夜、星が散らばって【1】
「水瀬さんの奥様はどんな方ですか?」
そういうことは、よく訊かれる。クライアントにとって、そんな話はどうってことのない話題だと分かっている。でも、正直俺にはどんなずうずうしい質問よりつらい。
「僕は若い頃に一度離婚してまして、今はそういう相手はいないんですよ」
そんな最も忌まわしい嘘をつかなくてはならない。いない? 何で俺は、世界で誰より愛おしく思える奴と結ばれているのに、そいつを幽霊のように言うんだ。一度でいい、嫌味なくらいの笑顔で言ってみたい。
俺には、南っていう最高の男がいるんです。
──言えるわけがない。そんなに大きくない個人の建築会社で、社長にも釘を刺されている。すべて打ち明けたとき、言われた。それでも水瀬の仕事は評価するし、社内にもそんなことを偏見する奴は雇っていない。が、まだまだ世間では何にも理解しない奴がやはり多い、つらいだろうが社外では伏せてくれ、と。
恵まれているほうだ。クビになってもおかしくなかった。社長に打ち明けたときは、スーツのポケットに辞表も用意していた。
妻と離婚する。息子たちは引き取る。もう大切な奴を捨て置きたくない。同性だろうと、南と一緒に暮らしていきたい。
社長は渋い顔をしていた。「すみません」と俺は頭を下げた。謝るのは悔しくしても、それがしょせん常識だと思った。ふと社長は「俺はそういうことはよく分からんが」とため息をついた。
「よく分からんことを色眼鏡にして、お前を判断はしない」
伏せていた目を開いて顔を上げた。社長の顔は厳しいもののままだったが、そこに親さえ浮かべた絶望や軽蔑はなかった。
「お前はよくできる部下だ。それは変わらんだろう」
「は……はいっ、仕事は変わりなくさせていただきたいです」
「ならいい。大した理解はしてやれんが、お前を雇う努力はしよう。それなら俺にもできる」
ぽかんとして突っ立ちそうになったが、慌てて「ありがとうございますっ」ともう一度頭を下げた。それから、例の釘を刺された。反論などなかった。雇い続けてもらえるだけでもありがたい一心だった。最後にまた一礼して社長室を出ようとしたとき、「水瀬」と声がかかった。
「ここ一年くらいか、その相手と会うようになったのは」
「あ──はい。去年の冬でした」
「いい表情をするようになったな」
よぎったのは、次男の授の言葉だった。怒ってばかりのとうさんが、南の前では優しく咲っていると。そうなのだろうか。自分ではよく分からない──
そのとき、そばのドアの向こうで物音がした。俺は思わずびくついたが、社長はとっくに気づいていたらしい。「説明の手間は省いたほうがいいだろう」と言われて、俺ががちゃっとドアを開けると同僚のほとんどが集まっていた。思わず硬直しそうになった俺に、「水瀬ーっ」と社内で一番よく飲みにいく同期の女が抱きついてきた。
「お前、奥さんの話されるたび、マジ女のことバカにしてんなと実は思ってたら、ちゃんといたのかあっ」
「はっ? ば、バカにはしてないけど、」
「水瀬は何か無理してると思ってたんだよなー」
「でも最近は、社長の言う通り、水瀬さん優しくなりましたよねっ」
「ストレス溜まった感じがなくなったもんな。これからはむしろ仕事が順調になるんじゃないのか?」
何、だよ。何だ、こいつら。こんなことなら、もっと早く──
「こらお前らっ、揃って残業するつもりか! 早く戻れっ」
「わっ、社長切れた」とか何とか言いながら、みんな廊下をばたばたと抜けて職場に入っていった。茫然としている俺に、「水瀬も早く戻らんか」と社長が喝を入れてくる。俺は一度深呼吸してから、「はいっ」と顔を引き締めて仕事に戻った。
だから、職場にいるときはそんなに疲れはない。でも、俺の建築士という仕事は、やはりクライアントとのやりとりが多いので、出勤しても事務のように会社にこもっていることは少ない。クライアントの要望を聞く打ち合わせ、建てたりリフォームしたりする現場の見学、建築が始まってからの指揮──つくえに向かって線を引いていることだけが、建築士の仕事ではない。“社外”と接している時間のほうがよほど多くて長くて、俺はそのあいだは、コブつきで再婚も逃している独身を演じている。
今のクライアントは新婚夫婦で、依頼はマイホームの設計だ。とても仲のいい夫婦で、気立ても悪くないのだが、悪気のない話題が多いのが若干疲れる。例の「奥さんはどんな方?」という質問はもちろん、「独りのままはダメです」とか「結婚は悪いものじゃないですよ」とか──
