カラーサークル-33

紫は白に【3】

 家に着いて玄関を開けると、ちょうどスーツの司とエプロンの南がいた。ただいま、と言う前に「どこの新婚だよ」と言うと、「新婚だって」と司は南ににやりとして、南は頬を染めてエプロンを脱いだ。
「つか築、お前、朝帰りかよ。ホテル代につぎこむなら、小遣い減らすぞ」
「ゴムが必ずあるとこのほうが、堕ろす金よりマシだろ」
「ったく。じゃあ南、いってきます」
「あ、うん。いってらっしゃい」
 司は南の手を引いて、前のめった南に軽くキスをする。俺は息をついて、スニーカーを脱ぐといつも通りのふたりは好きにさせてリビングに入る。
「げっ、にいちゃん帰ってきた」
 俺の顔を見るなり、ダイニングで朝食らしきオムレツを食べていた授が声を上げる。「だから言ったのに」と響は肩をすくめてスープを飲んでいて、「築くん朝帰りー」と茶化してくる奏もいる。
「『げっ』って何だよ」
「いや、まあ、これから作ってもらえるんじゃないですかね」
「わけ分かんねえんだよ」
「授くんは築くんは帰ってこないだろうと、築くんのぶんのオムレツを食べ──」
「こら奏っ。これは俺のオムレツで、南ができたてがいいだろうとまだ作ってないんですよっ」
「……どっちがガセだ、響」
「授だね」
 クールに言い放った響に、「響!」と授は声を上げて俺は舌打ちする。
「筋肉バカについに知恵がついたか? お前の女に手え出すぞ」
「にいさんほんとにやりそう」
「いや、築くん絶対やるよね」
「犯罪だしっ。犯罪にしかならないしっ」
「てめえの中でな」
「いや犯罪です! 桃が俺以外とかないからね。つまりにいちゃんが無理やりっ……」
「うわ、築くんひどい」
「朝からこんな話やめない?」
「ほんとにやりそうとか煽ったのお前だろうが」
「にいさんの下半身がだらしないのは事実だから」
「かわいくねえな。俺を『おにいちゃん』呼びしたがったくせに」
 言いながら、俺は授の隣の空席に腰をおろし、オムレツだけでなくサラダやトーストを食われていることに眉を寄せる。「おにいちゃん」と奏は正面の響を見やり、「あれなー」と授は平然とケチャップが鮮やかなオムレツを平らげる。
「にいちゃんがおっさんに悪戯されたいって雪姉が言ってた」
「……え」
「はっ?」
 瞬時に響が眉を顰めたり、奏が声を引っくり返したりするので、「ざけんなっ」と俺はとりあえず授の後頭部をはたいた。
「誘拐されたら悪戯されるかもしれねえって、あいつが脅してきただけだ」
「築くん、誘拐されたの?」
「されてねえよ」
「そういえば、あのときは、にいさんがめずらしく僕に話しかけてきて、謝ってきたけど……」
「何でもねえっつの。雪がお節介焼いただけなんだよ」
 そう言いながら、俺はテーブルの真ん中の籠の中の食パンを取って、手近にあったいちごジャムを乗せて食った。そこでエプロンを腕に下げた南が戻ってきて、「あれ」と俺の食っているものに首をかしげる。
「それ焼けてないね。トーストいらなかった?」
「授が食った。オムレツもサラダも」
「そうなの?」
「オムレツじゃなくてオムライスだったら、ボリューム的に防げたのですが」
「仕方ないな。築、今から作るから少し待って」
 南はエプロンを身につけ直してキッチンに立つ。「よかったねー」と奏はもぐもぐと口を動かしながら言って、食べ終わった響は食器を重ねてキッチンに持っていき、「サラダ作るよ」とフライパンにバターを引く南に声をかける。「何でお前じゃなくてあいつが作るんだよ」と俺に睨まれると、「分からん」と授は真顔で答えてごくごくと牛乳を飲んだ。
 まったく、よくそんな空っぽの頭で高校に行けるものだ。授は部活の推薦で高校が決まった。秀才の響は、このあたりでトップの進学校に合格した。たぶんその成績は首席だったのではないかと思う。同い年で一緒に育ったようなものなのに、ずいぶんと正反対のふたりだ。
 南が俺の朝食を用意した頃には、授と奏はゲームで対戦を始めていた。「どうぞ」と言うと正面に腰をおろした南は、よく見ると自分も朝食の途中だったらしい。隣の司の朝食は綺麗に食べられていて、響がそれをシンクへと回収していった。
「築って、彼女とはこないだ別れたんじゃなかったっけ? 新しい子?」
 ドレッシングのかかったレタスにフォークを刺して、南はそんな問いを投げてくる。
「まあ、一応新しいけど」
「一応」
「もう別れたい」
 南はため息をついてレタスを口に含んだ。俺はほかほかと匂い立つオムレツの中身が、とろりと半熟なのを確かめる。
「築のサイクルはすごいよね。というか、よくそんなにいろんな女の子が続く」
「他校に待機組みたいのもいるしな」
「告白して振られるってない?」
「振りそうな女は狙わないしな」
「本命が欲しいんでしょ。言うこと聞きそうな子ばっかり選んでても、埒があかないよ」
「まあ、そうなんだけど」
「司が病気の心配してたけど、ほんとそういうのも気をつけてね」
「俺は自分からゴムつけろとは言うぜ。俺から女に口を使うってのもないしな」
「……はあ」
「口は女にさせるな」
 言いながらうなずいて、オムレツを口に運ぶ。バターの塩味とたまごの甘味がふわっと広がる。
「南って、料理うまくなったよな」
「ん、そうかな。ありがと」
「昔は朝のたまごはスクランブルエッグしか作れなかったよな」
「それまで、大した料理したことなかったからね」
「……まあ、その頃あんま食べてやんなかったけど」
 俺の言葉に南は咲って、「今は食べてくれるからいいんだよ」と柔らかく言った。
「朝帰りもほどほどにね。築がいないと、やっぱり朝食も元気ないんだから」
「そうなのか」
「そうだよ。みんな揃って、ちゃんとした朝なんだ」
 南は優しく微笑み、「授も、築がいないのが物足りないから怒らせてくるんだよ」と言い添える。そんなもんかね、とまだ小学生の奏と本気でゲームに夢中になる授を一瞥する。それからすぐに南は朝食を食べ終わって、響とキッチンに立って片づけを始めた。
 俺も朝食を胃に片づけると、回収は響に任せて部屋に行った。あくびがもれる。終わったら熟睡したかったのに、あの女がずっと話しかけてきて、よく眠れなかった。メールするとか言ってたな、とおろしたショルダーバッグからスマホを取り出してみて、さっそく着信があったことに舌打ちが出る。
 ベッドに倒れると、正月のことが思い返った。去年の盆、雪はここに帰省してこなかった。大学生になっていそがしいらしいということだった。
 雪の私生活なんて、もともとよく分からないのだけど。夏と冬にここに来るのは必ずだったから、それをすっぽかされると、よほどのことがあったのではないかと思った。よほど、ここがどうでもよくなる──男ができたとか。
 俺はうめいてまくらに顔を伏せる。中一で司と南を理解して、中二で雪を意識して。それまでのように、別れ際に何となく雪に甘えることは我慢していた。でも、今年の正月は寝起きに雪がいたせいで、半分寝ぼけていた度胸でその軆を抱きしめてしまった。
 柔らかかった。いい匂いがした。日の暮れた明かりのついていない暗がりだったけど、首筋がなめらかだったのは気づかれないように頬を寄せたから分かった。俺なりに低い声で大人ぶってみたのに、お年玉なんか握らされて相手にされなかった。
 ……ああ、でも。くそ。もっと強引になればよかったのか。一年ぶりの雪は色気が強くなっていて、綺麗だった。本当に男ができたのかもしれない。そう思うと、もっと無理やりにでも伝えて、組み敷けばよかったのかもしれない。
 あんなに大嫌いだった司と南が、今ではうらやましいくらいだ。俺もあんなふうに、素直に自分の気持ちを認められたらいいのに。今度は逃がしたくない。遠くに行く前に声をかけないと。もうあいつのほうから俺を探して迎えに来ることはない。
 俺から、夏と冬だけじゃなく、春も秋も、朝も夜も──司と南みたいに、一緒にいたい、と。そう言わないと──あんな、……うざくて、うるさくて、かわいくないのに。
 今、俺が一番大好きな女。ちきしょう。俺はとっくに、雪に恋をしている。

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