カラーサークル-5

深い深いところ【2】

「ごめんね、ずっと」
 首をかしげると、久賀くんは大きな瞳に僕を映す。
「もっとこんなふうに、早く連れ出しておけばよかった」
 久賀くんの瞳が、優しく痛みを帯びる。
「つらかったよね、ひとりで」
 ひとり……で。そう、ひとりだった。僕はずっとひとりだった。おとうさん。おかあさん。おねえちゃん。誰も僕に目に留めてくれなくて、初めて、こうして──
 急に喉が痛んで、視界が揺れた。頬に雫が落ち、止まらないほどあふれてくる。その雫は、手首からの赤より遥かにずきずきと神経に刺さった。その疼痛に声までもれてくる僕の肩に、久賀くんは手をそっと乗せる。
「笹村、やっぱ保健室行こう」
「でも、怖いんだ。だって、おかあさんをいらいらさせたら」
「……殴られるの?」
 事実を言い切ることに躊躇ったけれど、正直にうなずいた。すると、久賀くんは僕の肩をつかんだ。
「だったら、そんな家、もう帰らなきゃいいんだ」
 とまどって久賀くんを見た。帰らなきゃいい? けれど、そうして僕はどこに帰る? まだ帰らないわけにもいかない年端だ。それをたどたどしく言うと、久賀くんの手に力がこもった。
「俺んちに来ない?」
「えっ」
「今日から、ちょうどしばらく父親のほうに泊まるんだ。で、もし信頼できるって思ったら、俺の親に相談しよう」
「そ、そんな、僕みたいのが突然来たら」
「大丈夫。俺の親は、みんなしっかりしてる。たくさんつらい目に遭ってきたから」
 熱が伝わってくる久賀くんの手を見る。つらい目。離婚。男同士。確かに、多くの冷たい眼を受けてきただろうことは察せた。
「迷惑、って思われたくない」
「俺の親に?」
「久賀くん、に。親の人に『こんな奴どうして連れてきた』って思われて、……それで久賀くんが離れるほうが」
 泣き出しそうな震えた声で言った僕に、久賀くんは噴き出すように笑った。
「大丈夫だよ。まあ、確かに、いきなりクラスメイトの親を信じろっていうのは無理だよね。ごめん。単純に、俺の友達として遊びにいくって考えて」
「友達……」
「うん。やっと、友達になれた」
 視界がまた水分にひずむ。やっと。気づいてくれていたのだ。久賀くんはぽんぽんと僕の肩をたたいた。それにうながされるように、「ほんとはもう帰りたくない」と僕はつぶやいていて、久賀くんはうなずいて微笑んでくれた。
 その日、放課後になって教室に戻った僕たちは、久賀くんのおとうさんたちの家に向かった。電車をひと駅乗り継いだ。お金を持っていなかった僕は、久賀くんに出してもらって謝った。電車の中で久賀くんはスマホを取り出し、「お」とつぶやく。
「南くんからメール来てる」
 久賀くんは、おとうさんたちのことは名前で呼んでいるらしかった。「南くん」は実のおとうさんで、相手のおとうさんは「司くん」──おかあさんは「かあさん」と言っている。
「笹村連れてくことは、伝えとくね」
 うなずいて、久賀くんがメールを打っているあいだは窓の向こうの景色を見た。あの町を出ること自体、僕は初めてだ。遠ざかるほど、閉塞していたみぞおちが換気されていくのが分かった。
 電車を降りると、陽射しに汗をかきながら、久賀くんの慣れた足取りに急いでついていった。車道を横切ると住宅地に入って、ひとつの大き目の一軒家に到着した。
 久賀くんはランドセルから鍵を取り出し、開いたドアの中に僕はしずしずとついて入る。手前のドアを開けて、「ただいまー」と声を上げた久賀くんに「おかえり」という男の人の声が帰ってくる。
「あれ、友達とは遊んでこなかったの」
「連れてくるんだから、そのまま帰ってきていいじゃん」
「まあ、夜遊びされるよりいいけどね。友達は?」
 あ、と思っても入りこんでいいものか玄関のマットの上で固まっていると、久賀くんが僕をかえりみて手招きしてくる。僕はぎこちない足取りでドアに歩み寄る。
 涼しい風がそよぐそこを覗くと、奥のキッチンからこちらを振り向いている人がいた。久賀くんと同じ茶色の髪のほっそりした男の人だ。三十代半ばくらいだろうか。
