レモン水【3】
スーパーをうろうろして、今夜はビーフシチューにすることに決めた。具材とルーと、メインに添えるサラダやスープの材料も買いこんで帰宅する。
まだ誰も帰宅していない。司は遅くなるんだろうなと今朝の様子から思う。電話いつ鳴ってもいいようにしておこう、とマナーを解除すると夕食の支度に取りかかる。
「ただいまーっ!」
日が暮れるのも早くなってきた十八時前に、朝と同じ威勢のいい声が聞こえてくる。現れたのは、白い開襟シャツと黒いスラックスの授だ。
「おかえり」とビーフシチューを煮込みながら、サラダに使うパスタを湯がく僕は振り向く。
「あー、腹も減った。何でうちの中学って給食かなあ」
「最近めずらしいよね、給食」
「なー。桃がたまに弁当作ってきてくれるけどさー」
授は荷物を床におろし、ソファに引っくり返るように座る。
「あ、風呂誰か使ってる?」
「ううん。湯船浸かりたかったらお湯張っていいよ」
「そうしよっかなー。飯まだできてないよな。つかすげーいい匂いだな」
「ビーフシチュー。まだ時間かかるから、お風呂行っておいで」
「だなっ。よし、一番風呂は俺だ」
授は立ち上がって荷物を持ち上げ、いったん二階へとのぼっていった。
そして、次は響が帰宅してくる。「ただいま」とすがたを見せた響は、もう夏服でなく冬服の学ランを着ている。「おかえり」と僕は微笑み、「ちょっと遅かったね」と言い添える。
「借りてくるより、もう読み終わりそうな本があったから」
「小説?」
「うん。受験の気分転換に。いつも翻訳だけど、原文で読んでみた」
「すごい。僕は原文読むなんてかえって疲れそう」
「原文のほうが、話も表現もしっくり来るよ」
響とそんなことを話していて、そろそろ奏も来るかなと思っていたら、築が先に帰宅した。何やら電話中のままだ。おそらく、朝に別れたいと言っていた女の子だろう。
ほんと司そっくりに育つなあと思う。司は昔、これでもかと女の子をたらしていた。僕への想いを否定するためだった。小学生の頃は、逆に今みたいな雰囲気の、親密すぎる親友だった。司と似ているといっても、築の女ったらしはそういう理由ではないけれど。曰く、「合う奴なら俺だって長続きする」──見初められた子を見たことはなくても、本音だろうと思う。
「もう切るぜ。家だし。──かけてくんな。じゃあなっ」
肩をすくめて二階に行く響をすれちがって、築は電話を切って舌打ちした。「よかったの?」と声をかけると、「泣き出す女ってマジでうぜえ」と築はかばんを放って制服のままソファに転がる。
「巴さんとか、いい女だよなー」
「巴? 相手にするかなあ」
「されねえよ。分かってんだけどな。俺がしっかりしてたら、もっとマシな女が寄ってくるって」
「いつのまにかしっかりするよ。今はまだ十七歳なんだから」
「そうか? 筋肉バカだけど、授は頼れるよな。だから女も続くんだろうし」
「本人に丁重に伝えておきます」
「絶対言うな」と築が軽く身を起こして言ったとき、「ほほう」とまだ声変わりのしない声がおもしろそうに笑った。ぱっと起き上がった築が「クソガキがっ」と顔を顰める。「聞いちゃったー!」と楽しそうに声を上げた奏が、ランドセルを背負ったすがたでリビングに飛びこんでくる。
「授くんは頼れる! 授くんは頼れるって築くんが言いましたー!」
「でけえ声で言うなっ。マジ殺すぞ」
「奏、いつのまに帰ってきたの?」
「築くんと一緒の電車だったんだ。帰り道、築くん電話楽しそうだったから、後ろでしばらく見てた」
「ああっ? 俺のどこが楽しそうだったんだよっ」
「うわ怖いー、南くーん」
ソファを避けてダイニングを抜けた奏は、キッチンに来て僕に隠れる。このふたりはいつもこうで、思わずため息をついてしまう。
