もう帰りたくない
「こんな時間に何してんの?」
最初は、自分に話しかけられているとは思わなかった。が、聞き憶えのある声なので、顔を上げた。僕は睫毛をしばたいた。ミキさんに紅茶を注文しているのは、来夢さんだった。
「弓弦と待ち合わせ?」
「え、いえ。えと、こんな時間──」
「十九時半まわってる」
うそ、と僕は腕時計を覗く。本当だった。
「こないだ弓弦が、十六時になったらさっさと帰っちまうってぼやいてた」
「あ、はあ。あの、何か、家に帰る気がしなくて」
来夢さんは僕をちらりとして、「ここね」と頬杖をつく。
「昼は普通の喫茶店でも、夜は中宿も兼ねるんだよ」
「なかやど」
「淫売と客が密会すんの」
「え」と素人臭く動揺する僕に、来夢さんは含み笑う。ミキさんが紅茶を持ってきて、「ありがとうございます」と来夢さんは敬語で受け取った。
「やり手とか周旋屋に注文すれば、こういう何でもないとこで落ち合えるんだ。普段、俺は奥の淫売の溜まり場で張ってる。置屋じゃないよ。今日は注文があって、ここで会いましょうって約束してるんだ」
「はあ」と遠い世界に怯え半分で生返事すると、「怖い?」と来夢さんは紅茶をすする。僕は躊躇ったものの、素直にうなずいた。来夢さんはそれにかすかに笑むと、「次元違うもんな」とカップを置く。
「弓弦に逢ったら、伝えておこうか」
「えっ」
「紗月くんがここにいるんで、迎えにいけって」
「い、いえ。いいです。邪魔ですよ。その、仕事の」
「ひと晩じゅうここにいたら、男娼以外の何でもないよ」
「………」
「断りゃいいってもんじゃないよ。紗月くんなら食い下がる奴もいると思う。人を待ってるなんて言っても、それじゃ新人どころか素人。男娼じゃないってばれるとやばいぜ。じゃあおじさんが教えてあげようかってなる。で、無知につけこまれてめちゃくちゃされて、金もない。ここにはここの常識があるんだ。それを知らないのが悪いって、誰も助けてくれないよ」
羅列される身の危険に、蒼ざめてだんまりになった。自分がいかにのんきで、この街の住人ではないか。「危ないだろ」と言った来夢さんが妙に生々しい物言いをしたのは、言い知れぬもので、僕に状況を悟らせる術だったのだろう。
「弓弦に伝わるようにしとくよ。気になるなら、紗月くんがここにいるってことだけにしとく。そしたら、会いにいけって命令ではないじゃん。来たときはあいつが好きで来たんだし、紗月くんが気にすることはない」
「………、誰かといたりしたら」
「持ってくるほど、あいつは無神経じゃない。あ、弓弦に知られてやばければ──」
「い、いえ。そんなことは」
「そ」と来夢さんは紅茶をすする。食べものはもらっていない。おうちで食べてきたのかな、と推測する僕に、「何かさ」と来夢さんは照れ咲いする。
「いるって知ってて、黙っておくのも怖くてさ。何で言わなかったんだって胸倉つかまれんの、俺、分かるもん」
そこまで気にしてもらえるかな、というのは、弓弦と知り合って日の浅い僕の邪推だろうか。ともあれ、弓弦と来夢さんが喧嘩するのも忍びないし、弓弦に心配をかけたくもない。「伝えておいてください」と言うと、来夢さんは肯諾した。
待ち合わせの客が来るまで、来夢さんは僕の相手をしてくれた。弓弦に目をかけられた縁で、僕にはだいぶ近しく接してくれる。夜に来店する客は、昼の客と匂いが違った。来夢さんに話しかける人も多く、女の人だと娼婦っぽく、男だと同じく男娼か、客っぽい。顔見知りらしい客だと、先日の話にかなって、来夢さんの顔は相手の好みずつに異なった。甘えたり、生意気だったり、高ぶっていたり、優しかったり。露骨なのは新人どころか素人、と言っていた通り、誘われてもさらりと受け流していた。
僕について尋ねる人もいて、そのとき僕は居竦まる。来夢さんの言葉通りで、向けられる視線には、新人の男娼である期待の色がある。無言で固まる僕を、来夢さんはたったひと言で守った。
「この子は弓弦のお手つき」
それで、ぴたっとにたつきが止まる。頬を引き攣らせて畏れ多そうにし、好色も発さなくなる。お手つき──そういうことにしたら手っ取り早くはある。弓弦の親友である来夢さんの言葉だから、みんな疑わずに信じていた。
二十時をまわって来店した若い男と、来夢さんは〈POOL〉を出ていった。話をしていて、突然その男が来夢さんの背中を抱きしめたときには、僕のほうがびくっとした。来夢さんは待っていた恋人を受け入れるように咲って、口づけまでしてあげている。その男も僕について質問はしたが、色目はなかった。来夢さんしか眼中にない。
紅茶代は男がはらい、唖然とする僕には、「今度な」と残して、来夢さんは肩を抱かれていってしまった。何せここは普通の喫茶店にしか見えないので、愛し合うふたりの逢瀬にしか映らなかった。
取り残された僕は、ミルクティーを飲み、あの人ほんとにストレートかなあと思う。が、どんな男にも節操なく軆を開けるのは、ストレートだからこそとも言える。よほどプロ意識があるか、あるいは自尊心を持ち崩していなければ、ゲイは男に好みが出る。
