空が溶け合うように【3】
「響くんは、すごく優しいのになあ」
「何、いきなり」
「何で冷たい奴とか言われて、そのままにするの? もったいないよ」
「僕は平気だから、もしかしてほんとに冷たいのかも」
「優しすぎるだけじゃん」
「大丈夫だよ、心配しなくても。気持ちを表すのが苦手な僕が悪いんだ」
「響くんは何にも悪くないよ。みんながバカなんだよ。俺だって、……あるから分かる」
響くんは視線を下げて、「でも、みんなそれをうまく否定できてる」と次の皿を手にする。
「僕はできてないけどね」
「偏見する奴が悪くて、響くんは悪くないんだからね?」
響くんは少し睫毛を陰らせて咲うと、「そうだね」と言って俺を向いた。
「それより、少し眠っておいで。僕がそばで勉強するけどいいかな?」
「うん。響くんも、無理しないでね」
響くんは微笑んで食器洗いに向き直る。響くんを冷血とか言う奴に、それは違うと言ってやりたい。確かに響くんは不器用かもしれないけど、兄弟の中では一番優しいくらいだ。親が同性愛というだけで、それも認められないのが俺も哀しかった。
手提げを連れて二階の部屋に行くと、素直に響くんのベッドで休んだ。満腹で熟睡して、響くんの気配を感じることもなく、はっと起きたときには部屋は暗くなっていた。
一階で話し声がしている。何時、とまくらもとに置いていたスマホで時間を確かめると、二十時をまわっていた。夕飯の時間をすっかり過ぎている。南くんが俺のぶんを残しておいてくれているだろうけど、急いで抜け出して一階に降りた。
「お。奏が起きた」
リビングに入ると、司くんも帰ってきていた。ソファで授くんのゲームを眺めている。司くんは築くんとよく似ていて、でも築くんよりかっこいい。
「おかえり、司くん」
「おう。夕飯食っちまったぞ」
「俺のぶん残ってないの?」
「『俺』」
「みんなそこに突っ込むのやめてよ」
「南が取り分けてた。すき焼き」
「えー、肉残ってんの?」
言いながらキッチンに行くと、南くんが目を向けてきて笑みを作った。俺は南くんに似ていると言われる。確かに髪の色とかけっこう南くんの真似はしている。
「肉残ってる?」
「だいぶ授が食べたけどね」
「うー。響くんは? 部屋にもいなかったけど」
「お風呂行ったよ。築はまだ帰ってない。だから、一応お肉全部食べちゃダメだよ」
「えー。あ、そういえば、築くんが夕飯はいるって言ってたなあ」
「じゃあ残さないとね」
「ちぇっ。ていうか、鍋何にも入ってないけど」
鍋の前に行って覗きこむと、「冷めたらおいしくないからね」と南くんは冷蔵庫から思ったより残してある具材を取り出した。火にかけて具材に火を通すと、ほっこりした匂いの湯気を立てる鍋をダイニングの鍋敷きに移動させる。ごはんもよそってもらい、俺はたまごを絡めながら夕食を取った。
響くんがお風呂から上がって、今度は俺が湯船に浸かって、洗面台で髪を乾かしていると築くんが帰ってきた。司くんたちと何やら話したあと、「早く風呂空けろ」と俺に残して築くんは部屋に行ってしまった。いつも基本的に部屋にいるのは築くんと響くんで、授くんは寝るとき以外はリビングでゲーム、俺も休むとき以外はリビングで南くんと司くんに構ってもらう。
築くんも夕食を済ませて家事を切り上げると、南くんはソファで司くんの隣に座った。深夜の作業に入る前に、ひと息ついているみたいだ。司くんは自然と南くんの肩を抱いて、南くんはゆったり司くんに寄りかかる。司くんが何かささやいて、南くんは幸せそうに咲って──子供の頃からの、俺にとっては当たり前で何より幸福な光景だ。
南くんと司くんは、俺が生まれたときには、よりを戻していたから、あんまり詳しいことは知らない。築くん、授くん、響くんはそれなりに事情を知っているようだ。ずっと昔から、いつだって、南くんと司くんはそうして寄り添っていたように見える。でも違うことは、さすがに俺でも知っている。
