深い深いところ【1】
おとうさんがいた。おかあさんがいた。おねえちゃんがいた。そして、僕がいた。
サラリーマンと主婦のあいだに、一姫二太郎。こんなに上出来の家庭はないはずなのに、僕の家は物心ついたときには腐った瓦礫のようだった。
朝になると、やっぱりお腹が空いている。這い出たふとんを押し入れにしまって、恐る恐る一階に降りる。
おとうさんのすがたはなくて、おかあさんはテレビをつけたまま居間に横たわっている。お腹空いた、と声をかけてはならないのはもう分かっている。がさがさと台所で物音がするので、足音を殺して居間を横切る。
三歳年上で中学二年生のおねえちゃんが、セーラー服すがたでコーンフレークをお皿に流しこんでいた。僕に気づいても、にこりともせずに無言で椅子に腰かける。
「ぼ、僕もお腹……」
「自分でして」
鋭く短く言われて、居竦まりながらもお皿を探す。おねえちゃんはコーンフレークに牛乳を注いで、黙々とスプーンを口にふくむ。
おとうさんは、毎日規則正しく帰宅したりしない。仕事がいそがしいのだと子供の頃は思っていたけど、おかあさんとの口論が聞こえてくる夜、ほかの女の人とも暮らしているのを知った。おかあさんは僕が幼いときから、精神安定剤を大量に処方されて生き延びている。
コーンフレークを食べ終えたおねえちゃんは、洗い物が溜まった流しに皿を置いて、僕なんかいないみたいに台所を出ていった。食器棚をそうっと開けて皿を取り出した僕も、牛乳をかけてコーンフレークを食べる。とうもろこしの味が歯につまっていく。
おねえちゃんが家を出ていく音がして、おかあさんがその物音に何かぶつぶつつぶやきはじめた。慌ててコーンフレークを平らげた僕は、ランドセルを背負って圧迫される家を出た。
外に出た瞬間、急激に五感を攻撃される。青すぎる空。叫ぶ蝉。蒸した植木。焼けつく太陽。渇く喉。
もうすぐ夏休みだ。まばゆさに目を細めながら、人や車が行き交う通学路を急ぐ。
夏休みかあ、とランドセルの肩ベルトを握りしめる。給食がなくて、いつもよりお腹が空いてしまう。おかあさんは買い物をひどく嫌っているから、僕の家の冷蔵庫は何日も補充されずにすぐ空っぽになる。
スーパーに行っただけで疲れ果てるおかあさんは、止まらない息切れに手首を切る。切ると楽になれるのだろうか。そう思って僕もたまに切ってみるけど、澱んだ黒血はこの家を映しているだけで、いつも哀しくなるだけだった。
「──笹村渚!」
朝の出欠取りは嫌いだ。大きな声で返事をし、手まで挙げなくてはならない。自分が納得しないと返事を繰り返させる先生に、いつも僕のところで流れは止まる。「うざ」というささやきがどこからか耳に触れてきて、泣きそうになる。
今日は四時間目までしかなかったので、給食後の掃除が終われば下校だった。僕はほうきを使わせてもらえない。いつもひとりで雑巾だ。つくえが引かれた床を見渡したとき、突然大声がした。
「うわっ、ちょ、退いて!」
退くヒマもなくぽかんと顔を上げたのと同時に、誰かが僕の上に倒れてきた。顔面が雑巾に押しつけられ、その臭いに咳きこむ。
「わっ、ごめんっ」
その人は急いで僕の上をしりぞいて、目の前で尻餅をついた。僕はまた涙を浮かべそうになりながらその人を見る。名前はぱっと出てこないけど、クラスメイトなのは分かった。茶色に染めた髪、大きな瞳──笑い声がしてそちらを向くと、別の男子生徒たちがいる。
「別にこいつなら謝らなくていいんじゃね」
「ほら、続きやろうぜ」
転んだ男子生徒に、笑う生徒のひとりがほうきをさしだした。僕は首を垂らし、何も言わずに掃除に戻ろうとした。
が、ぱんっという音にもう一度そちらを見る。茶髪の生徒が、ほうきをさしだす手を打ちはらっていた。「何だよ」とほかの生徒はまだ笑っている。
「転ばせたくらいで切れるなよ、ほら──」
彼はその声を無視して、こちらを見た。僕はびくんとこわばる。何か言われる──
「大丈夫?」
「え……」
「保健室行ったほうがいいよ。痛かったでしょ」
「え、あ──」
別に、と言って、事なかれにしたいのに舌がまわらない。彼は立ち上がると、受け取ったほうきはそのへんの女子に押しつけた。