自分たちが幸せゆえの発言で、とにかく俺の愛想咲いを誘う。俺は独りじゃない。結婚できるならすぐにする。ちゃんと大切な奴はいるんだ。でも、それを言ってはいけない。精一杯嘘咲いをして、すぐそれる話題を依頼のことへと軌道修正する。
その日も、その夫婦と現地の見学に行って、条件を話し合ったりして、会社に戻ったのは終業を過ぎた十八時頃だった。会社の入っているビル所有地の駐車場に車を停めて、ビルまでの静まり返った道を少し歩いたので、軆が凍えて硬くなっている。
クリスマスの近づく十二月だった。冷え切った暗い空は、息をうっすら白く染めていた。もう早く帰りてえ、と思いながら廊下を抜けて、突き当たりのオフィスに入った。
「おっ、水瀬お疲れー」
まだ残っていた同僚から声がかかって、「お疲れー」と返しながらデスクに荷物をおろして椅子に座りこむ。隣のデスクでは、あの日俺に抱きついてきた女の同僚が電話応対をしている。クレームではなさそうなのをその様子から察していると、電話が終わって彼女はにやりとしてきた。
「疲れてるねえ。昔みたく飲むかい」
「今は車だから飲めねえっつの」
「どっちみち、一杯のあとは水瀬って烏龍茶だったけどねえ」
「酒まずい……」
「どこのガキじゃ。はあ、旦那と飲むとお酌させられて鬱陶しいから、娘と飲むかあ」
「娘、高校生じゃなかったか」
「んなこと気にしてたら、現代っ子は育てられんわ。妙な薬しないだけでもありがたいね」
肩をすくめて、スマホを取り出した。“18:17”──揃っての夕飯には間に合わないだろう。「電話してくる」とふらっと立ち上がると、「はいよ」と彼女はモードを切り替えて書類の束に向き直った。
オフィスを出てすぐ左手の給湯室には、誰もいなかった。誰かいると場所を変えたかったから、ちょうどよく思って、スマホで南の番号を呼び出した。通話ボタンを押すと、コールを耳元で聞く。そしてすぐ『もしもし』とあの愛おしい声が聴こえてきて、「南」と俺はその声の主の名前を呼ぶ。
『司。お疲れ様』
電話は、焦れったくて嫌いだ。この声が耳元で響くのに、その軆は抱きしめられない。
「あー、と、夕飯できる頃だよな」
『できてるよ。豆腐のハンバーグ』
「そっか。悪い、会社出るの早くて十九時くらいだ。遅くなる」
『そうなんだ。大丈夫? 今の仕事も、けっこう疲れてるみたいだけど』
「仕事は疲れるもんだからな。平気。飯は南と食いたい」
『待ってる。子供たちには食べさせるね』
「ああ。南は仕事どうだ?」
『僕も煮詰まってる。一度離れたから、イメージがつかみにくくて』
南は絵を描くのが仕事だ。広告のカットなどだった仕事は、本や雑誌の表紙になり、描き下ろしのカレンダーを出すぐらいにまでなっている。今は、以前キャラクターデザインを任されたゲームの、ファンブックの特典ピンナップの描き下ろしに悩んでいる。
「夜、遅くなりそう?」
『うん──。司、ほんと無理しないで休んでいいからね』
「俺も南が寝るまで起きてる。俺がいれば、煙草も酒もいらないだろ」
『ん、まあ』
「南のそばにいるよ。ちゃんと見守りたい」
俺がそう言うと、南は黙りこんだ。俺は酒も煙草も苦手だ。しかし、南は不安になるとそういうものに頼る。俺に裏切られて、一度、南にはそんなものしかなぐさめにならなくなった。今は俺がそばにいても、一日じゅう侍っているわけでもない。
「南──」
『……頑張る』
「えっ」
『仕事頑張って、少しでも司と一緒に眠る』
軆の奥が、じわりと痺れる。かわいい。何でこんなにかわいいんだ。本当に、南以外に俺の神経をこんなに甘くなめらかにしてくれる奴は、絶対にいない。
「俺も頑張って早く帰るよ。一緒に南が作った飯食いたい」
『うん』
「じゃあ、急いで仕事片づける。少しだけ待っててくれ」
『分かった。頑張ってね』
「おう」
そう答えると、スマホをおろして通話ボタンを切った。壁にもたれて、コーヒーやお茶を淹れるのでやや黄ばんでいる天井を見つめる。
帰ったら、南がいる。南の髪に触れられる。南をぎゅっと腕に抱ける。「よし」とつぶやくと、気合を入れ直して俺はオフィスに戻った。
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