レモン水【2】
そんな朝食が終わると、みんな家の中をばたばたしはじめる。僕は着替えを出してもらって洗濯を始める。全自動ボタンでしばらく洗濯機が放置になると、食器を洗って乾燥にかける。そして、朝練の授、時刻を守る響、面倒そうな築の順に登校するのを見送る。
「じゃ、俺も行ってくる」
司は毎日、市内まで車で通勤している。一方、僕は運転免許を持っていても、家を出ることはあんまりない。
「今日も遅くなりそう?」
「今回、クライアントの要望が細かいからな」
「そっか。遅くなるときはメールして」
「電話は?」
「電話でもいいけど」
「疲れてたら、たぶん南の声聴きたい」
司を見上げてまばたくと、腕を引かれて、ぎゅっと甘えるように抱きしめられた。司の温かい心臓が鼓膜に伝わってくる。名前を呼ばれて顔を上げると、じっと見つめられて、それだけで力が吸い取られそうになる。
「司……」
「なるべく、早めに帰ってくるよ」
「うん」
「待つの嫌かもしれないけど、一緒に夕飯食いたい」
「待ってるよ。嫌じゃない」
司は微笑んで僕の髪を撫でると、軆を離して革靴を履いた。「いってらっしゃい」と僕が言うと、「いってきます」と司は手を掲げ、ドアを開けて舞いこんだ朝の光の中へと出かけていく。
少したたずんで司の心配をしてしまったけれど、家の中に引き返すと気分を切り替えて掃除を始める。洗濯も済んで、時間がゆったりしてくる十時頃に家事を終えると、やっと二階の仕事場に入って作業を開始する。
僕の仕事は絵を描くことだ。画家と言うほどではないけど、イラストレーターほど不安定でもない。僕の絵を気に入る作家の表紙、広告に使われるイメージカット、このあいだまでは描き下ろしのカレンダー作業が大変だった。今年は定期雑誌の表紙が毎月の締め切りとしてやってきて、それに必死だ。一年間の担当で、今、ラストの十二月の表紙の構図に悩んでいる。
アシスタントはいなくて、この部屋に出入りするのは僕と司だけだ。僕の作業が遅くに及ぶと、司は一緒に起きて待っていてくれる。日中がこんなに時間があるのに夜にも描いているときは、ほとんどスランプのときだ。浮かばなくて描けない。頭の中と手先の線や色が一致しない。たまに本気で泣きそうになると、司は僕の隣に来て胸の中に抱き寄せてくれる。そのあいだ、僕は麻薬を摂取するように司にしがみついて、すべて忘れる。
ポインセチアを使おうと赤っぽいイメージは湧いても、そこから頭は進まない。こんなふうに、司のいない日中にスランプになるときもある。
仕方ない。引き出しを開けて煙草を吸う。
司が隣にいないと、僕は本当に弱い。ひとりでは何にもできなくなる。あのときも、司を失ってしまったと絶望していた。気が紛れるならと煙草もお酒も覚えた。さすがに本当の麻薬にまでは手は伸ばさなかったけど、それだってやっぱり、巴がいてくれたからだ。
鉛筆を投げて、紫煙を燻らしながら空中の陽射しを眺める。僕の煙草もお酒も司は知っている。「もう南のそばにいるから」と司は言う。司はつきあい以外で飲まないし、煙草は苦手なくらいだ。
「そういうのは、できればやめてくれ」
うなずけたことがない。司を監禁でもしない限り、依存じみたこの常習をやめられるなんてありえない。
僕と同じくらい、司も弱かった。せっかく想いが通じたと思ったのに、逃げたのは司だった。高校を卒業して、圧倒的に同性愛なんて理解されなくて、このままでは社会に出られないと、司はまた女の人とつきあうようになった。そして子供ができて──それが築になる。その人と司は結婚して、僕たちは何年も離れた。
そのあいだに、僕の精神はどんどん崩れていった。あの頃、もし目の前にドラッグが落ちていたらやっていたと思う。自殺だって、何度しようと思っただろう? 僕をそういう危険から救っていたのは巴だった。
巴は僕と司を小学生のときから知っている女友達だ。僕と一度結婚して、子供をふたり生んでくれたけど、それも愛情でなく友情だったと思う。
巴は、僕と司が結ばれることを誰より望んでくれた。僕がついに入院することになり、司を病院に呼んだ。司がさすがにお見舞いに来てくれたことで、僕たちは再会して──数年かかって、僕と司は現在の同居に至ることができた。