「笹村のこと、保健室連れていってくるっつっといて」
そして腕を引っ張られ、嫌だと言う勇気もなく、引きずられるように教室を出た。階段を降りて、でも彼は保健室のある一階ではなく、二階の特別教室の並びの廊下に入りこんだ。
「ここなら人来ないか」
そのつぶやきに目の前がゆがんだ。ああ、保健室になんか行かないのか。そうだ。何を一瞬期待したのだろう。僕を心配してくれる人なんて──
「笹村」
彼は灰色のコンクリートでできた手洗い場の前で、立ち止まった。
「顔、洗って」
彼は手を伸ばして、僕の手の中の雑巾を取り上げた。
「ごめんね。こんなのに押しつけて」
彼を見た。言われたことが分からなかった。その僕の瞳に、彼の瞳が慌てた色になる。
「いや、ほんとわざとじゃないんだよっ。それはほんとだから」
眉を寄せる僕に、「洗わなきゃ」と彼は雑巾を放って、水道を捻る。ほとばしった水を見つめて、やっと、自分がこの雑巾に顔を突っこんだのを思い出した。
……じゃあ、顔を洗わせてくれるために?
もう一度、彼を見る。久賀奏、という名札が視界に入った。久賀くんは僕の困惑した視線に曖昧に咲った。
「保健室、顔洗ったら行こうね。保健の先生は担任と違うから」
「えっ……」
「その手首でだいたい分かってくれるよ」
目を開いた。左手首のリストバンドの肌触りを感じた。久賀くんは「ごめん」と小さく言う。
「あんま、指摘してほしくなかったと思うけど」
「……どう、して」
「何となく。いつも外さないし」
蛇口から水が噴き出している。僕はのろのろと手を伸ばし、ゆっくり顔を洗った。かすかにあった悪臭が消えて上体を起こすと、久賀くんは「あ、タオルがない」と焦る。でも僕が自分のポケットにハンカチを持っていたので、顔の水気はそれで拭けた。
でも、胸は中はもやもやしている。顔を洗えて少しさっぱりできたのに、心は薄暗くてすっきりしない。
「知られたく……ない」
言っちゃダメだ。言って何になるというのだ。「でも」と久賀くんが身を乗り出して竦みそうになる。
「あれって明らかにイジメだし」
違う。僕の手首を傷つけたのは、教室じゃない。あんな教室でも何も感じなくなるほど、僕の神経を狂わせているのは──
「……イジメじゃない」
「だって、」
「クラスの人なんか、マシだよ」
「えっ」
「家に較べたら、あんなの……」
言葉が消え入る代わりに、心臓が速くなる。どうしよう。何を言っているのだ。
僕は久賀くんのほうに顔を上げた。
「ごめん、僕、」
「笹村」
久賀くんの真剣な瞳が瞳に刺さった。
「俺もあいつらに言われてるんだ。『久賀って何考えてんだろー』『変人だよなー』『頭おかしい奴らに育てられたんだもんなー』」
「……え」
「何にも知らないくせに。俺の家のことなんて」
見つめあった。久賀くんは息をつくと、出しっぱなしの水道をきゅっと止めた。
「俺の家は、だいたいの人が『ああ、ひどい家庭だ』って言うんだよ」
「ひどい……の?」
「どうなんだろね。そりゃ、親は離婚してますし? かあさん、昔から仕事いそがしいですし? だから父親に預けられて、その父親には恋人いますし?」
何か言いたくても、どんな言葉がいいのか分からない。確かに、それはあんまりいい家庭ではないかもしれない──
「で、その恋人は男ですし?」
ぎょっと目を開いた。
「お、男? え、父親に?」
狼狽える僕に、久賀くんは視線を投げかける。
「笹村も不幸だと思う?」
「な、仲はいいの? その、おとうさんたち、は」
「いいよー。愛し合ってるって感じ」
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、えと、幸せだね」
そう言った瞬間、「だよね!?」と久賀くんはぱっと笑顔になった。それは──ちょっとびっくりするけれど。そこに愛情があるなら、大切なところはあると思う。僕の家のほうがよほど欠けている。
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