 目が合って慌てて頭を下げると、その人は久賀くんとよく似た微笑を浮かべて「こんにちは」と言ってくれた。僕はつっかえそうになりながら同じ言葉を返す。
「初めて連れてくる子だね」
「うん。今日仲良くなった」
「そうなんだ。その子の夕食も用意してるから、荷物おろしておいで」
「はあい」と答えた久賀くんは、僕を連れて二階に上がった。ドアが四つもあって、狭いアパートで育った僕はまばたきをしてしまう。
 ひとつのドアを開けると、かなり整頓された部屋であることにも驚く。「綺麗な部屋だね」と言ってしまうと、「俺の部屋は汚いよ」と久賀くんは笑った。
「ここは俺のにいちゃんのひとり部屋みたいなもんだから」
「おにいさん……」
「あ、兄弟のこと話してなかったね。えっと、南くんが俺の父親で、司くんがその恋人なのは話したよね。で、両親が同じで俺と血がつながってるのが響くん。中三で、この部屋の人」
 言いながら久賀くんはランドセルを床に放り、僕もそろそろとランドセルをドアの脇に置く。「でね」と言いながら久賀くんを部屋を出たのでついていく。
「司くんのほうにも子供がふたりいて、築くんと授くん。高二と中三なんだけど、いるかなー」
 久賀くんは隣の部屋のドアをノックなしで開けた。「いた」と言った久賀くんは部屋に踏みこみ、僕も覗きこむ。
「これが築くん」
「『これ』って何だよ、クソガキが」
 びくりとしてしまった低い声の主は、ベッドで漫画らしき本を読んでいたようだった。本を投げやり、僕に一瞥くれる。
「友達連れてくるなら、巴さんとこでやれよ」
「いいじゃん、ここだって俺んちだし」
「お前さ、マジで『俺』って言うのやめろ。似合ってねえ」
「似合うようになるもん。てかさ、小学生より早く帰宅してる高校生って、つまりサボりだよね」
「るさいんだよ。一階でゲームでもしてろ」
「そだね、築くんはもういいや。ばいばーい」
「言い方がムカつく……」という声が聞こえた気がしたけど、久賀くんは無視してドアを閉めた。「四人兄弟?」と確認すると、久賀くんはうなずいて階段に向かう。そしてなぜか嬉しそうに咲う。
「へへ、四人兄弟って言われるの嬉しいな。どっちかっていうと、三人兄弟とひとりっこって言われるから」
「え、でも実のおにいさんは」
「響くんは、南くんが引き取ってここで育ったんだ。俺はかあさんに引き取られて、あっちの町で育った。かあさんが引き取ったのは赤ん坊だったからって理由らしいし、仕方ないよね」
「おかあさんは、その、面倒見てくれたの?」
「うん。仕事も少しセーブしてくれたって。俺は憶えてないけど。憶えてるくらいからは、ここに預けられることが多かったな。家にひとりっていうのにはさせられなかった」
「そっか」と羨ましく思いながら答えて、「さっきのごはん作ってた人が実のおとうさんのほうだよね」と確認しておく。
「うん。南くん」
「いつも家にいるの?」
「仕事が在宅だしね。絵を描くんだ。ゲームのキャラデザとかもやってるから、友達には名前知ってる奴もいるよ」
「何か、すごいね」
「そうかなー」と言う久賀くんと一階に戻ると、さっき覗いたリビングに入った。南さんはダイニングを挟んだ向こうで料理をしている。レースカーテン越しに陽射しが明るいリビングで、久賀くんは僕にソファを勧めてから、大きなテレビの前に座りこんだ。
「ゲームやる?」
「ううん、見てるだけでいい」
「そっか」と久賀くんはゲームを選ぶと、電源を入れて僕の隣に座った。涼しいな、とクーラーがきいているのを改めて見つけた。エアコンのそばに時計があって、十六時をずいぶんまわっている。
 あの家は、僕が帰ってこなくても、心配しないどころか気づきもしないのだろう。久賀くんの横顔や南さんの背中をたまに見ていて、ちゃんと話したほうがいいのかな、という気がしてきた。

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