双葉の頃から【1】
七歳の冬だった。おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くと、空き家だった隣の家に、暮らし始めている人たちがいた。
子供はいるのか、まずそれに興味津々で玄関を覗きにいってみると、ちょうど家の人たちが出てきて、あたしは門のところでどきんと突っ立った。
「あ、こんにちは」
子供は男が三人いて、女の子はいないようだった。が、そんなことより目に留まったのは、そうあたしに声をかけた物柔らかそうな男の人と、その隣の野性的にかっこいい男の人が──
こんにちは、と返したのかどうか憶えていない。ただ、その夜の食卓で祖父母と両親に、どうしても疑問だったので訊いていた。
「隣の人たち、男の人と男の人で手をつないでたよ」
両親は変な顔で目を交わした。でも、おじいちゃんは大きな声で笑って、おばあちゃんは「あのおふたりさんは仲良しだからねえ」と微笑んだ。「どういうこと」と両親は何やら突っ込んでいたけど、ふうん、とあたしはそれで納得した。ちょっと頭の堅い両親より、おじいちゃんとおばあちゃんのの自由な感覚のほうがあたしは好きだったから、お隣のあのふたりは、そういう関係なのだろうとあっさり飲みこんだ。
次の日、あたしはまたお隣の玄関先まで行って、躊躇ったあとチャイムを鳴らした。出てきたのは、昨日の野性的な男の人のほうの面影のある男の子だった。
「……あんた、何?」
ひねくれた口調と眼つきをしていた。それが、司さんと南さんの仲を絶対に認めようとしなかった頃の、築だった。
──スマホがアラームを鳴らしている。十七時だ。あたしはふとんを頭をかぶったまま、充電器に差したままのスマホを手繰り寄せた。メールは七通、うち三通は迷惑メール。大学の友達からも、メールが来ている。
『いい加減、講義出ないと留年だよー。』
ため息がもれる。
大学は入試に合格して入学さえすれば、あとは卒論以外楽だ。……なんて、誰が言い出したのだろう。講義。レポート。試験。まったく、遊ぶヒマもない。
何だかどんどん面倒になった頃から、あたしは大学なんか放り出してバイトをふらつき、現在はラウンジのホステスをやっている。無論、親には真面目に大学に行っていることにしている。
十二月の下旬に入った。お盆は帰省できなかった。あいつらどうしてるかなあ、とあたしはふとんの中で仰向けになる。築。授。響。奏。久々に会いたいし、年始はお店も三箇日のみ休みだから、帰ろうかなあと思っている。
まあ、とりあえず今は出勤だ。暖房をケチる部屋は寒いけど、何とかふとんを出て、まずシャワーを浴びた。肌を滑るお湯の熱が染みこんで、何とか軆が動くぐらいにほてってくる。バスタオル一枚で下着と服を選び、水気を取ってから、オフホワイトのニットのミニワンピースすがたになる。
黒髪のショートボブを乾かし、化粧水、乳液、ファンデーションを仕上げて、チークやアイシャドウを入れていく。今日は全体的にブルーでまとめた。スマホに客からのメールはあっても、今日は同伴を入れていないから、ママに文句を言われるだろう。バッグには頭痛薬も入れておく。それらしいすがたになると、スカイブルーのピンヒールで部屋を出た。
あたしの働く店がある歓楽街は、ほぼ中心に駅があるから、そこまで電車に揺られる。混んだ車内では、足元に暖房がただよっている。
扉の脇に立つあたしは、客にひと通り営業メールを打つと、すっかり暗く落ちた窓を眺めた。そこにちらほらと光が現れ、派手なネオンサインの景色になってくると目的の駅だ。
「おはようございまーす」
そう言いながら薄暗い店に踏みこむと、適当にいくつか返事が返ってくる。コートやバッグをロッカーに預けてからタイムカードを切っていると、「雪美ちゃん」とカウンターにいた黒服のチーフが声をかけてきた。
