カラーサークル-20

水面で【2】

「俺が引き取ることになるけど、いいか?」
「……無理よ」
「え?」
「どうせ、もう……全部、無理。分かったわ。離婚すればいいんでしょ。あの子たちも引き取ればいいじゃない。私は──」
「まだ二十五だろ。出逢いがあるよ」
「出逢ってどうなるの? また都合悪くなったら捨てられるんでしょ?」
「………、」
「二度と恋愛も結婚もしないわ。そんなの、……怖くて、できない」
 司は黙りこんだけど、めずらしく席を立たなかった。私のほうが、やるせない涙がこみあげて、リビングを出て二階の子供部屋に走った。暗闇の中で、築も授もよく眠っていた。
 司。築。授。この家庭もこの結婚も。全部失くすんだ。あんな男を信じた私がバカだった。すべて偽りだった。一瞬すら、私は愛されてなどいなかった──
「紫。朝だよ」
 ふとそんな声がして、うめいてまぶたを上げた。いつのまにか、眠っていたみたいだ。昨夜、巴と電話をして、司たちのことを考えていて──無意識にふとんをかぶって、その暖かさで寝てしまった。
 全部、夢か。……いや、全部現実だけど。ここは出戻りした実家で、カーテンを開けて部屋に朝陽を呼びこんだのもおかあさんだ。
「今日はバイトあるの?」
「……ない。資格持った子が入ったから、クビかもしれない」
「あんたも何か勉強したら」
「資格にもお金がいる。……はあ。死にたい」
「そんなこと言わないの。ほら、朝ごはんできてるからね」
 おかあさんは部屋を出ていって、私はふとんを引っ張って膝に顔を伏せた。今のバイトは事務職だ。ただでさえ、あまりパソコンに詳しくなくて作業が遅くて、先輩に迷惑をかけているのに。絶対あの子を後釜にしてクビだ、と頭痛を感じながらベッドを降りた。
 おとうさんは出勤していて、私はテレビを見ながらぼんやり朝食を取った。朝、起きると勝手に朝ごはんができているのは助かる。築は私のオムライスが好きだったなあ、とぼんやり思い返す。授は好き嫌いなく何でも食べてくれた。
 司は、私と子供たちを遮絶しているわけではない。連絡を取れば、会わせてくれると思う。でも、築と授に今の私を知られたくない。立派に自立したり、誰かと結婚したり、立ち直っているのなら、気持ちも切り替えて会えるのかもしれない。
 私はまだ、過去を彷徨っている。情けなく司のことを考えて、憐憫に浸かって、変わる努力もしないで。司と別れて、劣化するばかりだ。会えるわけがない。あんなに泣いた築のことさえ「やっぱり私が引き取る」と言えなかった。「この子のためなら頑張る」と言えなかった。
 築を想うと、今でも心が痛む。あの子は最後まで私の味方でいてくれた。私が言えないことも言ってくれた。司に引き取ってもらうと告げたときの、血の気が引くショックを受けた表情が忘れられない。
「何で? 俺はかあさんと暮らす!」
 築は、もちろんそう反論を訴えた。司は私に財力がないなんて言わず、ただ「かあさんにも事情があるんだ」と言った。
「事情なんて、そんなんとうさんにしかないだろっ。かあさんは何にも悪くないのに、何でひとりになるのがかあさんなんだよ。とうさんはあの男と暮らすなら、俺たちなんかいらないだろ」
 司は息をつくと、「授もそう思うか」と訊いた。授は首をかしげ、「俺たちいらないというか」と司を見る。
「邪魔じゃないの? 南って人とやっと一緒に暮らせるって言ってたのに」
「俺と南はお前たちと暮らしたいと思ってるよ」
「じゃ、俺はとうさんもかあさんも好きだから、選ばなきゃいけないよりいいや」
「そうか」と司は苦笑して、「築」とふてくされる築に目を戻す。
「俺は嫌だ。とうさんとは暮らしたくない」
「あのな、」
「あの男となんか、もっと一緒に暮らしたくない」
