虚貝-1

白昼に眠る街で

 目の前を行き交う人通りは徐々に減っている。ほんとにそういう街なんだなあ、なんて思いながら、ぼうっと道端の煤けた段差に座っている。
 朝陽は日中の太陽へじりじり昇り、腕時計を覗くと十時半をまわっていた。生気のないこの街には、昼の顔がないという。夜に騒がしくなり、昼間は眠る。景色はいっそう熟睡に堕ち、放置されていくのだろう。
 人通りには、早くも半袖の人がちらほらしている。先週のゴールデンウィークに、気候はいきなり冬を脱ぎ捨て、春もなく初夏になった。さすがに制服のままは目立つので、駅のトイレで着替えた僕の服は、まだ長袖だ。
 隣に置くデイパックの肩紐をいじり、十時半か、とため息をつく。二時間目の途中だ。科目は憶えていない。忘れたのではなく、あのクラスでひと月も過ごしていない。
 再び学校に行かなくなって、一週間が経った。二年生に進級して、あの人がいなくなって、大丈夫だと思っていた。結局、登校拒否に逆戻りしている。
 一年生の三学期にも、学校を休みがちになった。そのときは部屋に閉じこもり、ほぼ引きこもりになった。学校が嫌だった。
 当然、親には何かあるのか訝られた。また登校拒否を始めた今、ふたりは怪訝を非難にしつつある。彼らにとって、僕の行動は登校拒否でなくサボりなのだ。
 だが、僕は登校を拒否しなくてはならない。このまま学校に行っていたら、精神の壊滅が突き進んでいくばかりだ。
 両親は理解しない。理解してくれると僕に信頼させない。親には心を開いていない。全部黙っている。僕にとって、親は血縁でつきあっているだけの人だ。好きや嫌いの感情もない。早く家を出たいとはいつも思っている。
 学校はいてはいけなくて、家はいたたまれなくて、先週一週間は駅前をうろついていた。子供っぽい顔立ちの僕は、補導されないよう私服には着替え、一週間さっきみたいなことを考えていた。空っぽとか。死にたいとか。
 週末には部屋に閉じこもり、思索は捨て鉢になった。どうせ死ぬなら、辱められぬくのでなく、ひっそり消えよう。結果、僕はこんな学校では禁止区域に指定されている街に踏みこんでいる。
 とはいえ、僕がいるのは安全圏から少し入った程度の通りだ。本当に危ない中心部に行くのは怖すぎる。この街は一般人は出入りを慎んだほうが賢明な土地であるらしい。凡人の僕がせいぜい進めたのは、この昼へと廃れゆく繁華街だった。
 死にたいくせに、なぜこうなのだろう。いよいよとなると躊躇ってしまう。無意味な命に卑しくしがみついて。生きていてどうなるのだろう。僕なんか死ねばいい。害にしかなれない。中身の抜けたうつわなんかいらない。心が虚しいのなら、ひと思いに軆も虚しくしてしまえばいい。
 この苦しみは、誰にも理解されない。両親でなくとも、受け入れるどころか、受けつけもしない。犯されるから学校には行けませんなんて、そんなの言えない。しかも、相手は男だなんて。同性だなんて──どう言えばいいのかも、分からない。
 告白してみたとする。あのふたりは、どんな顔をするだろう。いや、知っている。揶揄うなと顰蹙するか、それがどうしたと笑殺するか、仮に信じたとしても、逆らえばいいで済ます。
 逆らえばいい。顰め面より笑われるより、僕はその言葉に一番傷つく。僕は、単なる男にのしかかられる男ではない。そうであれば、どんなにマシだったか。
 僕の苦しみは、強要だけではない。僕も分からないのだ。あれが、苦しいのかどうか。逆らいたいのかどうか。あの錯乱はどう説明すればいいのだろう。とにかく、僕は学校で男に性的なことを強要されていて、そんなことをされているくせに──