三十路手前の彼は、女の子たちにママより信頼されていて、彼自身それをよく分かっている。頼られて相談されるまま、手も出しているみたいだ。こういう世界では、そんな安っぽいドラマみたいな話が普通にまかりとおる。
「何ですか」
「いや、今日はママが機嫌悪そうだったからさ。同伴してこなかった子にはきついかも。気をつけて」
「分かりました」
歳を感じさせない無邪気な笑みを見せたチーフに、悪気はないんだろうなあとか思いながら、あたしは女の子しかいない店内で待機に入る。
あたしはまだ十九歳で、この店で働きはじめて半年も経っていない。だから女の子はほとんどがお姐さんだ。そんなお姐さんたちが取り合っているにも等しいチーフと、あたしは関係なんて持っていない。
興味もない。もともとあたしは、軽々しい関係が好きじゃない。それでよく、水商売なんか始めたものだと思うけど。
たぶん司さんと南さんだな、と思う。あのふたりの真摯な絆をあたしは尊敬している。家と故郷はぜんぜん近くなんかなくて、ふたりのことはお盆とお正月に見るだけだったけど、すごく好きだった。
お盆は、交通費がもったいなくて両親にさえ会わなかった。でも、今はさいわいこの仕事でお金にはゆとりがある。やっぱり、お正月は両親の故郷に帰ろう。会いたい。あの野郎ばっかりの家族に会いたい。
年末はクリスマスをやり過ごせば、忘年会のおつきあいがいそがしいぐらいで何とかなる。大晦日までしっかり仕事に出て、手渡しでお給料をもらって午前三時に帰宅すると、そのまま寝ずに身なりをオフにして、帰省の支度を始めた。
気温がどんどん下がっていくけど、準備で部屋をうろうろしていたら体温までは落ちなかった。途中、ソースが香ばしいインスタントの焼きそばで腹ごしらえもする。隣の部屋も寝ずにテレビを見ているみたいだった。
荷造りが終わる頃には始発の時刻で、実家には寄らずに母方の故郷に直接向かう。両親は先に帰省しているらしかった。
まだ夜明け前で、息が凍って真っ白に舞う。電車は初詣の乗客がけっこう多かったけど、市内の駅から特急に移ると混雑はなかった。まあ普通は今頃初詣かこたつだからね、とあたしは初日の出を横目に、おかあさんのスマホに今向かっているとメールを送っておいた。
おじいちゃんとおばあちゃんの町に着いたのは、午前九時頃だった。雪がちらついていた。感覚のない指でおかあさんにひと言電話して、久しぶりだ、とうろ憶えの道をたどる。
町の匂いが懐かしい。横断歩道を渡って、住宅地を進んで、見憶えのある家並みになると足が速くなる。ついに目的の家を見つけて、とりあえずお雑煮であったまろう、と荷物を持ち直したときだった。
「雪?」
そんな低い声に呼ばれて、足を止めて振り返った。冷たすぎる風が抜けて、髪を舞い上げる。
「何だ、帰ってきたのかよ」
「あけましておめでとう。こんな時間にお散歩?」
「彼女が初詣行きたいって言うから、行ってきただけ」
「“今の”彼女ね」
「るせえんだよ」
黙っていれば、司さんにそっくりで美形なのに。顰めっ面でこちらに歩み寄ってきたのは、築だった。マフラーとダッフルコートで防寒していても、すらりとしているのが長身で分かる。あたしに並ぶと、見下ろしてくるようになったから少しムカつく。
「お前は失恋でもしたのか」
「何でよ」
「どうせ、夏帰ってこなかったのは男だろ」
「どうでしょうね」
金がなかったなんて死んでも言いたくないだけだったけど、「マジかよ」と築は眇目になる。
「物好きな野郎だな。あ、でも振ったから正常か」
「あたしが振ったのよ」
適当なことを言って、あたしは家へと歩き出した。築も何となく隣を並行する。
【第二十九章へ】
