君の部屋へ
「そういうのは、ここではしないんだ。それ抜きにしても、来るのは来夢だけ」
「来夢さん」
「俺のもんはあいつのもんでもあるし。あとは、ほんとに誰も。プライベートなとこなんだ。紗月が初めて」
つい嬉しくなる。寝るために踏みいった人はいないというのも、弓弦が僕を許してくれている実感も。
「昔、ここに越してくる前のとこでは連れこんだりもしてた。部屋っつうか、寝泊まり宿だったし」
「引っ越しとかするんだ」
「うん。ここは三回目の引っ越し。一年ぐらい前か。去年の四月」
「未成年でも借りれるの」
「いや、偽名義。つってもばれてる。俺にごたごた言うと巡り巡って厄介なんで、暗黙の了解になってる」
「……はあ」
ぽかんとしていると、十七階に到着していた。エレベーターを降りると、コンクリート張りの広い空間があり、見渡すとみっつのドアがある。エレベーターから見て一番奥のドアに弓弦は歩み寄り、僕は追いかけた。弓弦は慣れた手つきで鍵を開け、僕を招き入れる。
玄関に踏みこんで弓弦が明かりをつけると、奥の真正面にベッドがあった。頭はその奥の窓辺に沿っていても、横づけはされていない。要するに、部屋の中央にどんと置いてある。
その手前にシステムキッチン、冷蔵庫──床はフローリングで、進むと部屋は左右に展開していた。右は引き戸やドアがあって、バスルームやトイレに行けるのだろう。左はベージュのカウチがあり、それと向き合ってテレビが設置されている。
ベッドにリュックと鍵を放った弓弦は、「そう見るな」とぶしつけにきょろきょろする僕を制する。
「あ、ごめん」
「おもしろいもんじゃないだろ」
そんなことない、と思っても黙っておいた。弓弦は僕を灰皿が放られたカウチに座らせると、「腹減ってない?」と訊いてくる。そういえば、帰らずにどうするかで頭がいっぱいで、夕食を取っていない。昼食のあとに口にしたのは、ミルクティーと十五時のいちごタルトだ。気がつくと空腹が襲ってきて、「空いた」と答える。「何か食べるか」と弓弦はキッチンに行き、僕は再び部屋を見まわす。
男のひとり暮らしにしては、綺麗な部屋だった。というより、生活感がない。あんまり帰ってこない、とは弓弦も言っていた。とはいえ、いろんな人が出入りしている、あけすけなにおいもない。本当にプライベートな場所で、ここでたらしはやらないようだ。
たらし。奥の壁に沿って、一メートル以上離れているテレビを見つめた。弓弦がたらしをするのは、いろんな人と接したいからだと言う。なぜいろんな人と接したいのか、その理由は知らない。そこに交わりを介入させる理由も分からない。仕事を有利にするためというのもなさそうだし、そのまま取ったら、いろんな人と寝てみたい、になってしまう。そして、一度寝たらもういらない──意欲的なのか飽きっぽいのか、紙一重だ。ひとまず確かなのは、寝てしまえば弓弦に属せなくなるということだ。寝たら疎遠にされる。関係も終わる。
こじつければ来夢さんも寝てないもんな、と思っていると、弓弦はインスタントのピザを持ってきた。飲み物は僕はオレンジジュースで、弓弦は透明な酒だ。弓弦がアルコールを日常に取りこんでいることには、何の疑問もなかった。僕のジュースは、酒を割るためにあったものなのだそうだ。弓弦は煙草をつぶした灰皿を肘掛けにやると、ピザをはさんで僕とカウチに並ぶ。
ピザを食べるのは、けっこうむずかしかった。チーズが伸びたりそのチーズに絡まって具が落ちかけたり、ピザぐらい食べたことはあっても、たびたび食べていたものではない。指に熱いチーズを絡ませて焦る僕に、弓弦が苦笑しながらうまく取ってくれる。
「ごめん」
「いや。慣れてないな」
「こういうの、あんまり食べたことなくて」
「え。って、あ、そうか。口合う?」
