虚貝-14

いつでも呼んでいいから

 三十分、とは言ってもそれは目安だったのだろう。弓弦が騒々しく〈POOL〉に駆けこんできたのは、僕につきあうミキさんがあくびを噛み、僕が眠気もなくそわそわしはじめた午前一時前だった。
 弓弦は注文を取るウェイトレスを避け、スツールにいる僕に駆け寄る。曖昧に咲った僕に、切ないような笑みをして、僕の髪に触れた。僕も弓弦もうまく言葉が追いつかず、はにかんだ視線で気持ちを間に合わせる。
 僕の髪に触れた指を頬に落とした弓弦は、僕の顔に不審なものがないかを確かめた。手首や腕にも目を走らせ、ほっとした小さい息をつく。「怖くなかったか」とやっと弓弦が気持ちの一部を言葉にして、「ちょっと」と僕は答える。弓弦は心配そうにして、「大丈夫だよ」と僕は続ける。
「弓弦が来てくれるって分かったあとは、怖くなかった」
 弓弦の瞳に苦しいぐらい深いものがよぎり、けれどそれは、「そっか」という微笑みで一瞬にして紛れた。弓弦は僕の頭をぽんぽんとして、「帰るか」と僕の腕を取る。
 帰る。急に怖くなって視線を怯えさせた僕に、「俺の部屋にだよ」と弓弦は咲う。
「弓弦、の」
「どうせ広いし。あ、嫌ならホテル──」
「弓弦は、いいの」
「嫌なら提案しないって」
「……うん」
「紗月が嫌ならいいんだぜ。どっかに部屋調達してもいいし」
 かぶりを振って、スツールを降りた。トイレに行くほかは座っていたのでふらつきかけ、とっさに弓弦が腕を支えてくれる。
「あ、ご、ごめん」
「いや。っと、じゃあ、」
「弓弦の、部屋がいい」
 弓弦は首肯し、カウンター内のミキさんに目を向ける。
「紗月のこと、守ってくれてありがとうございます。もう普段は上がってるのに」
「弓弦の男の子だもの。お礼なら彼にも言いなさいよ」
「彼。っつうと、来夢。何で」
「彼が紗月くんがここにいるって流したのよ」
「え、そうなのか。俺が聞いたのにはそんなの残ってなかったな。俺の恋人がいるとしか」
 恋人、の語に肩を揺らした僕に、「はずんでるとそういうふうになるんだよ」と弓弦は説く。「そっか」とつい抱いた来夢さんへの曲解を捨てると、「あら」とミキさんは咲う。
「だったら、弓弦にとって紗月くんは恋人なのね」
「はい?」
「彼の名前が添えられてなかったら、恋人なんかいないって受け流すでしょう」
 弓弦は狼狽したふうに口ごもった。僕は弓弦を見つめ、弓弦も僕に横目をする。「最近、そういうふうに揶揄われるし」と弓弦は苦し紛れに言ったものの、結局は、「ごめん」とばつが悪そうに恋人と僕を直結したのを白状した。笑ってしまいながら首を振り、安堵した笑みをした弓弦は、「じゃあ帰ろう」と僕の腕を引いた。
〈POOL〉を出て目の当たりにした人通りは、昼の比ではなかった。夜を鮮やかなイルミネーションで強調し、話し声や笑い声に混じって、音楽も聞こえる。いろんな人が行き来して、熱気が大気に勝っていた。閑静な場所で育った僕は、その雑多な人間に圧倒されてしまう。弓弦が歩き出すと、慌てて追いかけた。はぐれたら最後の人混みだ。
「あいつが流したってことはさ」
 弓弦の隣に並ぶのに懸命になりつつ、顔を上げる。
「逢ったんだよな」
「うん。お客さんと待ち合わせしてた」
「あー、あの予約か。紗月と来夢って、わりとよく逢ってんの」
 首を振り、「初めて逢ったときも合わせて三回」と注釈も入れる。
「っそ。あいつ、ちゃんと紗月と話せてる?」
「うん。今日も僕ひとりだと危ないって教えてくれて、だから弓弦に伝えてあげるよって。僕がいるの知ってて黙ってたら、弓弦に怒られそうって言ってた」
「はは、怒りそう。そっか。紗月とは話せるのか」
 首をかたむけ、「話しかけてくる人とも話してたよ」とつけくわえる。「そりゃあ」と弓弦は笑う。
「客とか淫売だろ。それは商売の一部じゃん。自分養っていくためには、話さないわけにもいかない。プライベートでは、あいつは人間不信なんだ」