「誰か待ってんの?」
 跳ね上がった心臓にはっとした。いつのまにか顔に影がかかっていた。正面に脚が止まっている。煙草の匂いがした。顔を仰がせると、鋭い目と目が合った。
「待ちぼうけ?」
 煙をふかして僕を見下ろすのは、知らない男だった。十八、九ぐらいだろうか。
 よく見ると鋭いのは眼光で、瞳は刺々しくない。頬骨をかする前髪が、その目を惜しく邪魔していて、鼻筋や顎、肩幅の線は無駄をそいだように完璧だ。ジーンズの長い脚に背は高く、体質は痩身で、荒んだ感じに似合っている。
 美少年だった。が、他人には変わりない。
「時間すっぽかす奴には、とっとと帰って思い知らせたほうがいいんだよ」
 眉を寄せ、自分の状態をどう説明したらいいのか迷った。
 とりあえず、誰かを待っているのではない。しかし、なぜそんなのを通りすがりの人間に説かなくてはならないのか。
 だいたい、この人は何だ。見ず知らずの他人に、ナンパでもあるまいし。
 僕はその人を見直す。ナンパだろうか。
「そいつと遊ばなきゃヒマなら、俺が遊んであげるよ」
 ナンパらしい。何で。僕が男に見えないのか。いくら童顔でも、男に見える自負はある。まさか、この人は女──僕以上に男にしか見えない。
「あの」
「ん」
「僕、男なんですけど」
 その人は失笑した。「分かってるよ」という声は、耳に抵抗感のない低音で、野太い重さはない。ちなみに僕の声は変わりきっていない。
「ここ、どういうところか知らない?」
「どう、いう」
「知らないの? ははあ、やばいよ」
 やばい。のは、知っている。どういうやばさかは、きちんと把握していない。
「地理分かってる?」
「……何となく」
「何となくじゃ死ぬぜ」
 うつむいた。死んでいい。僕はここに死ににきた。と思ってみても、僕がうつむいたのは無知にここに踏みこんだ羞恥だった。
「どのへんが安全で楽しいか、教えてあげようか」
「えっ」
「ただ、俺の相手してよ」
「は?」
「このあと、ヒマなんだ。君もヒマなんだろ。これも運命と思って」
「え、あ、あの」
 その人は僕の肩に馴れ馴れしく手をかけ、身をかぶせてくる。その人に陰った僕は、まごついて硬直した。煙草の匂いがする。その人は僕を見下ろし、にやにやとした。
「男は、嫌?」
「嫌、というか──いや、嫌です。嫌いですっ」
 その人は僕を見る。笑っていない。その眼光に無表情に見下ろされると、何やら冷ややかで怖い。
 けれど、その人は冷酷なことはせず、「あっそ」と素直に僕にかぶせた身を引いた。
「じゃあ、変な人につけこまれないようにな」
 煙草を持たないほうの手で僕の頭をぽんとすると、その人はあっさと通りすがっていった。その背中を見送り、何だ、とぽかんとする。ナンパとはあんなものなのか。
 ため息をついてうつむき、男は嫌か、という質問を思う。
 もちろんあの人は、僕のことなど知らない。だが、残酷な質問だ。すごく残酷だ。あの人は鋭そうだったので感づかれたかもしれない。嫌い、なんて無用な言葉まで僕はつけてしまった。いや、そもそも何か感知したので、同性なのに声をかけてきたのだろうか。
 男は嫌い。その言葉が純粋な本心なら、どんなによかったか。そうだ。嫌いなんかじゃない。男に性的に虐げられているくせに、僕は──男が好きなのだ。
 ゲイだと自覚するより、男に下着を下ろされたほうが早かった。十一歳で、小学五年生で、担任の先生だった。まるでそのことを引き立てるように、小学校に関するほかの記憶は憶えていない。そのぶん、保健室でのあのことは気味が悪いほど鮮明に憶えている。