来夢さんがいなくなっても、ミキさんが守ってくれて、僕は変な人に引っ張られたりはしなかった。来夢さんに“この子はお手つき”と言われた人が、声をかけようとする人に言葉を繰り返したりもする。弓弦のお手つき、というのはそうとう恐ろしいものらしい。僕は弓弦を思い返し、そんな怖い人かなあと思う。
夜が更けていくごとに、どうするんだろうという不安はふくらんでいった。もはや、外はひとりで歩ける状態ではない。家はどうなっているだろう。放っているというのはないと思う。帰りたくなかった。駅前を通るのも嫌だった。弓弦に会えなくなって、失くしてしまうのも──
弓弦を失くしたら、死んだほうがいい。大袈裟な飛躍ではない。もともと、この街には死のうと思ってやってきた。弓弦に逢えて、生きていてもよくなった。僕だって、本当は生きることを好きになりたかった。そうなれなくて死にたかった。弓弦は僕を救ってくれた。弓弦を失ったら、空っぽに逆戻りだ。一度知った安穏が絶望への免疫を壊している。弓弦を失えば、僕は生きていけない。
夕食時が過ぎると、店内の騒がしさがいくぶんおさまった。時刻は二十二時をまわり、ミキさんは僕の相手をしたり男に口説かれたりしている。いつ閉店かを訊くと、閉店はないそうだ。掃除などはいったん客が引く明け方頃にやるらしい。
ただし、ミキさんは零時で上がる。あと二時間だ。しかも、おそらく街がいよいよ狂ってくる時刻だ。僕はミキさん以外の店員とは親しくないし、そもそも夜の店員とは面識すらない。客も深夜に向けて変わってきそうだ。蒼白になって焦っていると、時間が経つのも早い。こんなときに限って、時計の針は見るごとにやけに大幅に飛んでいて、ついに時刻は零時になってしまった。
「困ったわね」とミキさんは息をつき、僕は何とも言えずにうつむく。入れ替わった店員は、ミキさんに挨拶をして夜の街に紛れていく。店内の客は、酒を飲んだりテーブルでつぶれたり、昼間の客とぜんぜん違う。僕を知らない深夜シフトの店員は、僕を新入りの男娼だと踏む目をしていた。「私も明日があるのよね」とミキさんは言う。
「休まなきゃ、やっぱり軆が持たないわ」
「……はい」
「バイトの子たちに頼んでおきましょうか」
「………、男娼とか、思ってませんか」
「思ってるでしょうね。でも、私が言えば信じるわ」
ミキさんが通りかかったウェイトレスに声をかけようとしたとき、突然カウンター内の電話が鳴りだした。唐突さに僕はびくっとしても、「やっと来たわね」とミキさんはほっとしたように電話に出る。相手に窃笑混じりで答え、そのコードレスホンは僕にまわってくる。
「え、あの──」
「伝言、伝わったみたいよ」
伝言、というと──電話を受け取り、そっと耳に当てた。「もしもし」と呼びかけると、『紗月か』と反射的な声がした。喧騒を背後にしたその声は、やはり弓弦の声だ。
顔も見えないし、早口なのが怒っているように聞こえた。「うん」と躊躇いがちに答えると、ため息が聞こえ、『何やってんだよ』とあきれた声調が届く。
「………、だって」
『だってじゃない。今聞いてビビったぜ。大丈夫だったのか。何もなかっただろうな。そこ、夜は危ないだろ。絡まれなかったか。どっか連れていかれそうになったりした? ちゃんと断れたか』
「ミキさんが、その、追いはらってくれて」
『あ、そうか。でも──ったく、何なんだよ』
いつもより口調がきつい弓弦に、電話なのにうなだれてしまう。迷惑だと思われているのだ。それだけで泣きそうになって、目をつむる。「ごめん」とかぼそく言うと、『え』と狼狽えた問い返しをされる。
「何か、ね、家に帰りたくなかったんだ。学校の人と遭ったとこ通りたくなかったし」
『………』
「ごめんね。弓弦には迷惑だよね。僕、もう帰るから」
『は? バカ、ダメだって。帰るなよ。そこにいろ。すぐ行く』
「でも」
『迷惑じゃないよ。ごめん、きつかったかな。何か──ほんとに、何にもなかったよな』
「うん……」
『紗月に何かあったら、どうしたらいいか分かんなくて。なかったなら、よかった。ごめん』
いつもの弓弦の声だ。ほっとしつつ、「怒ってない?」と訊く。『怒ってないよ』と弓弦は優しく言ってくれる。その声を電話で使われると、耳元でささやかれているようでどきどきした。
『紗月に何かした奴がいたら、そいつには怒ってたけどな。すぐ行くよ。待ってろ』
「仕事、いいの?」
『俺の仕事にはトラブルがつきものなの。変更の細工はしてくるんで、三十分ぐらいで行く。待ってないと怒るぜ。いいか、絶対ひとりで出歩くなよ』
「うん」と返すと、『よし』と弓弦の声はやわらぎ、『じゃあな』と急ぐように電話は切れた。僕も受話器を外し、何だかほてっている耳元と頬に伏目になる。
弓弦が来てくれる。そう思うと、安堵の中に息を絞めるものがじわりとした。ミキさんに覗きこまれてどきりとして、電話を渡す。僕の染まった頬にミキさんはおかしそうにしても、揶揄いはしなかった。
僕はスツールの上で身動ぎし、言われた通り、おとなしく弓弦を待っていた。
電話一本であっさり、怖いのはどこかに行ってしまった。
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