 私は、何も言えなかった。そこまで言うなら、私が引き取る。そう言えばよかったのかもしれない。司も私がそう言い出してもおかしくないと分かっていたようだった。でも私は黙りこんでいた。
 責任の自信がなかった。きっと、生きていくこと自体やっとになる。そこでさらに子供を養うなんて、私には──
「おひとりですか?」
 巴との約束の日、いつも会っている母校の最寄り駅の地下のファミレスに入ると、ウェイトレスが笑顔で駆け寄ってきた。「待ち合わせなんですけど」と店内を見まわすと、禁煙席の壁際で何か食べている巴のすがたがあった。
「巴」
 そこに歩み寄った私に呼ばれて顔を上げた巴は、「あ、ごめん」とパスタを食べる手を止める。私はその正面に腰をおろして、続いて先ほどのウェイトレスがお水とメニューを置いていった。
「早く着いたんで、先にお昼食べちゃおうと思って。紫はいつもデザートだけだから」
「めずらしいね。巴がばたばたしてないのって」
「いや、してるよ。一時間くらいしか時間取れないけど、いいかな。夜にはドラマの撮りがあるの。準備入らないと」
「そっか。いいよ、もちろん」
 メニューを開いた私は、考えてから、通りかかったウェイトレスにアップルパイを注文した。「そうだ」と濃厚な香りのカルボナーラを飲みこんた巴は、隣のバッグを漁って箱を差し出してくる。受け取ると、外国のお菓子みたいだった。
「こないだ、撮影が海外だったんだよね。空港で買ったもので悪いけど」
「ううん。ありがとう」
「南とかは現地の写真が一番喜ぶんだけどね」
 そう咲って、カルボナーラをフォークに巻きつける。巴は南くんの元妻だ。子供もふたりいて、下の子は引き取って育てている。司と知り合ったのも、巴を通じてだった。
 司は南くんと中学時代からつきあっていて。巴はそれ以前からふたりを応援していたらしい。私がその関係をかきまわした。だから、巴は本当は私なんか嫌いなんじゃないかなと不安になるときがある。けれど、私と司の離婚の理由を知った上で話を聞いてくれるのは、おかあさん以外では巴しかいない。事情を話せないほかの友達は友達で、育児やパートを理由に私を離れてしまった。
 私も巴みたいに強かったらいいのに。次の恋もまともな仕事も、ちゃんとできれば──いまさら、子供たちを育てることはできないのは分かっている。でも、会うことぐらいなら叶うかもしれない。それでも私は、ぼんやり過ごして何の努力もしない。
「先週──」
「ん」
「あ、先週、いきなり電話してごめんね」
「いいよ、別に。いつでもかけてきて。こっちこそ、出れないときあってごめん」
「ううん。今でもこうやって会ってくれるだけで、嬉しい」
「あたしもたまには友達との時間欲しいからいいよ」
 そう言って微笑む巴は、私と同い年なのに若々しい。仕事柄もあるのかもしれないけれど、ピンクや白や赤、服も明るい色が多い。逆に私は、昔から紫や黒や紺といった暗色が多い。
 司と結婚していたときは、紫の服をよく来ていた。名前も“紫”と書くし、築の中で私のイメージカラーが紫らしかった。一緒に買い物に行って、お菓子コーナーを通ったりしてはぐれると、築は私を紫の服を目印に探していた。
 巴を見た。聞かずに帰ったら、きっと後悔する。未練がましいと思われても、やっぱり気になる。
「巴」
「うん」
「先週電話したとき、今から用事があるって言ってたでしょ」
「ん、ああ、うん」
「行ったんだよ、ね。バレンタインだったし」
「そう。うちの子から催促来てたし」
「下の子のほう?」
「そう。いつまで母親にチョコねだってくれるんだかね」
 巴は苦笑してフォークを口に含む。私はしばらく口ごもってから、「ほかの子は会った?」と言う。巴は私を見てから、「うん」と率直にうなずいた。

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