電器に差すと、私はベッドに仰向けになった。いいなあ、と思う。築に会える。授に会える。司にも、会えるのだ。
もう、南くんとうまくいっているのだろう。その事情はおとうさんには伏せていても、おかあさんには打ち明けてしまった。「離婚してよかったんだよ」とおかあさんは言った。
「結婚して子供たちまで作っておきながらねえ……そういう人に偏見はなかったつもりだけど、あんたは騙されたのと変わらない。軽蔑してしまうよ」
私はうつむいて、「うん」と答えた。確かに、私は司に利用されたのだろう。南くんが倒れた日、司は朝まで帰ってこなくて、司の職場から電話がかかってきた。私はまだ事情が分かっていなくて、司の上司に謝っていた。昼過ぎに帰宅した司は、ついに私に切り出した──
「別れて、くれないか」
あれから七年経つ。好きとか愛してるとか、そういう気持ちはもちろんない。でも、私を支えているのはどうしても司への執着だ。司に出会えなかったよりいい。築と授を生めたからいい。そんな気持ちを揺らめいて、何とか毎日を沈みこまず、せめて水面に浮かぶことで生き延びている。
巴は強い。私も巴みたいに割り切れたら、いい友人として司のそばにいられて。築と授と音信不通になることもなかった。けれど、やはり冷静に司と南くんを見れないと思う。
「南が忘れられない」
一瞬、司のその言葉の意味が分からなかった。
「どうしても、忘れられないんだ。お前で忘れようとした。築と授で忘れたつもりだった。でも、やっぱり俺が愛してるのは南なんだ」
「何……言ってるの? 南って、あの南くん?」
「……ああ」
「え……え? だって、友達──」
「つきあってた」
「えっ」
「中学のときから、つきあってたんだ。でも、大学で、想像以上に男同士なんて……ありえなかったから。俺がお前に逃げた」
司には、本当の好きな人がいる。私だって女だ。それには感づいていないこともなかった。でも、まさか、それが──男同士?
「ひどい態度ばっか取ってきてごめん。南以外の奴に、優しくなんてできなかった。俺は南じゃないとダメなんだ」
何か言おうとしたけど、まともに声なんか出せない。呼吸すら引き攣っていた。
結婚して、何て横柄な人なんだろうと思っていた。高校時代、見ていたときは優しい人だと思っていたのに、実際つきあいが続くと、何だかいつもいらいらしていて、私が忌ま忌ましいかのような目さえ刺してきた。ぜんぜん優しい人ではないじゃない。驚きと同時に、そうがっかりしていた。
違うの?
私が南くんじゃないから、あんなに邪慳だったの?
「わ……私、のこと……」
やっと、そんな痙攣のような声がもれた。
「何だと、思ってるの……っ」
堰が決壊して、涙も言葉もどっと溢れてくる。
「ふざけないで、私のことバカにしてるの!? 私の気持ちを……人の気持ちを、どうしてそんなふうにあつかえるの? だったら初めからほっといてよ、『やっぱりつきあってほしい』なんて、よく言えたわね!? 私を利用するなら、私が死ぬまでほんとのことは言わないでよ、突き通せないなら嘘なんかつかないでよ! いまさら何だっていうの。結局そんな……忘れられないなんて言い出すなら、逃げなきゃいいじゃないっ。何でそんな、自分勝手なこと言い出せるの!?」
司は何も言わなかった。ちらりと私を見たけど、さすがに正当化のたわごとまでは言わなかった。私はほとんど判断力のないまま、「嫌よ」と言っていた。司は私をもう一度見た。
「別れない。別れられるわけないでしょ、そんな理由! 私を利用することにしたなら、最後まで利用しなさいよ」
「そんなの、お前が──」
「私が幸せじゃないとか言うの? もうとっくに最悪の気分よ、これ以上みじめにさせないで。そんなに何でもあなたに都合よくいくわけないのよ!」
「………、今ならまだ間に合う。お前はお前で幸せになれるよ」
「そんなのっ、」
「いつまでも一緒に、不愉快に浸かってるわけにはいかないだろっ。そんなの無意味だ、よっぽとみじめになる」
司は私の脇をすりぬけて、「今から会社に行く」とスーツの揃った和室に行ってしまった。私は撃たれたガラス細工のように砕けて座りこんで泣き出した。
司の心は私にはない。分かっていたつもりだった。相手が同性だったことなんてどうだっていい。ただ、自分があまりにも軽率にあつかわれていたことが心を引き裂いた。
逃げた。忘れるため。カモフラージュ。
私には傷がつく心がないとでもこの人は思っているの? あなたが強く執着する「感情」が、私にだって、あるのに……
「すごいんだ、かあさん! あの南って人、とうさんを咲わせてたんだよ」
司は容赦なく私との距離を広げていった。南くんを築と授に会わせたりもした。南くんに会って帰ってきて、四歳の授は嬉しそうに目をきらきらさせてそんな報告してきた。
「とうさんが咲ってるとか気持ち悪いだろ」
不機嫌そうに言った六歳の築は、私の隣に座ると「俺はかあさんが咲ってるほうがいい」と覗きこんでくる。
「最近、あんまり咲わないし」
「……ごめんね」
「俺はとうさんとかより、かあさんの味方だから。大丈夫だよ、どうせ男と男じゃ結婚とかはできないよ」
「そう、だね」
「とうさん、南って人と暮らしたいって言ってたよ」
授の言葉に小さく私は息を飲み、「暮らせるわけないだろ」と築が一蹴する。
「どっちでも、俺はついていかないし」
「俺はどうしようかなー」
「何で迷うんだよ。男と男で暮らすのに混ざってたら、お前もオカマになるぞ」
「そうなの?」
授は私に首をかたむけた。私はどう答えたらいいのか、視線を伏せた。築が私の手をつかむ。そのとき、駐車場に車を停めてきた司も帰ってきた。
「……ただいま」
咲って、いた? この人が? そんな冷ややかな目と声をしたこの人が、咲っていたというの?
ああ、ダメなんだ。そうだ、司の言う通りだ。このまま意固地に離婚しなくて、どうなるっていうの。まず幸せになれることはない。司を許せないんじゃない。司だけ幸せになるのが許せないだけだ。そんな醜い感情だけでつなぎとめて、何が私のためになるの?
「親権のことだけど」
その夜、築と授が寝てしまうと、リビングで司は乾いた口調で切り出してきた。
「お前が働けるなら、あいつら本人の意思で決めていいと思うんだ」
唇を噛んだ。司と学生結婚したから、私はバイトもしたことがないどころか、育児で中退して大卒すら持っていない。司もそれは分かっていて、「じゃあ」とあっさり言った。
【第二十章へ】