初めて自分の家庭が変わっていると知った日はよく憶えている。小学校低学年のたわいない喧嘩だった。俺はその日まで、南くんと司くんは「結婚」していると思っていた。だから、「男と男は結婚できない」みたいなことを言ったクラスメイトに、俺が食ってかかった。女の担任は、世間の現実と俺の家庭の事実を言い分けられずにただおろおろした。ふてくされる俺を南くんが迎えにきた。
「南くんと司くんは、結婚してるんでしょ?」
熱っぽい残暑の帰り道、ひどく赤い夕暮れ時だった。俺と手をつないで駅まで歩いていた南くんは、困ったように咲った。
「結婚したいけどね」
「……『したい』?」
「僕たちは、できないんだ。男と男だから──」
「じゃあ、あいつが合ってて、僕が間違ってるの? 南くんたちは家族じゃないの?」
「家族だよ。でも、かたちというか……約束はできないんだ」
「南くんと司くんはずっと一緒でしょ」
「それは、もちろん」
「じゃあ、結婚してるじゃん。約束してるよ」
南くんはうつむいて、その睫毛が夕焼けに赤く透けた。俺は南くんの手をぎゅっとつかんだ。
「みんな約束してるよ。おかあさんとも、築くんも授くんも響くんも、みんな南くんと司くんと結婚してるよ」
南くんは俺を見下ろして、「ありがとう」と優しく微笑んだ。その笑顔はとても寂しそうで、何だか無性に泣きたくなった。
ソファから脚を投げて、授くんのゲームを眺めるふりをしつつ隣の南くんと司くんを見る。南くんと司くんを眺めるのは、すごく幸せだ。でも、「約束されない」事情くらい知った今は、同時に切ない。
「どうした」とこちら側の司くんが頭を撫でてくる。今度はきちんとふたりを見て、空気より当たり前につながっている手と手も見た。
「結婚できたらいいのになあ」
「は?」
「南くんと司くんが」
「何だよ、いきなり」
「結婚できるんなら、きっと偏見だってないしさ」
南くんと司くんは目を交わし、「何かあったの?」と南くんが少し心配そうに窺ってくる。
「俺じゃないけど」
「……響か?」
言い当てた司くんに俺は具合悪く首をすくめて、かたむける。ふたりはまた顔を合わせ、「奏」と南くんが優しく続ける。
「大切なのは、結婚じゃないんだよ。築が僕のごはんを食べてくれること。授がリビングで過ごしてくれること。響がつらいこと隠そうとしてること。奏がこの家に来てくれること。全部、僕と司の絆なんだ」
「お前らがいれば、結婚なんかどうでもいいんだよ。紙の上の約束より、お前たちのほうが俺たちが結ばれてる証拠でいてくれてる」
南くんと司くんを見つめた。ふたりは柔らかく笑んで、その笑顔はどんな家庭で見る夫婦より温かい。
「大丈夫だよ。響のことも、ちゃんと考えてる」
「ほんと?」
「うん」
「絶対だよ」
「奏は何気にブラコンかあ」と司くんが笑い、「おにいちゃん想いって言ってあげて」と南くんは手を伸ばして俺の頭を撫でる。司くんの手も南くんの手も、髪に触れると優しい。
二十三時になる前に、俺は部屋に引き上げた。響くんはつくえで本を読んでいた。俺に気づくと、さっきの南くんと司くんの笑みに通じる笑みをくれる。
「もう寝るの?」
「んー、昼寝したからなー」
言いながら響くんのベッドに仰向けになる。まぶた越しの明かりに、視界は一瞬夕暮れのように赤くなった気がした。空が溶け合うそのとき、きっとそれが俺たちで、南くんと司くんの絆なのだろう。俺たちはつながっている。そう、巡るひとつの空という、とても幸せな家族だ。
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