夜、星が散らばって【2】
南に出逢ったのは、六歳のときだった。小学一年生だった。ミナセとミヨシ。単純に出席番号が前後だった。入学式のあとの教室で、俺は一番前の席だったので、後ろの奴にとりあえず話しかけようと振り返った。そこにいたのが南だった。
人見知りだった南を、俺がかばうように仲良くなった。帰り道、よく手をつないで、それがすごく嬉しかった。このままずっと手をつないでいられたらいいのに、いつも角で別れることになる。
南も俺を見つめた。また明日、ととっとと言えばいいのに、それを言うことすらつらい。どうやったらずっと南と一緒にいられるのだろう。いくら考えても、分からなかった。南がうつむいても、手を離すしかなかった。
「明日の朝、ここで待ってるよ」と俺が言うと、南は顔を上げた。「約束したから、大丈夫」と続けると、南は小さく咲って、こくんとした。その笑顔のためなら、たとえ今夜急にぶっ倒れても、明日ここに来ようと思った。
俺は、南との世界に誰かを入れたくなかった。だから、三年になって幼なじみの巴が南と同じクラスになって、何だか仲良くなっているのが気に食わなかった。巴は邪魔するようなことはしなかったし、俺がむすっとして、南がおろおろしたら、ごく自然に消えてくれたけど。
それでも、南は誰かとペアになるようなとき、声をかけられなくて巴に助けられたりしているらしい。俺がそうしたいのに。クラスが違うのが悔しかった。帰り道は、やっぱり手をつないだ。
南はおとなしさにつけこまれて、意地悪されるときがあって、ぽろぽろと泣くときがあった。俺は立ち止まって南の頭を撫でた。南の髪の感触が好きだった。南が哀しむのは嫌だったけど、南が泣くとこの柔らかい髪に触れられる。そんな矛盾を我ながら卑しく感じたが、「俺がいないとこで泣くなよ」なんて言った。
高学年になって、周りが思春期でざわめきはじめた。好きな女子の話になったりした。俺はそんなのいなかったし、そんなことより、また同じクラスになれた南にはそういう女がいないかどうかが気になった。いないと南は言っていたけど、巴とは相変わらず仲がいいのがいらいらした。
何となく、手をつなぐのがなくなっていった。南はときどき俺を見つめている。俺が振り向くと、ぱっとそらす。昔は見つめ返して咲ってくれたのに。南は俺が嫌いになったのか?
たぶん違う。俺が何だかおかしいのだ。どうしてこんなに南が気になる? 南は親友だ。なぜかわいい女の子にも何とも感じない? 南のほうがかわいい。何で俺は、南とつながなくなった手を握りしめて泣いている? 南は男なのに、俺と同じ、男なのに……。
南は普通に、女である巴と仲良くもしていて、俺だけがおかしい。あやふやな知識がちらついて、それは真綿のように脳も心も締めつけた。
……ホモ?
俺……ホモなのか?
中学生になって、女とやたら早熟な関係を持った。キス。愛撫。セックス。夢中になれる軆を探した。でも、どんな女を抱いていても、思ってしまう。これが南だったら。男だったら、とは思わなかった。南を想って息を切らした。この唇が。この肌が。この体内が。南だったら、どんなに──そう思って、いつもその想像でたまらなくなって射精した。
そんな妄想に利用して気まずくて、南とあんまりかかわらなくなった。そうしたら、南と巴がつきあっているといううわさが流れた。分かっていた。覚悟していた。でも、心は苦しく軋み、涙まであふれてくる始末だった。
南。俺の隣にいたのに。南の隣は、俺の居場所だったのに。南の笑顔も、手も、髪も、全部、俺のものだったのに。
ある日、飽きた女を振ってひとりで帰っていた。何となく前方を見て、立ち止まって目をみはった。学ランとセーラー服。南と巴がいた。南は泣いていた。巴が何か言って、南は首を横に振っていた。南が泣いている。俺がいないところで泣いている。やがて南と巴は、俺に気づかずゆっくり歩き出して、俺はたたずんでいた。
急激に、俺の中で発火が起きた。
巴を呼び出して、勝手なことを言った。つきあってるなら祝福するとか。でも南を泣かせてるなら反対だとか。言いながらまた涙なんか出てきた。巴は俺を放っていこうとした。だが、すぐ立ち止まった。細い声がした。聞き間違えるわけがない声だった。足音が駆けあがってくる。巴は昔みたいにさりげなく去っていく。現れた南は、俺を見ていっそう泣き出した。