灰皿に灰を落とし、スマホを手に取った。表紙担当さんからの着信と、何通かメールが来ている。奏のフォルダにもサインがついていたので、まずそれをチェックする。
『おはよー、南くん。
母さんが今夜はそっちに泊まりなさいって言ってた。
だから俺のぶんの夕飯もお願いしとくね。
母さんから連絡いってないときのためのメールでしたー。』
心配通り、巴からの連絡は来ていない。仕事が大変なのだろう。
奏は響の実の弟で、僕と巴のふたりめの子供だ。妊娠が打ち明けられたとき、僕は退院して司の元に戻ろうとしていた。さすがにこのタイミングで別れたらひどいと思ったのだけど、巴は「あたしが代わりに南たちの子供を妊娠したと思えばいいじゃない」と離婚を引き下げずに僕たちの復縁を尊重してくれた。
息子たちは僕と司で育てることにしていたけど、まだ赤ん坊の奏だけ、生まれてすぐ母親の肌から引き離すよりはと巴に引き取ってもらった。代わりに、巴が多忙なときや自分の時間が欲しいとき、いつでも奏にとってこの家が第二の家庭であるようにと三人で約束した。
巴の仕事は、順調なぶん、かなりいそがしいみたいだ。それだけ奏はこの家にいることが多い。ほかの兄弟との仲もいい。僕と司の仲も理解してくれている。偏見してきた同級生と喧嘩したこともあり、何だか巴に似てきたと感じる。
そういえば、去年のクリスマスは切り株のケーキが奏に好評だった。茶色だけだと地味だけど、ポインセチアをうまく合わせれば暖色の温かい絵になる。煙草をつぶしてまた鉛筆を手にした。そして、しばらくやっとつかんだイメージをたぐって、切り株の上でパーティをする妖精たちの下絵を仕上げることができた。
それをFAXで編集部に送って、回答待ちのあいだに夕食の買い物に行くことにした。時刻は十四時半をまわっていた。お昼ごはん忘れてた、と思いながらスマホを開くと、すでにいくつかの着信がある。
チェックしながら仕事場を出て、巴の着信があることに気づいた。そんなに時間が経っていなかったので、一階に降りながら折り返しで通話ボタンを押す。
『あ、南?』
「巴。電話くれたのにごめん」
『ううん、仕事中だったよね。メールでもよかったけど、話しておきたいことあったから』
「何かあった?」
『年末年始あたり、日本離れることになりそう』
「え、仕事?」
『南の島での撮影に同行だよ』
「いいなあ。写真いっぱい撮ってきて」
『はいはい。で、奏のこといいかな? ずいぶん預けちゃうから、金欠なら資金は渡す』
「大丈夫。でも、描き下ろしのカレンダーが売れたら助かるな」
『はは、宣伝しとく』
そんなことを話しながらキッチンに来た僕は、冷蔵庫を開けて昼食代わりの小腹を満たすものを探す。食パンにスライスチーズとロースハムを乗せ、軽くトースターにかける。
『今日は今日で、映画で泊まりこみなんだよね。ほんとまともに休みがないよ』
「奏からメール来てたよ。夕飯よろしくって」
『えっ、あたしから連絡してなかったっけ』
「もらってないと思う」
『うわやばい、あたしボケてきた……?』
「巴はたまに、ボケてるくらいがいいよ」
ふんわりとただようパンとチーズの匂いがしてきた頃、トースターがベルを鳴らして、僕は断ってそれを食べながらしばらく巴と雑談した。『司はどう?』と訊かれて、「司もいそがしそう」と口の中の蕩けたチーズを飲みこむ。
「でも、仲良くやってるよ」
『そっか。よかった。奏がね、「南くんと司くんって喧嘩しないの?」とか訊いてくるんだよ』
「はは、喧嘩は昔でもう懲りたな」
『うまくいってるなら一番だね。──あ、衣装変えるみたい。じゃ、またいろいろよろしく。連絡もするね』
「分かった。頑張って」
電話を耳から離すと、通話を切る。
その二十秒後くらいに電話が鳴って──表紙担当さんだ。キャッチ来てなかったよな、とちょっと慌てて出ると、あの絵でOKと指示が出た。よかった、とほっとするヒマもなく、今度はペンを入れて色もつける作業をすることになる。
まあ、その作業は夜に手をつけよう。今は夕食の献立を考えてスーパーに向かわなくてはならない。
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