「人間不信」
「ときどき、俺は何であいつが生きてられんのかも分かんなくなるよ」
 来夢さんを想った。相変わらず、仕草に空白はあった。「俺がいるからとかあいつは言うんだけど」と弓弦は愧笑し、僕も咲う。来夢さんがどれほどの何を抱えているのかは分からなくても、弓弦が味方にいれば心強いのは真実だ。
「僕もね、ここで死んじゃおうと思ってたんだよ」
「えっ」
「生きてるの嫌で、だけど自殺する勇気がなくて、ここ危ないし、誰かに殺してもらえるかなって。で、来たの」
「そう、なのか」
「うん。今は生きてるほうがいいよ。弓弦がいるから」
 弓弦は僕を見つめ、ついで視線を下げた。その睫毛がどこかつらそうで、不安になる。「嫌だった?」と問うと、弓弦は顔を上げてかぶりを振る。
「何か、分かんなくて。俺、そんなすごくないよ」
「すごいよ」
「………、役立たずだよ」
 そう言った弓弦の横顔に、どきりとした。知らない顔だった。初めて見る顔だ。寂しいような傷ついたような、虚しい──「でも」と僕は弓弦の腕に触れる。
「僕には弓弦は大切だよ。みんなが弓弦を大切って思うかは分かんなくても、僕には弓弦はすごいんだ。僕ね、弓弦に会えなくなるのが怖くて帰れなかったんだよ」
「え」
「親がね、疑ってる。学校に行かないで、どこ行ってるんだって。尾行されたり、乗りこまれたりしたら、僕、恥ずかしくてもうお店に行けないよ。弓弦といるの見て、弓弦のこと調べたりするかもしれない。そんなのされたら、僕は弓弦に合わせる顔がなくなる。それが一番怖かった。帰るほど弓弦といられなくなるかもしれないなら、帰りたくなかった」
 視線が触れ合って、歩調が少し緩む。空は真っ暗でも、きらびやかなネオンで弓弦の前髪の奥が苦しくなったのは見取れる。弓弦は僕の手を取った。「弓弦がいなくなったら」と僕は瞳を落とす。
「死んだほうがいいのに戻るよ」
「………、死ぬなよ」
「うん」
「俺のことは、いつでも呼んでいいから」
 僕はこっくりとして咲い、弓弦も微笑した。僕には弓弦はかけがえのない存在だと、それは理解してもらえたようだ。
 僕は握られた手を握り返し、昼と同じく、流れこんでくる微熱にどきどきする。弓弦は僕の手を引いて道を進んでいった。弓弦と手をつないではぐれる心配がなくなった僕は、夜空に舞い揺れる彩色に目を細める。
 心が楽に息づいていた。夜は孤独だった。閉じこもった部屋で、鬱した思索を強要される魔刻だった。家庭が窮屈だと感じ始め、学校では虐げられ、僕は毎晩、心のきしめきを聞いていた。弓弦といると、そんな自虐は始まらない。軆は鼓動や熱でざわめき、心は弓弦に満ちて、無意味な自虐は抑えられる。夜を怖いと感じないのは、たぶん生まれて初めてだった。
 弓弦の部屋がある雑居ビルには、二十分足らずで到着した。十字路の角にあるビルで、路地に入ったところに入口がある。二階から十階はオフィスで、十一階から最上階はマンションであるという。
 エレベーターを待ちながら、人混みがなくなったので、僕と弓弦は手を離した。弓弦の指がほどけてしまうと、熱の流れが止まって、残念な気持ちになる。それでも今から弓弦の部屋に行くと思うと、自発的な発熱がぼうっと灯る。
 弓弦の部屋は、どのぐらいの人が出入りしたのだろう。夜な夜な新しい人をたらすのを考慮すると、凄まじい数ではないか。やってきたエレベーターに乗りこむと、弓弦は十七階を指定し、くわえ煙草に火をつけた。
 僕は弓弦に、部屋にはどのぐらいの人が出入りしたのか訊いた。「何で」と訝る弓弦に、「いろんな人と寝てるんでしょ」と僕は返す。弓弦はまごついた顔になり、「まあ」と気まずそうにライターをポケットにねじこむと、「ひとりも来たことないよ」と慮外の返答をした。

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