ずっと、そんなことはしてはいけないと思っていた。俺の気持ちが伝わってしまう。だけど、今は──
南を抱きしめた。ずっと探していた。どこにもなかった。どんな女にも、どんな男にだってないのだ。南はここにしかいない。俺は南しか愛せない。南も俺にしがみついて、何度も俺の名前を呼んだ。黒い学ランの生地が湿っていく。南の頭を撫でた。その髪は、変わらずに柔らかく俺の指を癒した。
ずっとこいつのそばにいる。そのとき、俺は確かにそう思ったはずだった。裏切るほど自分が弱い奴だとは思っていなかった。
──十九時を少しまわって仕事が片づくと、ひとり残業している奴がいたので、そいつに鍵を任せて会社を出た。外に出ると、薄い雲のせいで夜の空は紫がかっていた。頬や指先があっという間に感覚を失っていく。スーツの上のコートを深く着こんで、駐車場の車に急いだ。
盗犯防止を外した乗りこんだ車の中も、冷え切っている。エンジンを入れるとすぐ暖房をかけ、シートにもたれて南に今から帰るというメールをした。すぐ来た返事の『待ってるよ。』という言葉に微笑むと、何とか疲れをおして車を出して家に急ぐ。
今は南が待っている家に帰れる。そうなって、十年くらいだろうか。その前は、俺の帰りを家で待っているのは南ではなかった。紫という、高校時代に知り合った女だった。
高校時代は俺と南は穏やかに過ごした。気持ちを確かめ合って、初めて部屋にふたりきりになったときは、死ぬほどどきどきした。それまで軽率に女にやっていたことなのに、南だとできない。かろうじて抱き寄せると、南も恥ずかしそうに俺の胸に顔を伏せた。名前を呼んでも顔を上げない。ただ、俺にぎゅっと抱きついてくる。南の白いうなじが薄紅に染まっていて、そっとそこに口づけた。南の軆がこわばったから、そのときはそれ以上はしなかった。
ゆっくり、ゆっくり進んだ。キスだけで胸がいっぱいになるから、貪欲になれなかった。押し倒す。服を脱ぐ。南以外は俺にはありえない。南の性器を愛おしく感じたときそう思った。ずいぶんかけて、指だけで慣らしていった。初めて軆が重なったのは、高校二年生になったばかりのときだった。
もう南しかいらなかった。南さえいればよかった。
でも、高校を卒業して、南と別の大学に進んで、一気に視界が広がってしまった。見たくもない現実だった。恋人がいると言えない。それが男だなんて、とてもではないが言えない。高校までは、秘めやかにつきあっていられればそれでもよかったのに、大学生活はまるで犯すように襲ってきた。
女の話が当たり前。女とつきあうのが当たり前。女と寝るのが当たり前。
俺はまた、南の手を離してしまった。紫は高校の卒業式に俺に告白してきていたから、一度振ったとはいえ、たぶん断らないだろうと近づいた。紫が子供を身ごもった頃、俺は南の声を思い出せなくなっていた。
たくさんの人を傷つけた。偽装に利用した紫。紫に懐いていた築。俺の表情を窺っていた授。応援してくれた巴。壊れる父親を見つめた響。そして、その、酒に溺れて壊れていった、南。
南がアルコール中毒で倒れて、俺は数年ぶりに病院で南に再会した。預かって抱いていた響が眠ってしまった頃、南が目が覚まして、俺は泣きながら謝った。何度も。土下座したってよかった。死んで詫びてもよかった。許されなくて当然だった。南も泣いていた。「司」とあの愛おしい声が俺を呼んだ。
「約束なんか、またすればいい。破ることがあってもいい。それでも、僕は司を待ってていい?」
うなずこうとした。でも、すぐ首を横に振った。
「待たなくていい。もう待つな。待たないでくれ。何かあれば、南が俺を迎えに来てくれ」
「司……」
「俺も、南を待たせないから。南のそばにいる。離れてこんなにつらいなら、南のそばにいたい。どんなふうに見られるより、南が隣にいないほうがつらいんだ」
南は泣きながら咲った。その涙は朝露のように綺麗で、その笑顔は星が煌めくより光っていた。俺は南の名前を呼びながら、その膝に顔を埋めて泣いた。南は俺の頭をずっと撫でていてくれた。泣き疲れて、ぼんやり眠って、はっと顔を上げるとちゃんと南がいた。「おはよう」と南の声が鼓膜をくすぐる。俺はまた泣きそうになった。
南が待ってくれていた。待つと言い出したのは、俺のほうだったのに。ずっと、待っていたのは南だった。
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