 残暑だった。何もかもをつぶして費やされる運動会の練習のときだ。午後のだるさの中で騎馬戦の練習をしていた。小柄だという理由で、僕は性格は考慮されずに上に乗せられた。
 組立てのひとりがつまずき、僕は砂ボコリの運動場に落ちた。足首に捻じれた痛みが走り、ついで足を動かそうとすると全身の枷になった。騎馬戦は団体競技だ。保健委員だといって、生徒を練習から引き抜くと、その生徒のグループが練習に参加できなくなる。
 ほかの三人はかすり傷だったので、各自水道で洗うとなり、僕ひとり、どうせ自力で歩きもできなくて担任の先生に保健室に連れていかれた。
 保健の先生は、出張で留守だった。先生が僕の手当てをした。「捻挫だな」と言う先生は、三十台の前半で妻子持ちだった。手当てが終わると、「休んでおけ」と先生は僕をベッドに寝かせて保健室を出ていった。包帯で固定された脚に、腫れるほてりを感じながら、僕はうとうとしてきた。
 当時、ことに家が休まらなくなっていた。その小学校は公立で、僕はそのまま地味に中学も公立に行きたかった。両親は私立への入学を勧めてきた。
 僕の家は成金だった。小学校にあがるときはまあ裕福かというぐらいだったのが、僕が中学生になるのが近づくときには、父親の出世で金持ちに成長していた。今や僕の父親は重役になっている。そうして仕事に明け暮れていたのが、僕の親への不信感の要因だ。
 母親はつきあいのパーティが大好きで、それも原因だ。ふたりに金持ち連中の集まる私立中学への入学を推され、僕は返事を濁すのに気疲れを溜めていた。
 足は痛くても、そんな家での気苦労と昼下がりの気だるさ、昼食後の満腹感もあった。おまけに、先生が引き忘れたカーテンのおかげで、木漏れ日が降りそそいでいる。微睡みは次第に深く暗くなり、知らないあいだに意識は途切れていた。
 ──ふと、息が苦しくなって目が覚めた。とっさに、何なのか分からなかった。口を塞がれている。塞ぐものが口内をこじあけてくる。熱くてぬめぬめしたものが伸びてくる。
 舌、だった。僕はキスをされている。やっと認識すると、誰、と思った。ジャージを着ている。生徒ではない。運動会が終わるまで生徒の体操服は夏服だ。
 と思ったとき、笛が胸にあたった。先生か。顔が近すぎて誰か分からない。だが、この肩幅は男だ。
 男。男! ここまで理解するのに、たっぷり三十秒かかった。
 どうにか顔を背けた。離れた顔に愕然とした。担任教師だった。茫然とする僕の唇と先生の唇のあいだに、唾液の糸が張る。喉に他人の唾液が流れこんでいく。
 何で、と思った。それなりに性の知識はあった。この人に授業もされた。間近の思春期、男と女の原理、軆の変化にともなって芽生える新しい欲望も。当惑と衝撃を綯い混ぜにする僕の放られた手を先生は取った。力が入らなくて、拒めなかった。
 導かれた先生の股間はふくらんでいた。頭が真っ白になって、わけが分からなかった。混乱に頭が停止した。再度口づけられても、動けなかった。
 先生の手が、僕の手をぎゅっとつかむ。自分の性器に僕の手のひらを押しつけてこする。
 嫌、と思った。思った、のだけど、それは支配下にいる嫌悪で、思い返せば、男の性器に触れている事実には気がまわらなかった。触りたくないものに触れさせられている強要には抵抗を覚えた。
 もがこうとした。そしたら、捻挫の痛みが全身に響きわたった。
 その瞬間のひどい感覚は、はっきり記憶している。眼前が墨をかぶって、闇が無気力へ蔓延して──結局、捻挫と先生に自我を抑えつけられ、僕は弱い性を掠奪された。

第二章へ

error: