虚貝-11

無神経な彼ら

 今日は日曜日で両親が家にいて、脱出に手間取った。両親の形相は尾行もしかねない様子で、僕は意味もなく近くの公園で時間をつぶした。尾行していたとして、本当に公園にいるらしいと信じて引き返したと思える頃、周囲を窺って〈POOL〉に向かった。
 歩きながらため息が出た。このまま家に帰らずに済んだらいいのに、と晴れた天を仰ぐ。だが、僕には行くあても勇気もない。弓弦みたいに冒険できたらいいのだけど、しょせん弓弦ほど追いつめられていない。
 駅前に出て、ビルのコマーシャルで今日から六月だと知る。弓弦と知り合い、きっかり三週間だ。こんなことになっているとは、一ヵ月前は思いもしなかった。学校に行かなくなってるかなとは思っても、引きこもりだとあきらめていた。全部、弓弦と知り合えたおかげだ。定期券で改札口を抜け、ホームに立つと弓弦を想う。
 分かっている。僕はちょっと、弓弦に変だ。胸がどきどきしたり、軆がほてったり、恋愛みたいな反応を起こす。僕の性的なものは全滅したはずなのに、再生しようとしても嫌悪が細菌のごとく取りついて殺すはずなのに、弓弦は僕を刺激する。僕は弓弦をどう想っているのだろう。
 友達でいたいと思う。恋愛は気持ち悪い。心ではそう思っても、軆は弓弦が近づくとざわめく。その感じはあのときに似ている。嫌だと思っても、軆は反応する。ダメだと思っても、心は意識する。僕は弓弦を意識している。友達がいいのに、気持ちは友達以上へと揺れてしまう。
 第一、弓弦が僕なんて何とも思っていない。来夢さんも言っていた。弓弦は気にかかった人とはまず寝る。僕は弓弦に肉体関係をほのめかされない。初対面のとき言われたが、あれは半分ふざけてだった。弓弦は僕を気にしていない。放っておくと危なっかしいので、構ってくれているだけだ。
 弓弦は僕の髪を撫でたり頬に触れたりして、心が陰ると必ず感知して心配そうに瞳を覗く。どうしてそこまでしてくれるのだろう。僕が勝手に焦っているのもあるけれど、弓弦も期待を持たせすぎだ。僕は心情的な熱や甘美に慣れていない。受け流せず、本気にしてしまう。
 とはいえ、「こういうことしないで」と言って、弓弦に罪悪感を与えたくもない。弓弦がそういうことをしなくなったら、嫌われたのかと不安になる。わがままだなあ、とため息をつく。
 弓弦との関係は、僕にはむずかしかった。恋愛をしたことがない。友達もいない。家族は疎ましい。他者を意識した経験がなく、余計にわけが分からなかった。
 僕は目立たない孤立にいた。それでよかった。弓弦は僕の孤独を破り、触れようとする。でも、近づきすぎるのは怖いのだ。弓弦が僕に飽きたら、いなくなったら、さらされたところはどうなってしまうのだろう。
 弓弦がずっとそばにいてくれる自信はない。離さない勇気もない。つきまとうなと言われたら、おとなしくそうする。僕は弓弦のために、孤独を破るのが怖かった。
 この感情は情けない。僕の不信感は、思うより根強いようだ。弓弦のことも信頼できない。弓弦がいついなくなってしまうか。不信というより、恐怖だろうか。僕は弓弦を失くすのが怖くてたまらない。
 失くすのが嫌。恋愛にも友情にも共通する想いだ。どっちなのだろう。僕はあのことで、性愛に意識過剰になっている。捕らわれているだけで、この気持ちは客観的に見ると友情なのか。でも、友達にときめくかなあ──と思ったときには、乗った電車を降りて駅も出て、街へ向かおうとしていた。
 歩いていて、腕をつかまれたのは突然だった。どきっとした僕は、ぶつかってないのに、ととっさにあの街の習慣で思った。が、よく見るとそこはまだあの地区の街並みではない。僕は振り返った。
 大きく目を開いた。そこには私服すがたが見慣れない、三週間顔を合わせずにすんでいた、クラスメイトたちがいた。
「久しぶり」
 僕と目が合った腕をつかむ人が、金持ち特有のにこやかな口調で言った。
「何してるの?」
 その人は僕をつかんだ手の力を緩める。離しはしない。記憶が動く。
 この手につかまれたのは、初めてではない。
「心配してたんだよ。学校いきなり来なくなったね」
「何かあったなら、相談してくれればよかったのに」
 三人いるクラスメイトを凝視した。何で。分かっていないのか。
『見たことあるんだ』
 僕は、……僕は、
『去年の生徒会長と』
 この三人に、まわされたことがある。
『男が好きなんだから、嫌ではないよね』
 だから分からないのか。傷つけたと分からないのか。僕がゲイだから。総毛立ちそうな厚顔への畏怖が、急激におののきはじめる。
「あと、そっち危ないよ」
 僕は震える息を吐き、「関係ないよ」と引き攣った声を発した。その人は、腕をつかむ手に力をこめた。
 肌と肌が密着する。嫌悪が噴き出る。男に触られている。
 男に。嫌だ。違う。何で。僕はゲイで、男が好きで、でも──あれ。どっち……
「関係なくなんてないよ」
 顔をあげた。
「友達なんだし」
 僕は目を剥いた。そう言った人の瞳は、いやらしいほどに無垢だった。
 無意識にその手を振りはらった。びっくりした顔に面罵を投げつけたかった。けれど何も浮かばず、ただ泣きそうになって、その涙にまたきょとんとされるのが嫌で、素早く身をひるがえした。
 全力で走った。あの人たちにつかまるぐらいなら、息切れで死んだほうがマシだった。繁華街に入る。さいわい、誰にもぶつからなかった。陽桜付近になると、足を緩めて、やっとかえりみる。
 視界が涙にぼやけて、泣いているのに初めて気づいた。雑に目をこすって確かめなおす。誰も僕になんか目を留めていない。そういう街だ。あの三人もいない。ほっとしながら歩き、それでも涙は止まらない。
 つかまれた左手首に触れる。そこだけ腐ったように感じられ、吐き気がした。男に触られた。汚い。だから男は嫌だ。今日も錯乱した。そうだ。僕はホモだ。男同士の腐臭を知っているくせに、男が好きだ。
 なぜだろう。どうしてそんな病的神経を取り返しもつかないほど全身に張り巡らせているのだろう。僕は生まれながらの変態なのか。頭がおかしいのか。男同士など冒涜行為だ。僕は悪魔なのか。醜い、出来損ないの、存在すべきでない──
〈POOL〉に着いていた。手前で入店を躊躇った。涙で顔がぐちゃぐちゃだ。さすがにここでは不審がられる。説明はしたくない。どこかで顔を洗って、と思っても僕は〈POOL〉以外のこの街のことを知らない。迷子になったら洒落にならない土地だ。どうしよう、と鼻をすすって目をこすったときだ。
「あれ、紗月じゃん」
 びくっと肩がこわばった。一瞬、あの三人かと思った。しかし、あの人たちは僕を名前では呼ばない。そもそも、こんなところまでは来れない。そっと顔を上げると、水底の視界の水面に映ったのは、弓弦だった。
「えっ。な、何」
 ぎょっとした声だ。弓弦、と思った。弓弦だ。おさまりかけていた涙を増やす僕に、「どうしたんだ」と弓弦の気配が近くなる。
「何かあったのか」
「弓弦……」
「何かされたのか?」
「僕……」
「ん?」
 腰をかがめた弓弦は僕の瞳を覗き、頬に触れた。走った触覚に僕は硬直した。弓弦の指先に狼狽が走って、「ごめん」と手は引かれる。違う、と思い、思ったあとに、焦る。どうして。触れる手なんかいらない。だって、弓弦も男だ。男なんか嫌だ。でも──
 一考した弓弦は、「ここだと誰か来るな」と丁重に僕の肩を押した。そんなふうに優しく触られたのは初めてで、僕はとまどう。
「場所変えよう。あ、店入るか」
 首を横に振った。わがままかなと思っても、弓弦はすぐ納得して、僕を道路に連れ出した。僕は弓弦に従い、うつむきがちに歩き出す。
 弓弦の手が肩を守っている。あの人に触られると嫌悪でいっぱいになったのに、同じ男でも、弓弦だとほっとする。
 そこで僕は眉を寄せた。同じ。弓弦の横顔を盗み見る。同じだろうか。違う。同じじゃない。弓弦とあんなのは別物だ。弓弦は弓弦だ。男という以前に弓弦だ。
 そう思うと、強迫観念の嫌悪がふっと薄れた。そう、僕は弓弦だからほっとしている。僕の肩を抱いているのは、男というおぞましい闇でなく、弓弦というやすんじてくれる人間なのだ。
 いっとき歩き、弓弦は僕をそのへんのビルの段に座らせた。「ちょっと待って」と弓弦はリュックを下ろし、僕はおとなしく待つ。周囲にはビルが立ちならび、日陰で涼しく、車道でもないから風も澄んでいた。わりあい静かだ。鼻を小さくすすり、止まってきた涙をぬぐう。
 弓弦はハンドタオルを取り出した。正面にかがみ、そのタオルで僕の顔を丁寧に綺麗にする。タオルは、指では水分をさっぱりぬぐえないせいか、僕がじかに触られて怯えたせいか。その気遣いになぐさめられて、弓弦の瞳に無意識に咲えた。咲えたことに、気分もつられた。僕が微笑むと、弓弦は微笑み返し、「よし」と僕の頬をタオルで軽くたたくと左に座った。
 弓弦を向いた。弓弦も僕を見て、微笑んでくる。やっぱり僕はどきどきして、睫毛を伏せた。弓弦は手の中で無造作にタオルをいじり、長い脚を道路に放っている。
 躊躇したあと、僕は弓弦の手に触れた。はっとした弓弦に、僕はうつむくまま頬を染める。弓弦に触っていたかった。弓弦に触れていると、心がぐらぐらしない。説明する前に弓弦は僕の手を握り返し、僕は弓弦に上目をする。弓弦は許容の笑みで、僕の気持ちをほぐしてくれた。

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