深い深いところ【3】
他人の僕でも、この家がしっかり満ちているのが分かる。僕が邪魔していい空間ではない。久賀くんは僕の事情を承知してくれていても、南さんやさっきのおにいさんは知らない。僕はただの友達ではない。すごく厄介な奴だ。久賀くんの親御さんには、僕のそんな背景は知っておいてもらったほうがいいのかもしれない。
やがて、中学生のふたりも帰宅した。筋肉がしっかりしたおにいさんが、シャワーを浴びてほかほかしたまま、もうひとつのコントローラーを接続して久賀くんと対戦を始める。眼鏡をかけたまじめそうなおにいさんは、もうひとりのおとうさんも帰宅すると聞くと「じゃあ司が帰るまで復習しておく」と二階に行ってしまった。そして、その司さんも帰宅すると、僕も混ぜた家族揃っての夕食になった。
夕食のメニューは、じゃがいもやかぼちゃといったいろんな味が大皿に並ぶコロッケと白いごはん、ひんやりしたサラダやさっぱりしたコンソメスープだった。こんなにいい匂いの食事は初めてだ。僕は少し放心さえしながら、さく、と揚げたてのカニクリームコロッケをかじる。
食卓の環にいると、話さなきゃ、とますます思った。男同士だからって何なのだ。血がつながっていないのが何だというのだ。僕の家のほうがおかしい。
見た目は僕の家庭が普通かもしれない。でも、深い深いところが、この家はとても温かい。冷え切った感覚を知っているから、家庭として、この家は本物だと僕は分かる。
久賀くんがお風呂に行ったとき、ちょうど南さんと司さんがダイニングに残ってお茶を飲んでいた。リビングでは授さんがゲームをしていて、築さんと響さんは部屋に戻っている。僕は一階の和室に泊まることになっていたけど、南さんと司さんに話をしたら、帰ることになるのも覚悟していた。
「あれ、笹村くん」
リビングに踏みこんだら、南さんが僕に気づいてくれた。僕は一瞬歩幅を躊躇わせたけど、ゲームの音楽が流れるリビングを横切ってダイニングに歩み寄る。
「どうかした?」
南さんは物柔らかに微笑んで、「うちにはいないタイプだなー」と僕を眺めて司さんも咲う。ふたりの元で立ち止まった僕は、並んだ席でお茶を飲むふたりを見た。
「あ、あの……何か、たぶん、おふたりに話しておいたほうがいいことが、あって」
たどたどしい僕の言葉に、ふたりは顔を合わせる。「久賀くんに」と僕は言い添える。
「相談したら、とも言われて。いきなりの話だからって僕が迷ったから、黙ってくれてますけど。でも、何か……やっぱり知っておいてもらってたほうがいいと思って」
また南さんと司さんは目を交わし、「まあ座りな」と司さんがふたりと向かいの席をしめした。僕がおとなしくそうすると、「君のお茶も淹れるね」と南さんはキッチンへと席を立つ。
「話しにくいことなら、別に無理しなくてもいいんだぞ?」
司さんは子供たちに接するときより、口調をやわらげて言ってくれる。僕は膝の上の手に目を落としかけたものの、司さんの黒い瞳を見た。
「もう……」
「ん」
「もう、家に帰らないには、どうしたらいいですか」
「えっ」
「僕とか久賀くんでは、子供だから分からないんです。家に帰らないなんて、そんな方法。でも、僕はもう帰りたくないんです」
司さんはわずかに面食らって僕を見つめる。戻ってきた南さんが、麦茶のコップを僕の前に置いて司さんの隣に座る。目配せするふたりに、「話していいですか」と僕が前置きすると、「聞いておきたい」と司さんが言って、南さんもうなずいた。
それから、僕は舌をもつれさせながら自分の家のことを話した。途中、久賀くんがお風呂を上がって顔を出したけど、授さんが引き止めたのでリビングにとどまった。僕は泣きそうなのをこらえて話す。僕の家のほうが狂っている、ここのように温かくない、根深い場所は腐っている──