僕は先をかじってみる。脂がたっぷりなのはいかにも不健康そうでも、おいしかった。そのまま伝えると、脂のくだりに弓弦は笑う。
「そういう家って、ぜんぜんインスタントって食べないのか」
「僕の家はインスタントは禁止だった。お手伝いさんが得意な和食が多かったかな。あと、外食も多かったから、イタリアンのお店でピザは一応食べたことはあるんだけど」
「何かすげー」と弓弦は揶揄い半分に言い、丸めたピザを口に放る。僕は熱いのもチーズをこぼしそうなのもあって、かじるように食べる。
「つっても、紗月には嫌な家なのか。ごめん」
「ううん。そんな料理ばっかりで、こういうの食べるのが下手って、かっこ悪いね」
「そうか? 紗月は、そういう料理のほうが得意なのか」
「得意、というか。作法とかは分かる。味はおいしかったら何でもいいよ」
「じゃあ、こういうのまた買ってくるよ。レンジであっためりゃいいし」
「え」
「『え』って。レンジは使えるだろ」
「う、うん。あ、また遊びにくるってこと」
「は? ここで暮らすんだろ」
ぎょっと口を止めて弓弦を見た。僕の反応に弓弦は怪訝そうに首をかたむける。
ここで暮らす。そんなの考えていなかった。ここに来たのは、今夜ひと晩しのぐだけだと、自覚もないまま認識していた。そもそも、明日どうするかも頭になかった。
「違うのか」
弓弦は口をつけていた瓶を離し、二枚めのピザを取る。
「違う、というか──」
「家、帰りたくないんだろ」
「う、うん」
「じゃあ、ここにいるしかないじゃん」
弓弦を見つめた。見つめ返してくる綺麗な目に、嘘や同情はない。
ここで弓弦と暮らす。もちろん理想的だ。家には帰りたくない。そうして派生するものも二度と身に受けたくない。いまさら帰れば、その瞬間に軟禁生活が始まるのは間違いない。だとしても──。
弓弦は瞳を曇らせ、「帰るのか?」と問うてくる。
「………、弓弦は、いいの?」
「俺」
「だって僕、働いて、生活費はらったりできないよ」
「俺がはらえばいいじゃん」
「弓弦は僕の保護者じゃないし」
「じゃあ、今から保護者なの。決まり。いたってしょうがないとこにはいないほうがいいんだ。虚しいだけだぜ」
どきっとして口ごもる。虚しい。僕のあちらでの生活の印象だ。
「あ、俺の部屋が嫌か。なら、どっかに部屋取ってもいいよ」
それにはかぶりを振った。「そっちでも生活費はやる」と言われてもかぶりを振る。ひとりでいるのはダメだ。外部からの刺激がないと、外界さえ内界になる。
僕は弓弦を見つめ直した。
「迷惑、かかるよ」
「俺には迷惑じゃない」
「もし親に見つかって、訴えられたり」
「俺の人脈には、法律も警察もくそくらえなの。やろうと思えば、紗月の戸籍書き換えて家族と他人にもしてやれるぜ。紗月は、見つかるのより連れ戻されるのが嫌なんだろ」
僕はうなずきかけ、「見つかって弓弦が僕を誘拐したとかになるのは嫌だよ」と言い直す。「ならねえって」と弓弦はしつこい僕をたしなめる。
「俺の心配はしなくていい。紗月なんだよ。家、帰りたくないんだろ」
「ん、うん」
「紗月の家って金持ちなんだよな」
「うん──」
「何で金持ち? 社長か。医者とか弁護士。芸能関係。極道ではないな」
「おとうさんが、会社の役員してる」
「じゃあ、紗月に手え出そうとしたら、その地位殺すって脅す」
「えっ」
「ガキの戯言って信じずに連れ戻したら、マジでやる。ちょっと細工して悪いうわさでも流せばいい。その混乱に乗じて、誘拐しにいってやるよ」
僕はオレンジジュースをこくんと飲む。僕にはいい迷惑でも、両親が僕を連れもどそうとするのは当たり前のことだ。あっちは保護者でこっちは無能力者だ。当たり前のことに、そこまでしていいのだろうか。
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