夕食ができあがった頃、築は部屋に行っていて、風呂上がりで私服に着替えた授に、奏はさっそく築の発言を話そうとしていた。一応僕が止めておいた。「奏の声がしたから」と響も降りてきて、子供たちにはもう夕食を始めてもらおうと築を呼びにいこうとしたとき、僕のスマホが鳴った。
『南か?』
もちろん聞こえてきたのは司の声で、その声で遅くなるのがもう分かった。朝、ぎゅっとされたときの感覚がよみがえる。
「大丈夫?」
『ああ。俺が勝手に疲れてるだけだしな』
「あんまり、無理しないでね」
こういうとき、気をきかせて築を呼びにいったりしてくれるのは響だ。僕はリビングを抜けて、奥の浴室の洗面台まで歩く。
『でも、ほんとのことは、……言ったら仕事に差し支えるから』
白い洗面台に視線を下げる。司の職場である事務所は、僕とのことを知っていて、それでも司を雇い続けてくれている。司がそれだけ社員として優秀であったおかげでも、それでも、お客さんや外部にはもれないようにと釘を刺されている。
「ほんとのことは、言わなくていいと思うよ」
『……ほんとは、南をすっげえ自慢したい。それが一番つらい。俺にはこんなに大事な奴がいるんだって』
「司……」
『なのに、何で「そんな相手いませんから」なんて言ってんだろって、哀しくなるんだ』
唇を噛む。司の表情が声音で分かる。すぐ頭を撫でてあげたいのに、電話なのがもどかしい。
「僕が、聞くよ」
『え』
「今夜、僕も仕事で遅くまで起きてなきゃいけないし。どうせ司、休まずにそばにいてくれるんでしょ。僕が描いてるあいだ、言いたいこと話して」
『南本人に?』
「ダメ? 僕は聞きたい」
司が少しだけ笑ったのが聞こえた。そして、『分かった』という言葉が続く。
『そのまま、ベッドで徹夜になるかもしれないぞ』
「……もう徹夜なんて歳じゃないよ」
『俺は本気で言ってる。あ、悪い、呼ばれてる』
「頑張って」
『ああ。ありがとな、南』
僕が何か答える前に、電話は急いで切れてしまった。徹夜、と思うと、ちょっとだけ軆の芯が甘く疼く。本当に、そんなことをしていたら昼間に寝落ちしてしまう。でも、確かにあんまり司に想いを語られたら、僕のほうだって我慢できなくなるかもしれない。
ダイニングでは、いつのまにか子供たちが揃って食事を始めている。僕は壁にもたれて、暗がりの中で洗面台の鏡を見つめる。
そっと自分の唇に触れてみる。今朝、司が伝えた唇の熱が思い返る。あの日も、こうして鏡を見つめて唇に触れてみた。
この気持ちを自覚すらしていなかった。司の隣で、どうしても身長を追い抜けず、少し下から司を見上げる。夏。体育。僕に貸したペットボトルに司が口をつけた。それを見て思った。
今、司の唇もこのレモンの味がしてるのかな。
忘れられずに、帰宅して鏡を覗いて唇を指でたどった。あの日のレモン水の瑞々しい味と香りを、いまだにはっきり覚えている。
いろんなことがあった。二度と会える日もないのだろうと絶望したこともあった。でも、あの頃のように、司は僕のそばにいる。いつも、帰ってきてくれる。
鏡の中から現実に戻る。子供たちが騒がしく、でも楽しそうに僕の料理と談笑している。
その様子を今夜、ふたりで夕食を取りながら司に話そう。そして、とても幸せだと伝えよう。きっと司は同じ味の唇を重ねて、優しく微笑みかけてくれる。
僕だけの司。こんなにも大切な、僕を心から甘く溶かして温めてくれる人。
きっと司も同じ気持ちだ。あの日のレモン水のように、今、僕と司はこの気持ちを分かちあっている。
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