痣【3】
「雪とかにさんざん言われてさ、頭では分かってたんだ。司と南は一緒にいるんだろうなって」
雪さんはお隣の夫婦のお孫さんで、築にいさんのふたつ年上の幼なじみだ。雪さんは南と司をまっすぐに見て、この家庭を理解してくれている。
「でも、俺だけはかあさんを忘れないんだって、司たちを認めるのが嫌だった。かあさんを忘れたと思われるのは嫌だって。分からねえって奴はそうなんじゃねえか。ホモを偏見してないと思われることが怖いんだろうよ」
「偏見するのがまだ常識だからね」
「ああ。ま、そんな常識もそのうち変わっていくだろ。時間かかるだろうから、お前の環境も今んとこしょうがねえけど。環境に流されんなよ」
「分かってる。にいさんも、自分をさらけだせる女の子に出逢えるといいね」
にいさんは僕の頭を小突くと、部屋に行ってしまった。にいさんなりに、理解しなかったあの時期を、南と司に対して申し訳ないと思っている。
同時に、どうしてもおかあさんを離れがたかった。にいさんも僕くらい不器用なのだ。授はにいさんは母性を求めて女の子をたらしていると言っている。それが合っているのをにいさんも分かっている。おかあさんのように愛せる女の子に、南と司を理解してもらって、にいさんは初めて安心して南と司を心から受け入れるのだろう。
一階に降りると、時野さんが勉強を始めていた。遅くなったのを詫びると時野さんは首を振る。授は最初だけは教科書を見ていても、すぐふらふらとリビングに離脱してしまう。仕事場で作業していた南が夕食の支度で降りてきて、「少しは勉強しておかないと焦るよ」とソファに転がる授にあきれて息をついた。うめきながら戻ってきた授は、「思ったんだけど」と時野さんの隣に腰をおろす。
「響、振ったのですか」
「は?」
「振ったから、告白ではなかったと」
「いや、ほんとに相談されただけだよ」
「桃はどう思う?」
「んー、だって、すごく必死に美由くん探してたよねー」
「ねー。あれは今日こそは告るという気迫」
「じゃあ……そう思っておいていいけど。志井さんには迷惑かけないでね、悩んでるんだから」
「そう言われると俺たちが腹黒」
「美由くんに実は告白したいって子、多そうだけどなー」
時野さんはそう言って、授もうなずいて、僕は苦笑するしかない。そんな子がいるかどうかは、僕には分からない。いたとしても、僕は興味が湧かないだろう。今の僕は、何より勉強して夢を叶えることだ。
その日は、奏は訪ねてこなかった。かあさんが家にいるのだろう。かあさんが帰宅する日は、奏は隣町にある家で過ごす。南と司が同居を始めるまでは、もちろん僕はかあさんとも暮らしていた。司と離れて気力のなかった南を支えつつ、いそがしく働いている人だった。僕のこともかわいがってくれたけど、この家に暮らしはじめたのが僕が三歳になった頃だから、鮮明な記憶はないのが正直なところだ。
もちろんその後も会っているし、「かあさん」と呼ぶのだけど、何だかあんまり実感がない。やっぱり、僕の親は南と司という感覚で、かあさんは近い親戚のような感じだ。
幼い僕に南は言った。自分には、おかあさんより好きな人がいるんだと。おかあさんも大切だけど、一緒にいたいのは司という人で──
「響のこと、司に会わせたいな。すごく優しくてびっくりするよ。きっと……響のことも、かわいがってくれる」
そのあと、南はアルコール中毒で倒れた。司が病院に駆けつけて、僕は初めて司に会った。泣き出したかあさんが看護師さんに連れていかれると、司は僕を抱き上げた。南の華奢な腕と違って、たくましい腕をしていた。「ごめんな」と司は涙を浮かべながら僕に言った。
「お前のとうさんに、俺は本当にひどいことをした。こんなことなら、せめて友達でいるくらいすればよかったのに。でも友達はつらかったんだ」
「おとうさんは、司のおじちゃんは優しいって言ってた。僕に会ってほしいって。だから、僕は司のおじちゃんに会えて嬉しいよ。おとうさんも、同じだよ」
司は僕を抱きしめた。ここが僕の父親が愛した居場所なのだと、よく分かった。病室で南は眠っていた。僕をベッドサイドにおろして、司は南の髪に触れた。その手つきで、この人が言われていた通り、とても優しいのが分かった。
その日から、僕は南と司の絆を信じてきた。どんな冷たい眼に踏まれても。どんな心ない言葉に殴られても。どんな醜い嫌悪に蹴られても。
「今日、クラスの女の子と話したよ」
時野さんが帰り、司は遅くなるということで、夕食は築にいさん、授、僕の三人で取った。南はいつも司と食べる。食後の片づけを手伝って、残り物にラップをかけながら僕は南にそう言った。食器を洗う南は、「女の子の友達?」と少しくすりと笑う。
「友達、かは分からないけど。また話すと思う」
「響から話しかけたの?」
「向こうから。好きな人のこと相談された」
ここからでは、リビングでゲームをしている授には聞こえないだろうけど、それでも声を抑えておく。「好きな人」と南はまばたきした。
「好きな女の子がいるんだって」
「女の子。あれ、じゃあ──」
「うん。だから、僕に相談したみたい。偏見しないと思ったからって」
「そっ、か。相手は友達とか?」
「話したことないって言ってた。友達でもいいから、とかはつらいって。そういうものなのかな」
「友達でもいい、って僕は思ったよ。司は、ずいぶん僕を突き放してくれたから」
僕は南を見上げる。「そんな顔しなくていいよ」と南は咲う。
「冗談。まあ、友達でもいいからそばにいさせてほしいとは思ったな」
「司は、友達はつらいって言ってた気がする」
「うん。実際『友達にしておこう』なんてなってたら、僕と司はもう一緒にいなかっただろうね。僕も司と友達なんてつらいんだよ。でも、それ以上に失った絶望感のほうが強かった」
「その子の好きな人には、彼氏もいるって。失恋でいいって言ってた」
「そうなんだ。彼氏がいるなら割りこめないよね。奪うって言っちゃう人もいるけど」
「南は、司以外って考えたことある?」
「え。いや、ないかな」
「その子は、いつか誰かとつきあいたいって言ってた。それで、相手は女の子だと思うって。何か、南と司はそんな感じしないね」
「そう、だね。男同士でつきあってきてるけど、ゲイかって言われたら分からないんだよね。司以外は、男も女も考えられない。僕たちは同性愛とはちょっと違うのかもしれないね」
「でも、すごくパートナーなんだなって思うよ」
「ありがと。それは僕も思う。その子にも、そういう相手ができるといいね」
僕はうなずいた。「響にも」と言われて、それは何だか気恥ずかしくて笑ってごまかした。
やがて司が帰宅すると、南と司はふたりで食事を始めた。南と司が一緒に過ごしているのが僕は好きだ。あの光景を守りたいと思う。守れるような力を持った大人になりたいと思う。
ホモに育てられた奴なんか。その言葉が、僕の心に痣として染みついている。鈍く疼いて、赤紫の血だまりになっている。この痛みが理不尽だけど、理不尽だから絶対に治してみせる。
南と司の愛情に包まれているから、僕はきっとしっかり夢を叶えられる。そして、志井さんのような子たちが、せめて自分の気持ちを殺さなくていいようにしていきたい。
僕にどれだけできるか分からないけど、絆を持ったふたりが、自然に寄り添い合えるようにする。それがこの痣をつけた奴らを見返し、僕が南と司に伝えられる、ふたりに育ててもらえた感謝の気持ちだ。
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