「この家がすごく恵まれるって、あんな家で育ったから分かるんです。それで、僕がいることでここに迷惑がかかったら嫌です。ここには壊しちゃいけないものがちゃんとあります」
やっとひと息ついた。南さんと司さんは最後まで真剣に聞いてくれた。口の中が乾いていた僕は麦茶に口をつける。南さんが「帰れない家はつらいね」とつぶやき、「そうだな」と司さんが小さく答える。そして、「分かった」と司さんが僕に目を向けた。
「それで解決になるかは分からないけど、俺たちで役所とかに通報してみる」
「ごめんね、引き取ってあげるとか大胆に言えなくて。でも、君が家を離れたい気持ちは分かった」
「俺たちも、そんなとこ帰らなくていいと思う。まあ、ご家族みんな、自分なりに何かつらいんだろうけどな。だからって、君をそんなに苦しめていいわけじゃない」
帰らなくていい。あの家に、帰らなくていい。久賀くんだけじゃない。僕のひとりよがりでもない。大人の人がそう言ってくれると、すうっと安堵が湧き起こった。
「やっぱ児童相談所かな」と南さんと司さんが相談を始めたところで、久賀くんがこちらに来て僕の肩をたたいた。振り返った僕に、「頑張ったんだね」と久賀くんは言ってくれる。「久賀くんのおかげだよ」と僕は濡れかけていた目をこする。
「奏でいいよ」
「えっ」
「だから、俺も渚って呼んでいい?」
僕は咲って、もちろんうなずいた。すると、久賀くん──奏もにっこりとした。
「とりあえず今日は泊まっていきな」と司さんが声をかけてきて、「奏とゆっくりしていっていいからね」と南さんは穏やかに言う。僕は素直にこくんとして、奏と一緒に和室に敷いたふとんに寝転がってたわいなく話した。
安心して眠くなってくるなんて初めてだった。「おやすみ」と奏が言って明かりを消して、僕は答える前に眠りにさらわれていった。
「──渚くん」
ふと名前を呼ぶ声がして、小さくうめいた。日向の匂いがするシーツとふとんが柔らかい。「朝だよ」という声をまぶたを押し上げると、最近やっと見慣れてきた自分の部屋がある。白い朝陽が満ちていて、仰向けになった。
そこには柔和に微笑んで僕を覗きこむ芽衣子さんの顔がある。僕は目をこすり、「おはようございます」と寝ぼけた口調で言った。芽衣子さんは「今日は、奏くんの町まで遊びにいくんでしょう?」に言われてはっとする。
そうだ。夢を見ていた。僕はあのまま帰宅せず、しばらく児童相談所の施設で暮らしていた。けれど、偶然、本当に偶然、僕を家から引き離すことに力を貸してくれた相談員さんが不妊で悩んでいた。親身になってくれた相談員の芽衣子さんは、僕のことを旦那さんの研太郎さんに少し話して──ふたりと直接会ってみて、僕は確かに、心臓が温かな血を吐いてどきどきするのを感じた。
「渚くん、僕たちと一緒に暮らしてみないかな」
遊園地に連れていってもらったけど、ほとんど遊ばずにそわそわしていた。帰りがけ、夕食までもらっていると、研太郎さんがゆっくりそう言った。芽衣子さんも僕をじっと見つめていた。
──その日、僕はあんなに憧れていた温かい家庭を手に入れた。
「朝ごはんできてるから、早く降りてきてね」
僕の頭をぽんぽんとして、芽衣子さんは部屋を出ていく。前の町とはふた駅だけ離れた。大変な距離ではないから、日曜日にはよく奏と遊びに出かける。
スマホを見ると、奏からメールが来ていた。
『渚、おはよー!
今日は久しぶりに俺んちに遊びにこない?
あの人たち、一応渚のこと気にしてるからさ。』
奏の家。うん、行きたい。あんなに温かい家を僕は知らない。幸せが満ちた空間。でも今は、僕の家庭も負けてはいない。
とても深い深いところ。この新しい家庭で、今、僕も確かにそこに温かい光を感じている。
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